第47話 第十二章「行ってきますの鐘」前編

船首の鍋蓋は、以前より一指ぶん大きい。

ルゥは認めていない。

バンロは完成祝いだと言っている。

ザンバは灰旗を肩へ担ぎ、窓の間に立つ。

コヨリは儀式用の帯をナギへ巻いた。

外の色を七色入れた布。

島に残る者が織った、出ていく者の帯。

「行き先を言え」

ガルドが鐘守の声で告げる。

ナギは白旗を掲げた。

「今は、トマリギ島」

最初に現在地。

「三か月後、東風路交換点」

次の一歩。

「そのあと、第一歩号」

役目。

「世界の果ては?」

カナタが小声で訊く。

「船に乗ってから聞く」

「今決めよう!」

「儀式中!」

「静かに」と全員。

ガルドは二つの窓の鐘を鳴らした。

一つ目。

外へ送る音。

二つ目。

内へ返す音。

ナギの白旗が風を受ける。

布の中央に、小さな点が一つ浮かんだ。

そこから、細い輪が広がる。

閉じない。

一か所だけ切れ目を残す。

切れ目の向こうに、もう一つの小さな点。

二つの点の間を、波のような線が往復する。

「紋が出た」

イオラが笑う。

ナギの腰の鈴も鳴る。

ちりん。

遠く、港の二番旗が返す。

こん。

さらに響瓶。

カゲノハ村から、アカリの五回。

今、ここ。

旗の波が三つの音をつなぐ。

ナギの耳に、声がはっきり届いた。

『誕生日、おめでとう』

「アカリ!」

『聞こえる?』

「聞こえる!」

今までの響瓶より、近い。

ただし、ナギが返事を止めると声も消える。

旗が相手を勝手に呼び寄せない。

つながりのある標へ呼び声を送り、相手が返したときだけ音路を開く力。

「標術――《響路》

ナギは自分で名づけた。

開いた輪は、呼び声を勝手に正解へ変えない。問いが悪ければ、返る音も曖昧になる。音が多過ぎれば頭痛が起き、願いが強ければ母の声を聞きたい形へ寄せる。

だからナギは力の説明を、能力の誇りではなく手順として口にした。

「呼ぶ。待つ。変わった返事を聞く。分からないときは分からないまま残す」

青い帳面には四つの欄を作った。聞こえた音そのものを書く《事実》。音から考えた《推定》。相手が自分で答えた《本人確認》。まだどこにも置けない《未確認》。ナギは同じ音を、二つの欄へ重ねて書かないことにした。

