第43話 第十章「帰る船、残る船」前編

「覚えてる」

家舟の輪がほどけ、一隻の船へ戻った。

ワダチの胴が半分まで崩れる。

ザンバの黒い線は、まだ輪の切れ目を保っていた。

灰旗の黒布が、一筋ずつ燃える。

「ザンバ!」

カナタが叫ぶ。

「旗が!」

「見れば分かる」

「なくなる!」

「終点の旗は、ここで終わる」

最後の黒布が灰になる。

黒い点だけが、灰旗の中央へ残る。

ワダチの輪が完全に切れた。

蛇の頭と尾が、別々の白い道へほどける。

ごおおおん――。

咆哮ではない。

長く閉じていた鐘が、息を吐く音。

「今!」

ルゥがすべての銀糸を引く。

イオラの次標旗。

ガルドの始標旗。

ナギの鈴。

アカリの現在地。

カナタの未踏路。

別々のまま、一つの仕組みへつながる。

「往きの道!」

ガルドが鐘を一度。

「行ってこい!」

島から外へ、青い風路。

「帰りの道!」

イオラが次標旗を振る。

「帰る!」

外から島へ、白い風路。

二本は並ぶ。

重ならない。

ワダチの残った鱗が、道の両側へ並び直す。

鱗の輪紋は閉じず、中央へ一指ぶんの欠け目を残した。分かれた舌は二本へ戻り、往路と還路を別々に一度ずつなぞる。体温が下がり、白い外殻から小さな抜け殻が落ちた。

ワダチは死んだのではない。閉じた輪を巣にできなくなり、二本の道の間へ、自分だけが眠れる小さな輪を作り直した。船を押し戻すことも、両方を塞ぐこともしない。島の制度が変わったため、生態の使われ方も変わった。

輪ではない。

往きと帰りを見分ける標柱になる。

第一歩号の前に、トマリギ島が現れた。

最後の一歩ぶん、道が空いている。

「ナギ」

カナタは白旗を下ろした。

「ここからは?」

ナギは母を見る。

イオラが頷く。

島を見る。

ガルド。

コヨリ。

待っている人々。

ナギは半分の黄色い旗を抜いた。

「私たちの一歩」

第一歩号の船首へ立つ。

最後の空白へ、自分の足を踏み出した。

ワダチがほどけたあと、白迷海には道が多すぎた。

青い往路。

白い還路。

綱泊へ戻る縄。

朝雲市場へ続く古い風。

どこにもつながらず、現在地だけを保つ細い光。

今まで輪の腹に押し込められていた船が、一斉に外へ出ようとしている。

「全員、トマリギ島へ!」

カナタが白旗を掲げた。

返事は、そろわなかった。

「朝雲市場!」

青燕号のユアン。

「綱泊へ戻る!」

縄守をしていた三隻。

「港の名を思い出すまで、ここ!」

ニノと同じように現在地を失った家族舟。

「トマリギ島!」

イオラを待つ者。

白迷海から早く出たい者。

声が重なる。

綱泊で最も古い縄守ハルムは、トマリギ島の古い名まで覚えていた。

前歯の片方が小さく欠け、笑えば見える。今は笑わず、指を守る布の上から太い結び縄を握っていた。細工仕事で腱を痛めており、布を外せば精度は上がるが翌朝に握れなくなる。

恐怖に触れると完全に黙り、周囲の人数、音、出口を数え直す。船七。返事五種。出口三。すべて数えてから、それでも縄から手を離さない。

「俺は残る」

「島、思い出してるだろ!」とカナタ。

「思い出したから選べる。十一年、ここで迷った船へ五回を返した。綱泊は待合所じゃない。俺が続きを引き受けた港だ」

ハルムは私用と公用の帳面を一冊ずつ縄箱へ置いた。公用には船名。私用には、名前を思い出せない者が好んだ茶や、謝罪のあと普通の食事へ呼ばれたかった自分のことまで書いてある。

「記憶へ閉じ込められる気はない。だから、今の綱泊を選ぶ」

同じ船で縄を守っていた若い船員ユノアは、島へ向く白い道を見た。

幼い火傷で片眉の一部が生えず、黙っているだけで片側の顔が厳しく見える。揺れる甲板に慣れた足は、立っていても僅かに重心を移し続けていた。名札の端を直角へそろえないと話し始められない。

