第48話 第十二章「行ってきますの鐘」後編
――まだ道がない場所。
カナタは紙を読み上げてもらう。
「アカリも外へ行ってる!」
「村から出てない」とルゥ。
「村の外へ!」
「境目が広がってる」
ナギが言う。
「カゲノハ村も、出航の朝のままじゃないんだね」
カナタはカゲノハ村の方角を見る。
目には何も見えない。
頭の中には、昔の村が浮かぶ。
暗い広場。
苔灯り。
父の家。
けれど、紙に書かれた今の村は違う。
「帰ったら、見る」
「その前にも聞く」とナギ。
「聞く!」
今度は迷わず答えた。
帰港から一か月と四日目の朝。
トマリギ島には、出航口の土台が十三か所できていた。
到着口は十二か所のままだった。
十三本のうち、外の鐘と島の返し手がそろい、往きと帰りの試験まで終えた鐘路は四本だけ。
残りには白い試験旗が立っている。
「十三か所作って、使えるのは四本?」
ルゥが新しい案内板を見上げる。
「往きだけなら使える。でも、帰りの返事まで確かめてから開通にする」とナギ。
「十三本目は?」
「綱泊。帰る港を決める前の船が、今いる場所を失わないための鐘路」
「行き先がない!」
「決まる前の場所」
「途中へも道を作る!」
「だから、三か月残る」
島の道も変わった。
同心円だった町には、外へ向かう放射状の道が増えている。
行き止まりには小さな旗。
住民が自分の行き先を書き足している。
朝雲市場へ。
星灯魚の漁場へ。
歩く島の花畑へ。
青燕号の弟と釣りへ。
見たことのない赤い果物を探しに。
何も決めず、港の外を一周して戻る。
帰鐘塔の鐘は、一日に二度鳴るようになった。
朝は「行ってこい」。
夕は「帰ってこい」。
どちらか一つだけでは、港の道は開かない。
第一歩号は、新しい出航桟橋に停まっていた。
船体の輪状亀裂は直り。
帆は張り替えられ。
現標板には新しい返事欄。
船首には鍋蓋が二枚。
以前より一指ぶん大きい。
「なんで増強されてるのよ!」
「港の職人が分かってる人だった」
「分かってない!」
バンロは腕を組む。
外套の温石はレトへ一つ預け、今日は指二本ぶん右へ置く飲み物もない。役目を終えたあとに次を決めない日を、半刻だけ試すつもりだった。
それでも第一歩号が浮く音を聞くと、右上を見て無音で歯を見せる。笑い終えてから、いつものように言った。
「面白い」
「重錨としても使える」
「聞いてない!」
「風受けにも」
「それは聞いた!」
「鍋にも」
「使わない!」
カナタとルゥの言い争いを、見送りの人々が笑う。
イオラは帰鐘塔の新しい航路師になった。
空裂き岬の次標旗と始標旗を使い、失われた船の捜索を続ける。
ただし、一人で白迷海へ入らない。
必ず二隻。
現在地を返す者を島に残す。
出る前に、帰る予定ではなく、返事をする方法を決める。
「本当に乗らないのか?」
カナタが、今日だけで十二回目に訊いた。
「今日だけで十二回目」とナギ。
「十三回目なら変わるかもしれない!」
「変わらない」
「十五歳になった!」
「なった」
「響路士!」
「見習い」
「席もある!」
「鈴を置いた」
「本人がいない!」
「三か月後」
「長い!」
「七年より短い」
「それ、俺の言葉!」
「便利」
ナギは腰の新しい旗を軽く叩いた。
開いた輪と二つの点。
呼び声と返事。
「母さんと七年分、まだ一年目の途中。十三本の鐘路は、往きと帰りの試験が終わったのが四本だけ。残り九本は、返し手か外の鐘が足りない。カゲノハ村との試作《連標》も、一日に何度も宛先を間違える」
「俺たちと同じ!」
「だから直す」
「船で!」
「島から」
カナタは桟橋の二番旗を見る。
黄色と青。
外へ向く線。
帰る線。
「残る?」
「今は」
「ずっと?」
「三か月後に出る」
「出たあと?」
「そのとき決める」
「アカリみたい」
「返事をする人は、似るのかも」
ナギは笑う。
響瓶が鳴った。
からん。
ころん。
長い音。
途中で止まる音。
今の朝葉機関。
続いて五回。
カゲノハ村。
今、ここ。
ナギは響路を開く。
「アカリ!」
『聞こえる』
「第一歩号、出る!」
『現在地は?』
カナタが現標板を叩く。
「トマリギ島、四番出航桟橋!」
『次の行き先は?』
「世界の果て!」
「今日の行き先!」とルゥ。
航路図を広げる。
トマリギ島から東。
季節ごとに位置を変える三つの歩く島。
その手前にある、東風路交換点。
「まず交換点。水と食料を積む。その先で、三脚群島の位置を調べる」
「歩く山!」
「島!」
「山みたいな島!」
「今は交換点!」
『カナタ』
アカリの声。
「何だ!」
『村の話』
カナタは、言われる前に考えた。
「旅人宿の屋根!」
『今は全部、茶色』
「緑は!?」
『下塗りになった』
