第44話 第十章「帰る船、残る船」後編
遠くの帰鐘塔から、今までとは違う二つの音が返った。
行ってこい。
帰ってこい。
並んだ二本の道が、帰る船を一隻ずつ受け止めた。
トマリギ島には、帰ってくる船の数を数える鐘がなかった。
今までは、一隻ずつ帰鐘に引かれ、同じ港へ戻っていたからだ。
その日。
十二本の到着桟橋へ、違う方向から船が現れた。
一隻目。
小さな雲漁船。
乗員四人。
二隻目。
帆を失った郵便舟。
三隻目。
家族を載せた丸船。
四隻目。
第一歩号。
「俺たち四番目!?」
カナタが船首で叫ぶ。
「道を譲ったから!」とルゥ。
「先頭が!」
「帰る船に先頭は要らない!」
「最初に着きたい!」
「一番目の桟橋、空いてない!」
「二番目!」
「そこも!」
「じゃあ前!」
「四番桟橋!」
第一歩号は第四桟橋へ向かう。
桟橋には、大勢の人。
レト。
サイラ。
ダイラ。
レトは見送りのとき姿を見せなかった同じ桟橋の下から、今は真っ先に這い出してきた。木槌で板を五回。返事は声より先だった。
サイラは到着簿を胸へ抱え、継ぎ目だけを踏む癖を途中で忘れている。ダイラは肩甲骨の裂傷痕を親指でなぞり、帰るか残るかを一つへ決められる恐怖を、黙って足元の荷札を整えることで抑えていた。
旗を永久帰鐘へ結ばなかった者。
結んだまま、自分の道だけ閉じた者。
まだ決められない者。
全員が空を見ている。
帰鐘塔の頂上に、ガルド。
始標旗は閉じた円ではない。
二本の線。
老人は鐘の綱を握っている。
「着くぞ!」
「減速!」
「終路鐘がない!」
「炉を絞って!」
「カナタ、鍋蓋!」
「翼、全開!」
「緩衝板を下ろせ!」
「同じ!」
二枚の鍋蓋が開く。
第四桟橋の綿雲袋へ触れる。
一枚目がへこみ。
二枚目が回転し。
第一歩号の船首を横へ逸らす。
船は桟橋と平行になった。
「働いた!」
「本当に!?」
レトが自分でも驚いている。
次の瞬間、船尾が荷車へ当たった。
一台。
二台。
三台目が港の看板を倒す。
――おかえりなさい、トマリギ島へ。
看板は今回は表向きに倒れた。
「到着!」
「最後が事故!」
「鍋蓋は成功!」
「船全体で成功して!」
ナギは船が完全に止まる前に桟橋へ飛び降りた。
ガルドが塔から下りてくる。
一歩。
一歩。
七年ぶん老いた足。
ナギは途中まで走り。
止まる。
イオラがその横へ立つ。
ガルドも止まった。
三人の間に、一歩ぶんの空白。
「父さん」
イオラが言う。
「遅い」
ガルドの声が震える。
「ごめん」
「七年だ」
「私には十二日」
「こちらには七年だ!」
「うん」
「帰ると言った」
「帰る道を作ると言った」
「言葉を分けるな!」
「分けなかったから、届かなかった」
ガルドの口が閉じる。
ナギが一歩前へ出る。
「じいちゃん」
「何だ」
「母さんへ、言うこと」
老人は娘を見る。
出た朝の姿と、ほとんど変わらない。
自分だけが七年老いた。
それでも、目の前にいるのは記憶ではない。
風で髪が揺れ。
呼吸し。
返事を待っている。
「……おかえり」
イオラの目から涙が落ちた。
「ただいま」
ガルドは娘を抱く。
次に、ナギへ腕を伸ばす。
ナギは一歩下がった。
「私は、まだ」
ガルドの腕が止まる。
「何が」
「七年、話してない」
「今、ここにいる」
「だから、これから話す」
「許さないのか」
「今すぐは」
ナギは母の手を握る。
「でも、帰った」
「そうか」
ガルドは腕を下ろす。
拒絶ではない。
返事を急がせない。
今まで老人が最も苦手だった待ち方。
「待つ」
短く言う。
ガルドは怒ると相手へ椅子を一脚だけ残して距離を取る。今は逆に、自分の椅子をナギの近くへ置き、座らず立った。待つことを制度ではなく、自分の体で引き受けるためだった。
ナギが少しだけ笑う。
「返せるとき、返す」
その横で、サイラが空を見ていた。
第一歩号の後ろには、青燕号がいない。
ほかの帰港船が次々に着く。
弟の船ではない。
サイラは到着簿へ一隻ずつ書く。
名。
時刻。
乗員。
今の行き先。
十六隻目。
白迷潮の裂け目から、青い翼の帆が現れた。
青燕号。
船体には朝雲市場の紫い実を積んでいる。
「寄り道した!」
カナタが叫ぶ。
「本来の道だ!」
ユアンが船首から返す。
サイラの筆が止まる。
弟を最後に見たとき、彼は十九歳だった。
暦の上では二十四歳。けれど顔も声も、出航の日から四十日ぶんしか変わっていない。
二十二歳だったサイラだけが、五年ぶん先へ来たように見えた。
青燕号が第十二桟橋へ着く。
ユアンは船を降りる。
サイラは走らない。
到着簿を抱えたまま、桟橋の中央へ立つ。
「遅い」
「三日って言った」
「五年」
「俺には四十日」
「知ってる」
