第46話 第十一章「二番目の旗」後編
「船に乗らなくても冒険?」
「島を昨日と違う形にしてる」
「それならアカリと同じ!」
「会ってみたい」
「三か月後、一緒に乗る?」
「酔う」
「鍋蓋を増やせば安定する!」
「増やさない!」
港の向こうからルゥが怒鳴る。
ザンバの灰旗からは、黒い布が完全に消えていた。
中央に小さな黒い点。
それだけ。
「終点、なくなった?」
ナギが訊く。
「あの旗の術はな」
「怖くない?」
「何が」
「今までできたことが、できない」
ザンバは少し考えた。
「軽い」
灰旗を持ち上げる。
「切る道を探さなくていい」
「次は何が出る?」
「知らん」
「楽しみ?」
「さあな」
「顔に出てない」
「出さない」
ナギは旗の黒い点を一度だけ指で叩いた。
こん。
返事はない。
「まだ」
「勝手に決めるな」
「次に変わる余地」
ザンバは否定しなかった。
カナタは毎朝、響瓶へカゲノハ村宛ての呼び声を入れた。正しく村へ届いた日には、返事を一つずつ聞いた。
最初の日。
「島へ着いた! 蛇を切った! 船が一か月壊れた!」
『村の話を先に聞いて』
「朝葉機関!」
『二枚目を直した。今は四枚とも違う音』
「全部違う!?」
『一枚目が高い。二枚目は低い。三枚目は長い。四枚目は途中で止まる』
「壊れてる!」
『今はそれで光が合う』
二日目。
「旅人宿の屋根、まだ緑?」
『昨日、半分だけ茶色』
「もう変わった!」
『雨漏りしたから』
三日目。
「南橋の手すり!」
『一本増えた』
「二本増えたって書いてた!」
『出航の日から三本』
「帰るまで何本になるんだ!」
『帰る日に数えて』
カナタは、村が自分を待つだけの場所ではないことを、毎朝一つずつ聞いた。
それでも話したいことは多い。
村の返事を一つ聞く。
島の出来事を三つ話す。
比率はまだ悪い。
アカリは毎回、最初に現在地を返した。
今、ここ。
少なくとも、今響いているカゲノハ村の返事は、カナタの記憶にある一日へ固定されていなかった。
呼ぶたび、違う今日の音が返った。
第一歩号を直す一か月のあいだに、トマリギ島の町は輪ではなくなった。
帰鐘塔へ向かう同心円の道は残っている。
その輪を横切り、外へ向かう細い道が一本ずつ増えた。
朝雲市場へ。
空裂き岬へ。
綱泊へ。
星灯魚の漁場へ。
行き先の決まっていない道には、終点の代わりに小さな札が立つ。
――続き、未定。
「道なのに決まってない!」
カナタが札を見て言った。
「決まるまで使わない道」とレト。
「作った意味は?」
「次の人が書ける」
「四番目の旗みたい!」
「まだ二番目」とルゥ。
「先に覚えた!」
「あとで忘れないで」
レトの港工房では、帰港船の板と島の白雲材を組み合わせていた。
板の厚さも。
しなり方も違う。
見習いが訊く。
「全部同じ板にしないの?」
「違う場所で曲がるほうが、全部一緒に割れない」
レトは第一歩号を直したときの言葉を、自分の言葉へ変えて教える。
コヨリは出航口ごとに違う色の旗を織った。
帰る旗を全部銀色にしない。
朝雲市場は橙。
空裂き岬は青。
綱泊は、どの船の色も混ぜない白い縁だけ。
「島に残るのに、外の旗ばかり作るんだな」
カナタが言う。
「残るから作れる」とコヨリ。
「船の人は、持っていった旗しか見えない。私は戻ってきた全部を比べられる」
「乗らない冒険!」
「島を昨日と違う形にする仕事」
「アカリと同じ!」
「会ってみたい」
「第一歩号へ乗る?」
「酔う」
「鍋蓋を増やせば安定する!」
「増やさない!」
港の向こうからルゥが怒鳴る。
帰鐘塔では、ガルドが鐘を一人で鳴らすことをやめた。
朝の《行ってこい》は、出航者が最初の綱を引く。
夕の《帰ってこい》は、待つ者が二つ目を引く。
誰も出ない日は、一つ目を鳴らさない。
待つ者がいない船には、サイラが到着簿を持って二つ目を鳴らす。
島そのものが返事をするために。
イオラは空裂き岬と島を往復し、中継鐘を増やした。
一人で白迷海へ入らない。
二隻以上。
島に返事をする者を残す。
出航前に、帰港予定だけでなく、返せないときの合図を決める。
「母さん、規則増やしすぎ」
ナギが帳面を見る。
「帰れなかった人が作る規則だから」
「じいちゃんより多い」
「閉じる規則より、開く規則は細かい」
「分かりやすく!」とカナタ。
「外へ出る方法は一つじゃない」
「それ!」
第一歩号の現標板からは、毎朝カゲノハ村へ呼び声を送った。
正しい返事が来る日は、まだ少ない。
試作《連標》は、三つの現標板を使う。
カゲノハ村。
トマリギ島。