「私は帰る。母に、生きてるって自分で言う」

笑いで誤魔化しかけ、笑い終わる前に食料箱へ手を出す。帰る選択が、今の仲間への裏切りになることを恐れている身体だった。

「縄守は?」とハルム。

「次の人へ渡す。戻るかどうかは、母と話してから決める」

ユノアはハルムの指の形を見て、自分の指でこっそり再現した。人の名を音と手で覚える癖だ。

「家では、たぶん『あたし』って言う。外で覚えた言葉も持って帰る」

昔の名前だけへ戻るのではない。今の呼び名と十一年ぶんの足音を、一緒に母へ渡すつもりだった。

二人は、十一年使った打板と食料箱を分けた。

打板は綱泊へ。

ユノアは自分で名札を帰港船へ置いた。紙の端を直角へそろえ、最後に一度だけハルムの打板を鳴らす。

どちらも相手を裏切ったことにはしなかった。

丸い家舟では、夫婦が島へ帰りたがり、白迷海で生まれた娘が綱泊に残りたいと言った。

「家族は一緒」と母が言いかける。

ナギが鈴を一度鳴らした。

「一緒にいることと、同じ行き先にすることは別」

三人はすぐに答えを出さなかった。

母だけが先に島へ行き、今の家と祖母の返事を確かめる。父と娘は一週間、綱泊を守る。毎夕、二、二、一を返す。七日後にもう一度決める。

帰る者。

残る者。

先へ荷を届ける者。

決めない時間を選ぶ者。

同じ綱泊にいた船は、同じ結論へ並ばなかった。

「ばらばらだ!」

「当たり前」

ルゥは航路図を甲板へ広げた。

「帰る場所が違う」

「まず島へ行ってから分かれればいい!」

「島を通る必要がない船もある」

「帰鐘塔で休める!」

「寄港したら、そのまま島へ引かれるかもしれない」

「直した!」

「今、直したばかり!」

ナギが鈴を五回鳴らす。

声を止めるためではない。

どの船が今どこにいるか、順番に返事を受ける。

「青燕号」

二、二、一。

「綱泊へ戻る三隻」

一、四。

均等な五回。

三、二。

「行き先未定」

不揃いな七回。

「トマリギ島へ帰る船」

何十もの五回。

同じ五回でも、音が違う。

「カナタ。一枚の道へしないで」

「でも、たくさん出したら薄くなる!」

「一歩ずつ」

「遅い!」

「輪へ戻るより早い」

カナタは歯を食いしばる。

自分が大きな道を一枚出せば、全員を運べる。

けれど、その道はカナタが決めた港へしか行かない。

「青燕号!」

ユアンが船首へ立つ。

「どこへ!」

「朝雲市場。荷を渡したら島へ」

「一歩目!」

カナタは白旗を突く。

「朝雲市場の古い標、その手前!」

一枚の光板。

最後までは作らない。

ユアンが自分の船で次の一歩を踏む。

青燕号が紫の風へ乗る。

「綱泊!」

三隻が返事をする。

「今いる縄へ!」

三枚。

それぞれ別の結び目。

「未定!」

「道を作らない」とナギ。

「落ちる!」

「現在地の光へつなぐ」

ルゥが銀糸を伸ばし、決めるまで留まれる小さな網を作る。

「進んでない!」

「決めないことを決めた」

「難しい!」

「今はそれでいい」

ザンバは灰旗の黒い点を、重なりかけた二本の道の間へ置いた。

黒布はもうない。

終点の刃も。

それでも黒い点の横から、髪の毛ほど細い線が二方向へ揺れた。

「今の、標術?」

カナタが振り向く。

「知らん」

「名前!」

「まだ」

《分かれ道》!」

「却下」

《横道》!」

「もっと却下」とルゥ。

細い線は、二本の航路を消さずに少しだけ離した。

同じ場所へ重なれば、また輪になる。

別々のまま進める幅を置く。

ザンバは灰旗を見た。

「終わらせなくても、分けられる」

「三番目の話みたい!」とカナタ。

「まだ三番目の旗はない」とルゥ。

「先に学んだ!」

「忘れる前提で言わないで」

イオラは次標旗を空裂き岬へ残した。

旗そのものを抜けば、開いたばかりの道がまた閉じる。

手首へ青い対糸を巻き、第一歩号へ乗る。

「旗を置いていくの?」

ナギが訊く。

「持って帰ったら、次の場所がなくなる」

「母さんの旗なのに」

「今は、ここへ来る人の旗」

「なくならない?」

「返事をする」

イオラは青い糸を五回叩いた。

空裂き岬の次標旗が返す。

一回目は高く。

二回目は風で遅れ。

生きた場所の音。

「帰る場所は持ち歩かない」

ナギが小さく言う。

「でも、返事は持っていける」

ニノの家舟は、トマリギ島へ向かう列へ入った。

赤と青の二人は、まだ二人のまま。

「島へ着いたら、一人になる?」

「着いてから決める」と赤。

「家の寝台を見る」と青。

「広げてもらう!」とカナタ。

「誰に?」

「レト!」

「本人へ聞いてない」とルゥ。

カナタは反射的に口を閉じる。

「……着いてから頼む」

「少し進歩」とナギ。

最後に、トマリギ島へ帰る船が並ぶ。

第一歩号が先頭へ出ようとする。

ルゥが舵を止めた。

「何で!」

「小さい船から」

「第一歩号が道を作る!」

「横から作れる」

「先頭が!」

「帰る順番で、帰った重さは変わらない」

カナタは前の小舟を見る。

乗っているのは、白迷海で何年も子どもを守った夫婦。

船体は半分しかない。

「先に行け!」

白旗で、小舟の手前へ一歩を置く。

二隻目。

三隻目。

第一歩号は四番目になった。

「四番目!」

「まだ数えてる」とナギ。

「忘れないため!」

「なら、全員数えて」

カナタは後ろを見る。

一隻。

二隻。

何十隻。

戻らない船も。

今は決めない船も。

それぞれの道へ乗った。

全部を同じ港へ連れていけなかった。

けれど、誰の道も消していない。

「トマリギ島へ、四番目!」

カナタが旗を上げる。

「第一歩号、帰る!」

ナギの鈴が先へ五回を送る。