第45話 第十一章「二番目の旗」前編
大人より鋭い答えを言ったあと、十二歳らしい要求を忘れない。レトは黙って、折り畳み板の下へ小さな箱を一つ付けた。
「聞いた!」
「成長!」とナギ。
「一歩!」とルゥ。
レトが寝台の横へ、折り畳み板をつけた。
二人ぶんに開ける。
一人で使う日は畳める。
「どっちへ戻るか決めた?」
ガルドがニノへ訊く。
「港の名前、まだ思い出せない」
「なら、ここを帰る場所にするか」
「じいちゃん!」
ナギが睨む。
ガルドは言い直した。
「ここに、今いるか」
「うん」
「探すのを手伝っていいか」
「うん」
「決めるのは」
「俺」
ガルドは頷いた。
帰れ、と命じない。
現在地を先に確認する。
言い直すだけで、老人には長い時間がかかった。
帰鐘塔の大広間には、《返事待ち板》がかけられた。
青い扉の家。
三本柱の桟橋。
逆さ時計の駅。
名の分からない船。
返事がない場所を、消えた場所と決めない。
ただし、毎日すべての道を開こうともしない。
呼ぶ日。
待つ日。
記録だけする日。
札ごとに、今できることを書く。
「いつまで残す?」
パン屋が訊いた。
「待つ者が決める」とガルド。
「待つ人がいなくなったら?」
「島が一度引き取る」
「永久に?」
「次の鐘守へ渡すか、そのとき決める」
永久という言葉を、老人は使わなかった。
夜。
往還旗の前へ、帰港者と島の者が集まる。
昔の話。
今の話。
分からない話。
怒る者。
笑う者。
何も言わず、同じ場所へ座る者。
ナギは母と祖父の間へ座らなかった。
少し離れた階段。
イオラも無理に近づかない。
ガルドも。
同じ広場にいる。
返事を急がせない。
それだけが、三人の最初の夜にできた帰り方だった。
帰ってきた翌朝、ナギは母と喧嘩した。
「七年分、どこから話すの!」
「最初から」
「私が九歳のとき?」
「八歳の誕生日の翌日」
「そこから!?」
「置いていった日の続き」
「長い!」
「七年でしょ」
「母さんには七日!」
「だから聞く」
二人は帰鐘塔の小部屋で向かい合っている。
机には、コヨリが用意した七冊の白い帳面。
一年につき一冊。
ナギが話す。
イオラが聞く。
次に、イオラの七日をナギが聞く。
ただし、最初の一刻で話は三度脱線した。
「九歳の誕生日、じいちゃんが鐘を九回鳴らした」
「九回? 帰鐘は二回一組よ」
「失敗して、島中の船が九回帰ってきた」
「父さん!」
塔の下からガルドが咳払いする。
「風が乱れた」
「じいちゃんが数え間違えた」とナギ。
「風だ」
「八回目で寝た」
「風が眠った」
「言い方!」
イオラは笑った。
ナギは怒った。
笑っている母を見て、また泣いた。
帰ることは、一言で終わらなかった。
ただいま。
おかえり。
そのあとに、置いていかれた日々を互いへ渡す仕事が残る。
ガルドは部屋へ入らなかった。
扉の外に座り、聞こえるところだけ聞いている。
「じいちゃんも入れば?」
「呼ばれていない」
「今呼んだ」
「二人の話だ」
「じいちゃんの話もある!」
ナギが扉を開ける。
老人は逃げなかった。
三人目の椅子へ座る。
帳面が一冊増えた。
帰れと言い続けた七年。
聞かないふりをした鈴。
外へ出ることを禁じた日。
永久帰鐘を決めた夜。
ガルドも、最初から話す。
公用帳と私用帳を初めて同じ机へ置いた。公用には《規則違反》。私用には《怖かった》。同じ日の二行を、どちらも消さない。
夜、ナギが眠ったあと、ガルドは永久帰鐘の鍵を枕元へ置けなかった。手放したふりをして、自分の外向き靴の中へ隠す。喜びを見せれば失うと思う癖も、支配を手放せない癖も、鐘一度では消えない。
翌朝、ナギへ自分から鍵の場所を言った。隠したことまで、現在の返事に含めた。
「長い」とナギ。
「七年だ」
「私が言った!」
昼になる頃、三人はまだ一年目を話していた。
休憩に立ったイオラは、ナギの腰の鈴へ手を伸ばした。
「紐が擦り切れてる。替えるわ」
ナギは反射的に鈴を引いた。
「勝手に取らないで」
「小さい頃は、私が毎朝結んでた」
「小さい頃じゃない」
言葉が強くなり、二人とも黙る。
イオラは伸ばした手を下ろした。
「八歳のナギへ戻すことしか、思いつかなかった」
「十四歳の私を知らないから」
「教えて」
「先に聞いて」
イオラは一度、息を整えた。
「その鈴は、仕事道具?」
「うん。返事を聞く鈴」
「紐を替えてもいい?」
「一緒に選ぶなら」
「色は?」
「青だけじゃなくて、黄色も」
「私の色と、ナギの色?」
「違う。今の往還旗の色」