「朝雲市場へ荷を届けた」
「見れば分かる」
「帰ってきた」
サイラは到着簿を開く。
五年前の頁。
舌へ金属味が広がり、雨圧の偏頭痛が来る。サイラは「聞こえているから大丈夫」と言いかけ、やめた。弟の前でまで症状を記録から外せば、五年間と同じことを繰り返す。
「頭が痛い。だから、ゆっくり話して」
正確さだけでなく、今の自分も到着欄へ入れた。
青燕号。
空白だった到着欄。
今日の日付を書く。
その横へ、別の時刻。
――乗員体感、四十日。
どちらかを消さない。
ユアンは道具箱を姉へ渡すとき、柄を必ず相手側へ向ける癖のまま差し出した。サイラは受け取らず、箱の横へ自分の到着簿を並べる。
「まず読む。私がいない四十日と、あなたがいない五年」
「両方?」
「同じ卓へ置く」
帰ることを、どちらかの時間へ巻き戻さない姉弟の最初の共同作業だった。
「おかえり」
ユアンが泣きながら笑う。
「ただいま」
姉弟は抱き合った。
港のあちこちで、同じ言葉が交わされる。
すぐ言える者。
言えない者。
帰ったのに別の宿へ向かう者。
家族へ会う前に、船の修理を始める者。
変わった町を見て立ち尽くす者。
帰港は、一つの形ではなかった。
ガルドは始標旗の下へ、往還旗を立てる台座を作る。
ナギが青い旗を持ってくる。
「ここ?」
「お前が決めろ」
「じいちゃんの塔」
「島の塔だ」
「今まで自分の鐘みたいに使ってた」
「そのとおりだ」
ガルドは言い訳をしない。
「じゃあ、塔の外」
ナギは十二本の桟橋が見える広場を選ぶ。
中心ではない。
港と町の間。
出る者も。
戻る者も。
残る者も通る場所。
往還旗を立てる。
青い二本線がはためく。
カナタの白旗が、一度だけ同じ方向へ向いた。
「これが二番目!」
「一番目は?」とレト。
「俺の旗!」
「カゲノハ村の旗じゃないの?」
「俺の白旗!」
「村のみんなの道が入ってる」
「一緒!」
「誰のものか一つに決めないほうがいい」とルゥ。
「じゃあ、最初の旗!」
「二番目は?」
カナタは往還旗を見る。
ナギ。
イオラ。
ガルド。
レト。
サイラ。
失踪船。
返事を渡したカゲノハ村。
「みんなの二歩目!」
ナギが頷いた。
「それならいい」
帰鐘塔の鐘が二度鳴る。
一つ目。
行ってこい。
二つ目。
帰ってこい。
どちらか一つだけでは、もう鳴らなかった。
往還旗が立っても、港の仕事は終わらなかった。
むしろ、そこからが始まりだった。
サイラは帰港者へ、昔の住所ではなく《今の島図》を渡した。
道が広がった場所。
家が建て替えられた場所。
持ち主の変わった店。
空いている旅人宿。
待つ者が、もう別の港へ移った家。
「帰ったのに、地図が要るのか」
青燕号の船員が訊く。
「帰ったから要る」とサイラ。
「出た日の島は覚えてる」
「今の島は、今日会う」
船員は古い記憶の上へ、新しい地図を重ねようとした。
サイラが止める。
「隣に置いて」
「同じ島だ」
「同じだから、違いを消さない」
青燕号の若い機関士は、出航前に暮らしていた家へ向かった。
扉の色が違う。
中では、知らない家族が夕食を作っている。
機関士はノックできず、道の反対側で立ち止まった。
家の女が気づく。
「どなた?」
「ここに住んでた」
「いつ?」
「四十日前」
「この家は、五年前に買った」
二人とも間違っていない。
機関士は笑おうとして、泣いた。
女はすぐ家を返すとは言わなかった。
代わりに、出航前の道具箱を倉から出した。
「前の持ち主の名があったから、捨ててない」
「俺の」
「今は、あなたへ返せる」
家ではなく、まず道具箱が帰った。
別の船員は、待っていた恋人がすでに結婚していると知った。
「おかえり」とは言われた。
「待ってた」とは言われなかった。
それでも、二人は出航の日の約束を無かったことにしなかった。
待てなくなった日。
別の人生を選んだ日。
今日会えたこと。
一つずつ話す。
帰るとは、出た日に巻き戻ることではない。
出てから今日までの二本の時間を、同じ卓へ置くことだった。
ニノの家舟は、帰鐘塔の横へ仮泊した。
赤と青の布を首へ結んだニノは、寝台を見て首を傾げる。
一つ。
「二人で寝るには狭い」
「今は一人だろ」とカナタ。
「記憶は二人」
「寝返りも二人ぶん?」
「たぶん」
「広げる!」
カナタが板を持ってくる。
「誰の家舟か聞いてから」とルゥ。
「俺の」とニノ。
「広げていい?」
「うん」
ニノは寝台の端へ古い鍵と星殻片を、いつも同じ順に置いた。役目の道具ではない。秘密基地を作るために集めた子どもの宝だ。
「板の下、隠れる場所も作って」
「寝台だぞ」とレト。
「寝台兼基地」
「用途を増やすな!」とルゥ。
「鍋蓋より安全」とニノ。