「響路士!」

カナタが真っ先に叫ぶ。

「予定じゃなくなった!」

「見習い」とルゥ。

「どうして!」

「船の機巧をまだ三回壊した」

「二回!」

「昨日、響瓶を逆につないで自分の声を一刻聞いた」

「残響の試験!」

「失敗!」

ガルドはナギの旗へ、小さな銀の留め具をつけた。

「鐘守見習いの証」

「島に残る証?」

「島へ戻れる証」

「船に乗っても?」

「乗るから必要だ」

ナギは祖父を見る。

「行っていい?」

ガルドの喉が動く。

一か月前より、言葉は早く出た。

「行ってこい」

「三か月後」

「帰ってこい」

「帰るって決めたら」

「それでいい」

イオラは娘へ小さな青い帳面を渡した。

白迷海の七日ぶんの記録。

コヨリの七年ぶんと同じ大きさ。

「船で聞いた音を書いて」

「母さんも?」

「島で聞いた返事を書く」

「交換する?」

「帰ったとき」

「試作《連標》で送れば早い」

「手書きも欲しい」

「欲張り」

「親子」とカナタ。

「今の話で分かったでしょ」とルゥ。

「髪の色が同じ!」

「今回は合ってるのが腹立つ!」

儀式のあと、ナギは第一歩号へ正式な役割札をつけた。

――響路士、ナギ。

ただし、乗員欄ではない。

現標板の縁。

アカリの地上連絡札の隣。

――合流予定、三か月後、東風路交換点。

「今乗れ!」

カナタが札を乗員欄へ移そうとする。

ナギが戻す。

「今は島」

「席が空く!」

「空けといて」

「誰か座ったら?」

「返事を聞かない人を座らせないで」

「ザンバ!」

「俺は船尾だ」

「ルゥ!」

「操舵輪」

「俺!」

「船首から落ちる」

「席いらない!」

ナギは第四の椅子へ、小さな鈴を一つ結んだ。

鈴の下には、初めて聞いた声の小石を三つだけ置く。カナタの大き過ぎる一音。ルゥの工具箱三打。ザンバの椅子が半指動く低い擦れ。

席を予約するためではない。三か月後、同じ人たちの音が変わっていることを聞くための基準だった。

自分がいない間も、空席が役目を忘れないように。

響瓶は、帰鐘塔の新しい部屋へ一つ。

第一歩号へ一つ。

カゲノハ村に一つ。

三つの現標板が、試作《連標》でつながる日がある。

まだ声は途切れる。

風が乱れる。

杭が緩む。

誰も返事をしない日もある。

一日に何度も宛先を間違え、正しく届いたあとで別の鐘へ返ることさえある。

それでも、トマリギ島は試作《連標》の最初の島外中継点になった。

コヨリは大きな布地図を壁へかける。

カゲノハ村。

東風路交換点。

トマリギ島。

空裂き岬。

青燕号が覚えていた朝雲市場。

線は、まだ細い。

ところどころ途切れている。

「網みたい」

ナギが言う。

『まだ網じゃない』とアカリの声。

「大きい名前をつけよう!」とカナタ。

「複数の宛先を混ぜずに扱えるようになってから」とルゥ。

『今は、三地点の試験図』

「増やす!」

「一つずつ」とナギ。

「同じ!」

「違う!」

遠い場所で、アカリも笑った。

呼び声。

返事。

現在地。

三つを持つ細い試験路が、世界の枝の間へ伸び始めていた。

ナギの十五歳の儀式から、第一歩号の出航日は三度延期された。

一度目。

修理した帆が、帰鐘塔の二つ鐘へ共鳴して勝手に開いた。

二度目。

カナタが船首の鍋蓋へ《往還翼》と彫ろうとし、レトに工具を没収された。

没収した鑿をレトは柄から返し、代わりに船底の帰還板へ自分の小さな刻印を打った。出航者の名ではなく、帰還者が最初に踏む板へ残したかった印だ。

「勝手に名前を書くな」とルゥ。

「名前じゃない。戻った重さを聞く印」

「俺の翼には?」

「ない」

「差別!」

三度目。

ザンバの弁償報酬を、カゲノハ村へ送る初めての荷便が出た。

「俺たちの船より先に荷物が出た!」

「帰る道を先に確かめる」とルゥ。

「俺たちが行けば確かめられる!」

「目的地が反対!」

荷便には、トマリギ島の白雲材。

朝雲市場の紫い実。

綱泊で編んだ縄。

ガルドから、オウギ親方への鐘路図。

サイラから、アカリへの到着簿の写し。

ザンバの報酬袋。

そして、ナギから一枚の手紙。

――アカリへ。

――返事がない日も、現標を残す方法を一緒に考えたい。

――今度、第一歩号へ乗る。

――船長は大声。

「最後いらない!」

カナタが読んでもらって抗議する。

「現在地の説明」とナギ。

「俺は場所じゃない!」

「音の目印」

「役に立つ!」

「喜ぶんだ」とレト。

出航前夜。

ナギは第一歩号の四つ目の寝台へ、小さな鈴を一つ置いた。

自分の鈴ではない。

トマリギ島で作った新しい対鈴。

片方は船。

片方は往還旗の根元。

「これで、離れても返事できる」

「今乗ればもっと近い!」とカナタ。

「近すぎると、船長の声しか聞こえない」

「大きいからな!」

「褒めてない」

イオラが船室の入口へ立つ。

「ナギ」

「何」

「行きたいなら、行っていい」

「母さんは?」

「十二日ぶん休む」

「七年ぶん話す」

「逃げない」

「じいちゃんは?」

「逃げないよう、鐘へつなぐ」

ガルドが後ろから来る。

「人を鐘へつなぐな」

「七年前、私の道を勝手につないだ」

「その話は明日」

「今日は?」

「出航準備」

三人の会話は、以前より続くようになった。

決着はつかない。

途中で鐘の仕事へ移り。

夕食へ行き。

翌日また同じ場所から始める。

終わらないのではない。

続けると決めた会話だった。

「三か月後」

ナギがカナタを見る。

「十三本の鐘路を開いて、母さんと白迷海を一往復して、じいちゃんへ三十回怒ったら、追いつく」

「三十回でいいのか?」

「最初の分」

「世界の果てにいるぞ!」

「返事をして」

「毎日五回!」

「返せない日もある」

「ない!」

「ある」とルゥ。

「でも、今いる場所は残す」

ナギは四枚目の役割札を現標板へ差す。

響路士見習い、ナギ。

合流待ち。

「札だけ先に乗せる」

「二歩目だな!」

「何が?」

「ナギが来る道の!」

「最初の一歩は私が決める」

「じゃあ俺が二歩目!」

「先頭を取らない?」

「二歩目も前だ!」

「少しだけ学んだ」とザンバ。

「かなり!」

「今のは三番目の話に近い」とルゥ。

「まだ三番目はない!」

「だから先の話をしないで!」

夜の港へ、二つ鐘。

行ってこいではない。

帰ってこいでもない。

点検の短い音。

新しい往還旗が、静かに二本の線を光らせる。

ナギは第一歩号の船縁へ手を置いた。

「帰ってこられる場所、増えた?」

「おう!」

「カゲノハ村と、トマリギ島」

「第一歩号も!」

「船は動く」

「今はここ!」

「明日は違う」

「でも返事できる!」

ナギは頷く。

「帰ってこられる場所が増えるほど、遠くへ行ける」

カナタが言った。

「誰の言葉?」

「今、俺が考えた!」

ルゥが白い帳面へ書く。

「忘れないように」

「俺、覚える!」

「東も覚えて」

「それは地図!」

「地図も覚えて!」

笑い声が、夜の港へ響く。

遠くのカゲノハ村から、五回の返事。

アカリの翌日の答えが届いた。

朝見台は、村の南東。

旅人は、上層港の鐘職人一家。

カナタの部屋には、白迷海の古い地図が置かれた。

アステルの旗は今も天頂門。

アカリの次の配達先は、朝見台のさらに外。