母の思い出へ戻す色ではない。
今日、二人で選ぶ色。
翌日、イオラは赤い蜜菓子を買い過ぎなかった。丸パン屋で焦げた端を二つだけ選び、低い鐘が聞こえる席をナギに訊いた。
ナギはすぐ「母さん」として正解したことにはせず、「今の好み、一つ覚えた」と帳面へ書く。イオラも、娘の成長へ追いつこうと焦って七年分を一日で埋めない。
イオラは頷いた。
「明日、一緒に買いに行ってくれる?」
「鐘路の点検が終わったら」
「何刻?」
「分からない」
「返せるとき、返して」
「それ、私の言葉」
「今、覚えた」
イオラは自分の帳面へ「鐘路の点検後」とだけ書き、ナギの予定へ勝手な時刻を足さなかった。
ナギも、すぐ許したことにはしなかった。
ただ、翌日の札へ二人の名を書いた。
――鈴紐を選ぶ。返事待ち。
第一歩号は、一か月の修理が必要になった。
「一か月!?」
カナタが港中へ響く声で叫ぶ。
「ワダチに船首と船尾を同時に引っぱられたの!」
ルゥは被害板を見せた。
「主帆二枚、交換。朝火炉の脈管、全交換。現標板の返事欄、焼損。船腹、輪状亀裂が七十二か所」
「飛べる?」
「落ちる」
「方向は?」
「全部」
「面白い!」
「一か月!」
バンロは船首の鍋蓋を外していた。
温石を一つ、冷えた掌へ移す。普段使わない丁寧語が増え始めたため、レトが無言で作業を半分奪った。
「今止まるほうが危ない」
「その言葉が出たら止めるって、師匠が僕に言った」
バンロは一度だけ札の角を爪で弾き、反論を戻した。完成させる仕事を弟子へ渡すことも、港の修理だった。
「これは無事だ」
「やっぱり翼!」
「鍋蓋だけで船を作る?」
「重いぞ」とカナタ。
「本気で考えないで!」
ルゥが二人へ工具を投げる。
その工具をナギが音で避けた。
「今の、見てないよね?」
「飛ぶ前に鳴った」
「工具が?」
「ルゥの指」
「私の癖を聞かないで」
「船に乗るなら必要」とカナタ。
「まだ乗らない」
「一か月ある!」
「一か月後も、すぐは乗らない」
カナタの顔が止まる。
「なんで!」
「帰ってきたから」
ナギは、修理中の帰鐘塔を見る。
銀旗は二本の線を持った。
だが、島に残っていた古い十二本の外航路のうち、往きと帰りの両方を試せたのは空裂き岬への一本だけだった。
青燕号が覚えていた朝雲市場への道は、往きだけ。
残る十本は、行き先を失ったまま。
そこへ、どの港へ行くか決める前の船を受け止める綱泊への縄を、新しい十三本目の鐘路として加えることになった。島側の返し手は、まだ決まっていない。
「母さんと道を立て直す。コヨリと十三本の鐘路を開く。返事待ちの船も探す」
「十三本なら、十三回鳴らせばいい!」
「一本ごとに、外の鐘、島の返し手、往路試験、帰路試験が要る」
「四つも!」
「帰るって、数だけ合わせればできる仕事じゃない」
ナギは十三枚の空白札を並べた。
外の相手が決まった札は三枚。
往復まで確かめた札は一枚。
「第一歩号でやれば早い!」
「第一歩号がいなくても続く形にする」
「俺たち、手伝う!」
「手伝って」
「じゃあ一緒!」
「ずっとはいないでしょ」
カナタは答えられない。
世界の果てへ行く。
逆さ銀樹を探す。
ザンバの行き先は未定。
第一歩号は、修理が終わればまた出る。
「私も出る」
ナギは言う。
「でも、今いる場所の仕事を途中で置いていかない」
「途中は渡せばいい!」
「渡す相手と、どこまでやるか決めてから」
「何日?」
「三か月」
「長い!」
「七年より短い」
「俺の計算!」
「使った」
ナギは笑う。
「三か月後、東風路交換点。第一歩号が来たら乗る」
「来なかったら?」
「呼ぶ」
鈴を鳴らす。
「返事がなかったら?」
「次に返せるまで待つ」
「迷子だったら?」
「探す」
「遭難だったら?」とザンバ。
「もっと大きく呼ぶ」
「距離の問題じゃない」とルゥ。
「気合いは最後!」
ナギが胸を張る。
「うつった!」
ルゥが頭を抱えた。
トマリギ島の道も変わり始めた。
同心円の町へ、外向きの細い道が一本ずつ足される。
最初は空裂き岬。
次は青燕号が覚えていた朝雲市場。
その次は、星灯魚の漁場。
ただし、行き先を思い出せない道もある。
昔の地図へ無理に戻さない。
今いる船乗りへ聞き。
今の風を測り。
新しい次標を立てる。
コヨリは出航口ごとに違う色の旗を織った。
帰る旗は全部同じ銀色にしない。
朝雲市場は橙。
漁場は青。
空裂き岬は黄。
見間違えないため。
行き先の違いを消さないため。
「外へ出ないのに、外の旗を作る」
カナタが言う。
「残る道の仕事」とコヨリ。