第一歩号。
途中に、空裂き岬の鍋鐘と、綱泊の打板。
五回の現在地を、いる者が次へ渡す。
誰もいない日は、そこで止まる。
止まった場所も記録する。
一日に十回試すと、二回は南橋へ戻り、三回は帰鐘塔の残響へ混じり、二回は綱泊の別の船へ着いた。返事なしが二回。正しい宛先へ届くのは、残る一回ほどだった。
アカリは誤配した札も捨てず、どの杭で曲がったかを書いた。
ナギは、違う相手から返った音を一つへまとめなかった。
ルゥは、その日の組み合わせを翌日まで固定しなかった。
まだ、誰も完成した仕組みとは呼ばなかった。
ある朝、紙札が濡れずに届いた。
「アカリ!」
カナタが取る。
「読める?」とナギ。
「名前!」
「ほかは?」
「ルゥ!」
「覚えなさい!」
ルゥが紙を読む。
「『トマリギ島へ。返事の道、届いた。カゲノハ村、現在地、朝見台を建設中』」
「朝見台?」とナギ。
「枝葉の間へ鏡を立てて、朝日を村へ入れる場所」
「前からあった?」
「なかった」
「『旅人宿、五人。南橋、出航の日より六歩広い。発着場の階段、八段増えた』」
「増えすぎ!」
「第一歩号がぶつからないように」とザンバ。
「階段はぶつかる!」
「『ルゥの古い机、見習いセノが使用中。隣の作業台、ハルガが勝手に広げた』」
「勝手に!」
ルゥは怒っている。
口元は少し笑っている。
「『ザンバの弁償、南橋四歩ぶん減少。泣いた子ども、十五人』」
「さらに二人」
ザンバは数える。
「『カナタの家、旅人の荷物を一時保管。部屋は毎週、窓を開けてる』」
「俺の部屋が倉庫!」
「空いてるから」とルゥ。
「帰る!」
「今?」
「荷物をどかす!」
「世界の果ては?」
「どかしてから!」
ナギが笑う。
「帰りたいって言う割に、今の村のこと、聞いてなかったね」
「紙に書いてある!」
「アカリが書かなかったら?」
「帰ってから聞く!」
「帰る前にも返事できる」
ナギは鈴を指す。
「何を聞きたい?」
カナタは紙を見る。
朝見台。
広くなった橋。
知らない見習い。
荷物の入った自分の部屋。
同じ村。
自分の知らない今。
「朝見台、どこ!」
「一つ」
「旅人、誰!」
「二つ」
「俺の部屋に何置いた!」
「三つ」
「父ちゃんの旗、まだ門!」
「四つ」
カナタは少し考える。
「アカリは、次どこへ配達する?」
「五つ」
ルゥが質問を紙へ書く。
カナタは、自分の冒険を先に書かなかった。
鐘を五回。
紙を返事の道へ乗せる。
答えはすぐ来ない。
アカリは朝見台の位置を確かめ。
旅人へ名を聞き。
荷物の持ち主を調べ。
天頂門へ配達し。
翌日、五つの答えを返す。
「遅い!」
「今を確かめてる」とナギ。
「聞かれた瞬間の答えじゃない」
「昨日の答え!」
「昨日まで調べた、今日の返事」
「難しい!」
それでもカナタは、届いた紙を船室の壁へ貼った。
昔の村の地図の上へ重ねない。
隣へ。
出航の日の村。
今返事をしている村。
どちらも捨てずに持つ記録だった。帰る日にどちらをどう使うかは、まだ決めない。
返事は、呼ばれた瞬間に同じ言葉を返すことではない。
今いる場所を確かめ、自分の声で返すことだった。
一か月後。
ナギは十五歳になった。
トマリギ島の十五歳の儀式は、帰鐘塔の頂で行われる。
昔は、銀旗へ向かって自分の道標旗を掲げた。
どんな紋が出ても、最初の風は塔へ帰る。
今年から、頂の窓が二つ開いている。
一つは島の内側。
一つは外。
「どっちを向く?」
ガルドが訊いた。
ナギは真ん中へ立つ。
音の多い儀式場では、片耳に栓、片耳に鈴。舌先で五拍を数え、右手で旗を上げ、左手へ青い帳面を持つ。緊張で片目が閉じ、二つの窓の奥行きが一瞬分からなくなった。
「右が外」とイオラ。
「左が島」とガルド。
「真ん中が今のナギ」とコヨリ。
三人の声を借りて立つ。聞こえる者が、いつも一人で場所を決める必要はなかった。
「両方」
「窓は二つだ」
「体を横にする」
「落ちるぞ」
「じいちゃんが支える」
「自分で立て」
「支えて」
「どっちだ」
「両方!」
ガルドはため息をつき、孫の腰へ安全縄を結んだ。
イオラは新しい白い旗を渡す。
十五歳になる者が、自分の紋を受け取るための布。
ナギはずっと、母の半旗を持っていた。
それは桟橋へ二番目の旗として立っている。
今日の旗は、誰かから預かったものではない。
何も描かれていない。
「空白」
カナタが嬉しそうに言う。
「俺と同じ!」
「まだ儀式前!」
「空白仲間!」
「うるさい!」
ルゥが工具箱でカナタを塔の端へ押す。
第一歩号の修理は終わっている。