第42話 第九章「港を閉じる鐘」後編
『道は、傷を避けるためだけにあるのではない。傷を抱えても、行きたい場所へ進むためにある』
「黒旗のザンバ」
『今は灰だ』
「お前が言うか。道を切った男が」
『だから言う』
灰色の旗の影が銀旗へ映る。
『俺は、失うのが嫌で道を切った。最後には、切るものしか残らなかった』
「閉じた輪なら、誰も失わない」
『誰も帰ってこない。誰も出ていないのだからな』
ガルドは鐘の綱を握り直した。
「イオラ」
『うん』
「ナギ」
『うん』
「コヨリ」
「ここ」
「島の者たち」
何百人もの返事。
「ここにいる」
ガルドは深く息を吸う。
七年間、言えなかった言葉を口にする。
「行ってこい」
綱を引いた。
鐘が鳴る。
ごおん――。
いつもの帰鐘とは違う音。
島の中心から外へ。
押し出すような明るい響き。
銀旗の円が開く。
一本の線となり、白迷海へ伸びた。
ガルドはもう一度、綱を引く。
「そして、帰ってこい!」
二つ目の鐘。
ごおおん――。
外へ伸びた線の隣に、帰る線が生まれる。
二本の風路が並び、ワダチの腹へ届いた。
次標旗が燃えるように光る。
「立つ!」
イオラが叫ぶ。
旗竿が岩の裂け目へ沈む。
今度は浮き上がらない。
青い布に、二本の線。
行く道。
帰る道。
「母さん!」
ナギが旗へ手を重ねる。
響瓶の中で、アカリが五回を返す。
今、ここ。
三点の道が開く。
だが、永久帰鐘のために集められた何百本もの旗は、すぐには戻らなかった。
銀旗へ縫いつけた布。
七年ぶんの《帰れ》。
白迷海へ溜まった帰路。
ワダチが、それらを一気に飲み込む。
大広間の床が盛り上がった。
白い鱗。
巨大な尾。
塔の中心からワダチの半身が現れる。
「じいちゃん!」
ナギの声。
ガルドは銀旗を抜こうとする。
抜けない。
旗竿から白い道が腕へ入り込む。
「永久帰鐘が、まだ術を続けている!」
コヨリが銀旗へ縫われた布を切ろうとする。
一枚切るたび、ワダチの鱗が増える。
「切るだけじゃ戻らない!」
ルゥの声が響瓶から飛ぶ。
「旗ごとの行き先を返して!」
「誰の布か、分からない!」
何百枚。
紋が重なり、色が混ざっている。
島の人々は自分の布を見分けられない。
全部を一つへまとめた代償。
ワダチが大広間を締めつける。
町の円路がさらに縮む。
外周の家が中央へ滑る。
「港が閉じる!」
ガルドは鐘の綱へ手を伸ばす。
ワダチの鱗が腕へ巻きつく。
行ってこい。
帰ってこい。
言葉は出た。
けれど、七年かけて作った輪は、言葉一つで消えない。
「カナタ!」
ナギが叫ぶ。
「道は開いた。でも蛇が全部持っていく!」
カナタは白旗を握る。
次標旗から島へ、二本の光路。
その間へワダチの巨大な口。
「帰る!」
旗を突く。
「第一歩号ごと、トマリギ島へ!」
光板が生まれる。
一歩。
その先へ、島から伸びた行きの道。
同じ場所へ重なる。
ワダチが両方へ噛みつく。
往きも帰りも、また輪へ閉じようとする。
ザンバが灰旗を掲げた。
黒い布が、最後の夜のように光る。
「今だ」
「切るの?」
ルゥが訊く。
「輪だけを」
ザンバはワダチを見上げる。
「切った先を、お前たちが道にしろ」
灰旗の黒い点から、細い一本線が伸びた。
昔の《終点》。
最後の一度。
ワダチが口を開く。
島と白迷海。
二つの世界で、同じ咆哮が鳴った。
ザンバの灰旗から、黒い線が走った。
ワダチの首でもない。
尾でもない。
島へ続く帰路でも。
白迷海へ伸びた行路でもない。
閉じた円そのものへ、一つの切れ目を入れる。
「標術――《終点》」
黒い線が、輪の始まりと終わりを分けた。
ワダチが絶叫する。
ごおおおおん――!