「朝葉機関!」
『四枚目を交換。最後まで鳴る』
「南橋の手すり!」
『昨日一本外した』
「増えたり減ったり!」
『使う人に合わせてる』
「ルゥの机!」
ルゥが顔を上げる。
『引き出しをもう一段増やすって』
「止めて!」
ルゥが響瓶へ飛びつく。
「高さが合わなくなる! 一段目の裏に銀鋲の穴があるから、そこから二指下へ補強板! 勝手に原図へ戻さないで!」
『伝える』
「帰ったら私も決める!」
『待ってる』
ザンバが響瓶の横へ立つ。
『ザンバ』
「何だ」
『子どもたちが、弁償板へ一か月ぶん増やした』
「俺は何も壊していない」
『第一歩号が壊した分。監視役』
「船長へ回せ」
「俺!?」
『帰ってきたら決める』
アカリの声が少し笑う。
カナタは現標板の帰着欄を見る。
カゲノハ村の絵。
出航時とは、もう違う。
緑だった屋根は茶色。
南橋の手すりは増えて減った。
ルゥの机は変わり続ける。
トマリギ島は、七年前と同じ形ではイオラを待っていなかった。
カゲノハ村の返事も、出航の日と同じ音ではない。カナタは、それを自分の帰る日にどう扱うか、まだ決めていない。
それでも、返事は来る。
「アカリ!」
『何』
「行ってきます!」
少し間。
『行ってこい』
さらに、村中の声。
『帰ってこい!』
カナタは腰の鐘を五回叩いた。
今、ここ。
アカリが返す。
ナギも。
トマリギ島の人々も、桟橋を五回叩く。
同じ場所にはいない。
同じ道へ進むわけでもない。
それでも、互いの現在地を数えてから出る。
ルゥは現標板へ、今日の札を差した。
――船名、第一歩号。
――現在地、トマリギ島、四番出航桟橋。
――乗っている者、カナタ、ルゥ、ザンバ。
――地上連絡、アカリ。
――響路士、ナギ。合流予定、三か月後。
――次の行き先、東風路交換点。
――返事、あり。
「空席、消すなよ!」
ナギが第四の椅子の鈴を鳴らす。
「誰も座らせない!」
カナタが言う。
「荷物は?」とルゥ。
「荷物も!」
「椅子は使う」
「ナギの席!」
「三か月空いてる!」
「ザンバの椅子を使え!」
「断る」とザンバ。
「日除けごと固定されてる!」
「外せ」とルゥ。
「俺の席がなくなる!」
「船長は船首!」
「落ちる!」
「いつも!」
レトは見送りの列にいなかった。第一歩号の真下、桟橋板の裏で最後の留め具を締めている。船が浮き、影が板から離れてから、ようやく木槌を五回。
こん。こん。こん。こん。こん。
ナギは姿を探さず、音へ五回返した。レトが乗りたかった気持ちも、残ると決めた仕事も、どちらも見ないふりにしない返事だった。
出航の鐘が鳴る。
ごおん――。
「行ってこい!」
ガルドが叫ぶ。
港中の旗が外へ向く。
第一歩号が桟橋を離れる。
朝火炉が輝き、色違いの帆が膨らむ。
今度は静かに浮いた。
一歩。
二歩。
何も壊さない。
「成功!」
カナタが叫んだ瞬間、船首の大きくなった鍋蓋が、四番出航口の上へ束ねてあった鐘路試験旗の索を引っかけた。
十三枚の試験旗が、第一歩号の後ろへ一列に飛ぶ。
「外の色!」
カナタが喜ぶ。
「返してぇぇぇ!」
コヨリの絶叫。
「三か月後!」
「今!」
「帰る道がある!」
「弁償が増える!」
ナギは桟橋の先へ走った。
二番目の旗の隣で、響路の旗を掲げる。
「三か月後、東風路交換点!」
「迎えに行く!」
「迷子にならないで!」
「広く探す!」
「返事して!」
「五回!」
カナタは船尾へ走り、鐘を叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
ナギも五回返す。
音は風に消える。
響路だけが、細い震えを船へ運ぶ。
第一歩号は、外へ向かう風路へ乗った。
振り返っても、港へ引き戻されることはない。
帰る道があるからこそ、行く道を選べる。
カナタは前を向く。
地図のない空。
三か月先に待つ、新しい仲間。
遠くで変わり続ける故郷。
「よし! まっすぐ西!」
「東よ!」
「最初から反対!?」
第一歩号が急旋回する。
船首の鍋蓋から、十三枚の試験旗が一斉に外れ、雲海へ舞った。
「俺の帰り道!」
「鐘路の試験旗!」
「拾う!」
「戻らないわよ!」
「帰る道があるだろ!」
「旗のために使うな!」
笑い声を残し、船は白い雲の向こうへ進んでいく。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
けれど、一歩だけでは、それは足跡だ。
誰かが返事をし。
二歩目を重ね。
出ていく者と、残る者の間に、往きと帰りの道が生まれる。
世界の果ては、まだ遠い。
帰ってこられる港は、もう一つ増えた。
そして、第一歩号の空いた四番目の椅子では、小さな鈴が三か月先の返事を待っていた。
了