鐘の音が割れた。
同じ場所へ戻り続けていた道が、初めて先を失う。
蛇の鱗が一枚ずつ開いた。
青燕号。
家舟。
青い扉の家。
三本柱の桟橋。
逆さ時計の駅。
何百もの帰り道が、輪の外へこぼれ始める。
「散る!」
ルゥが銀鋲を両手いっぱい投げた。
「《継ぎ路》!」
銀糸が、こぼれた道を一つずつ拾う。
同じ場所へまとめない。
青燕号の道は、青燕号の札へ。
ニノの家舟は、赤と青の二本へ。
母を待つ玄関は、その家の記録へ。
ナギが書いた冊子。
イオラの七日ぶんの図。
現標板。
聞いた場所へ、聞いたままつなぐ。
「数が多い!」
ルゥの指から血が流れる。
「私一人じゃ保たない!」
響瓶から、アカリの声。
『名前を送って!』
「何するの!」
『村で数える!』
ナギは冊子を開き、場所を読み上げる。
「青燕号!」
アカリが遠いカゲノハ村の現標板へ書く。
『青燕号!』
「青い扉の家!」
『青い扉!』
「三本柱の桟橋!」
『三本柱!』
一つずつ。
カゲノハ村に関係のない名まで、アカリたちは返事をする。
トウヤが逆さ滝で復唱。
フィオが南橋。
セリが天頂門。
オウギが白杭。
知らない場所を、知らないまま数える。
第三の現在地へ名が残るたび、ワダチからこぼれた道が一つの形を保つ。
「カナタ!」
ルゥが叫ぶ。
「帰路の手前へ一歩!」
カナタは白旗を振る。
「青燕号から、トマリギ島の一歩手前!」
一枚。
「青い扉の家から、その家が返事をする場所の一歩手前!」
二枚。
「三本柱の桟橋!」
三枚。
光板は、どれも最後まで届かない。
最後の一歩を空ける。
「なんで手前!」
島のソラトが響瓶へ叫ぶ。
「弟を連れてきてくれ!」
「本人が踏まないと、帰ったことにならない!」
カナタは答える。
青燕号の船長が、霧の中で三歩を繰り返している。
今、ここ。
ナギが五回鳴らす。
ソラトも島の床を五回叩く。
「兄ちゃん!」
船長ではない。
甲板の若い男が顔を上げる。
五年前、ソラトの弟だった者。
白迷海では年老い。
声だけが、出航の日に戻る。
「兄ちゃん?」
「ここだ!」
ソラトが叫ぶ。
「港にいる!」
若い男が光板へ足を向ける。
一歩。
輪へ戻ろうとする。
ナギが鈴を変える。
五回ではない。
ソラトが子どもの頃、弟と使った漁の合図を聞き出す。
二回。
一回。
二回。
「網を上げろ!」
ソラトが返す。
ソラトの片眼鏡が涙で曇る。怒鳴る前に涙が出て、そのことへさらに腹を立てた。左手で釣針旗を上げ、右利き用だった昔の合図を、弟に合わせて逆向きへ打つ。
途中を任されたいと願ってきた男が、今は最初でも最後でもない、道の中央の一歩を受け持った。
二、一、二。
弟の足が、同じ三歩から外れた。
光板へ乗る。
最後の一歩。
島の桟橋から、ソラトが自分の足を前へ出す。
二人の一歩が、道の中央で合った。
青燕号の船体が輪から抜ける。
「一隻!」
コヨリが叫ぶ。
銀旗へ縫われた布の中から、青燕の印を見つける。
針で周囲の糸をほどく。
切らない。
元の旗へ返す。
ソラトの釣針旗に、青燕が戻る。
島の外周に一つの出航口が開いた。
「自分の布を探して!」
コヨリが大広間の住民へ叫ぶ。
「紋が見えなくても、縫い方は違う! 糸の色! 傷! 端の折り方!」
菓子屋は赤い果物の刺繍を探す。
老女は孫が縫った曲がった糸。
子どもは鳥の尾だけ残った布。
一人ずつ、自分の道を銀旗からほどく。
ワダチの鱗が減る。
だが、蛇はさらに強く島を締めつけた。
閉じた輪を切られ、行き場を失った帰りたい願いが、今度は第一歩号へ集まる。
白旗の中央へ、銀色の円が描かれ始めた。
「カナタの旗を新しい中心にする気!」
ルゥが銀糸を白旗へ巻く。
「全部の帰路が、未踏路へ!」
カナタの腕が島へ引かれる。
帰れ。
戻れ。
今すぐ。
父の村。
出航日の発着場。
変わらない家。
何百人もの帰りたいが、カナタ一人の旗へ重なる。
「俺が全部、帰す!」
白旗を握る。
「だめ!」
ルゥとナギの声が重なる。
「また一人で持つ!」
ナギは半旗へ縫った札を一枚ずつ外した。
母の音。
青燕号。
知らない船。
「返事がある道だけ呼ぶ!」
鈴を鳴らす。
「返事がない道は、今は待つ!」
カナタが振り向く。
「全部帰せない!」
「全部を同じ今に帰したら、また輪になる!」
イオラが次標旗を支えながら叫ぶ。
「帰る場所も、帰る時も、それぞれ違う!」
カナタの白旗へ入った円が、少し揺れる。
青燕号は今。
ニノは今。
青い扉の家は、返事がない。
三本柱の桟橋も。
待つ者がもういない場所もあるかもしれない。
「返事がないことと、いなくなったことを同じにしない」
アカリの声が響瓶から来る。
出航前の言葉。
「でも、今は道を置かない」
カナタは白旗から、青い扉の光板を消した。
記録は残す。
道だけを待つ。
円に亀裂が入る。
ワダチが怒り、第一歩号へ噛みついた。
「前!」
ルゥが叫ぶ。
「見えてる!」
白い牙。
カナタは一歩分の光板を、牙の手前へ出す。
第一歩号が乗り上げる。
船体が跳ねる。
家舟の赤と青の道が左右へ裂けた。
「ニノ!」
二人の子どもが、それぞれの窓から手を伸ばす。
「どっちが帰る?」
赤が訊く。
「二人」と青。
「家に寝台一つ」
「半分ずつ」
「狭い」
「広げてもらう」
二人は窓から出る。
赤い光板。
青い光板。
最後の一歩手前で、二本が近づく。
「手、つなぐ?」
「同じ手?」
「今は別」
二人が手をつなぐ。
最後の一歩を同時に踏む。
光が重なる。
赤と青の布だけが二本残る。
中央に、ニノが一人立っていた。
「どっち?」
カナタが訊く。
「両方」
ニノは左右の首へ二本の布を結ぶ。