第49話 第一章「東風路交換点」前編
道がないなら、最初の一歩になればいい。
誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。
けれど、三歩目まで同じ足跡を踏む必要はない。
別の方角へ進む一歩があるから、道は一本の線ではなく世界になる。
それでも、違う道を選んだ者と、もう仲間ではいられないのだろうか。
カナタには、離れることと、いなくなることが、まだ同じに聞こえていた。
三か月後。
飛空艇《第一歩号》は、順調に待ち合わせ場所を三つ見つけていた。
「ここだ!」
船首で、カナタが白旗を掲げる。
前方には、雲海から一本だけ突き出した細い塔があった。
塔の頂に、四枚羽根の風車。
東、西、南、北。
四つの風を交換する《東風路交換点》の標塔である。
ただし。
「それ、南風路交換点!」
操舵輪を握るルゥが叫んだ。
「東って書いてある!」
「『東へ行く風はこちら』って書いてあるの!」
「東が入ってる!」
「場所の名前じゃない!」
甲板の後ろで、ザンバが椅子に座ったまま片目を開いた。
灰色の旗は、黒い布を失い、中央に小さな黒い点だけを残している。
「二つ前は、西風を東へ渡す交換点。その前は、東風を西へ返す交換点だった」
「じゃあ、今度こそ近い!」
「三つとも近くはない」
「待ち合わせの日は今日よ!」
ルゥが操舵輪を蹴る。
第一歩号は塔をかすめて急旋回した。
船首に二枚並ぶ大きな鍋蓋が風を受け、同時に回る。
「往還翼が働いた!」
「鍋蓋!」
「トマリギ島の職人が認めた!」
「重錨として!」
「翼にもなるって!」
「バンロさんだけ!」
鍋蓋の回転に引かれ、船体も半回転する。
ザンバの椅子が日除けごと滑った。
男は片手で帆柱を掴み、もう片方で椅子を止める。
「四人目が乗る前に、三人を落とす気か」
「四人目が来れば釣り合う!」
「人数で船の傾きは直らない!」
第一歩号には、空いた椅子が一つあった。
背もたれに、小さな鈴。
座面には何も置かれていない。
カナタの普通の石三個も。
ルゥの予備工具箱も。
ザンバの日除けの替え布も。
三か月、誰も置かなかった。
空席を守ると言い出したのはカナタだった。荷物を載せれば便利だとルゥが言っても、日除けを広げればよいとザンバが言っても、「そこはナギの場所だ」と譲らなかった。
ただし本人は、椅子へ背を向けたまま何度も確かめる。誰かの席を空けておくことと、その人が必ず来ることは同じではない。分かっていないふりをしているとき、カナタは白旗の中央ではなく端をつまむ。右膝の古い痛みが出る朝も、同じ握り方になった。
座面の下には、誰にも見せていない小さな札が一枚ある。
――来なくても、消さない。
字はルゥに書いてもらった。カナタ自身は、最後の一文字だけ線を長くし過ぎ、椅子の脚へはみ出させている。
現標板には、四枚目の役割札が差してある。
――響路士、ナギ。
――合流予定、東風路交換点。
――現在地、三日前の返事では朝雲市場。
――返事、あり。
「三日前って遅くない?」
カナタが板を指す。
「交易船の中継を二つ通ったから」とルゥ。
「響路なら直接返せるだろ」
「交換点の外は風が多すぎる。返事の音が分かれるの」
「分かれたら全部聞く!」
「それで昨日、一刻じゅう別人の鈴を追ったでしょ!」
「五回鳴った!」
「羊を集める鈴!」
「羊も今、ここ!」
「待ち合わせ相手じゃない!」
現標板の端で、青い小瓶が震えた。
《響瓶》。ナギの呼び声と、遠い返事をつなぐ機巧である。
瓶の中の霧が、一度だけ輪になる。
ちりん。
五回ではない。
一度。
長く。
そのあと、三度。
「ナギ!」
カナタが瓶へ顔を近づける。
『違う』
返ってきた声は、アカリだった。
カゲノハ村の発着場。
トマリギ島。
第一歩号。
三つの現標板を仮につないだ試作《連標》は、まだ風の機嫌によって相手を間違える。
「アカリ!」
『現在地は』
「東風路交換点!」
ルゥが即座に首を振る。
「南風路交換点の北側!」
『それを書いて』
カナタは現標板へ木札を差す。
――現在地、南風路交換点の北側。
――東風路交換点を捜索中。
――迷子ではない。
ルゥが最後の一枚を抜いた。
「事実だけ」
「気持ちも事実!」
『ナギから、今朝返事が来た』
「どこ!」
『東風路交換点』
「着いてる!」
『三つあるって』
三人が黙る。
「三つ?」
『同じ名前の交換点が、季節ごとに場所を替える』
「先に言え!」
『手紙に書いた』
「読めない!」
「読んだ!」とルゥ。
「どこに!」
「東風路交換点は、東風を受け取った塔の名前になるって!」
「塔が歩くのか!」
「風が名前を運ぶの!」
アカリのため息が、響瓶の霧を曇らせた。
遠い村では、アカリがへこんだ薬箱を膝へ置き、左手で現在札を書いている。昨日の誤配線は消していない。赤糸で囲み、その横へ今日の線を足した。間違いを消すと、同じ場所でまた間違えるからだ。
紙札の角は、受取人の名があるものだけ丸く切る。今の三人ぶんもそうだった。カナタ。ルゥ。ザンバ。四枚目にはナギ。まだ会ったことのない相手でも、返事を受け取った時点で宛先になる。
作業台の右側では、十三歳のセノが斜め留め具を試していた。髪の銅杭六本のうち一本は飾りだが、本人もどれか分からない。風が鳴り過ぎると耳鳴りで顔色が変わるため、アカリは声を大きくせず、札を一枚ずつ見せて手順を渡した。
「一番高い、は場所じゃなく条件」
「分かってる」
「昨日、三本目を一番高いって書いた」
「昨日は昨日」
アカリは鼻の頭を掻いた。笑いを隠すときの癖だった。
『ナギは、一番高い交換点で待ってる』
「高いのはどっちだ!」
第一歩号の周囲には、細い標塔が七本見える。
雲の上。
雲の下。
横倒し。
一本は、遠くを歩いていた。
「本当に歩く塔がある!」
「船長、正面」
ザンバが言った。
「一番高いのは、俺たちの上だ」
三人が見上げる。
巨大な交換輪が、雲の天井へ貼りついていた。
上向きの風路へ乗った塔が、第一歩号の真上を逆さまに通っている。
塔の縁に、一人の少女。
短い青緑色の髪。
大きな風眼鏡。
背には、開いた輪と二つの点を描く白い旗。
片手に青い帳面。
もう片手に、黄色い旅行鞄。
左右の耳には違うものがついていた。右に欠けた青銅鈴。左に、風の音を減らす薄い耳栓。呼ぶ鈴は右手で鳴らし、返った音は左手で帳面へ書く。問いと答えを同じ手へ持たないという、ナギだけの決まりだった。
重要な問いの前には、舌先で前歯の裏を五度押す。一、二、三、四、五。今も第一歩号の進路を見ながら数えている。四度目で風車。五度目で鍋蓋。危険の数は五を越えた。
黄色い鞄の底には小石袋がある。初めて聞いた声の場所で一つ拾い、その声の拍を刻む。カナタの大声用。ルゥの工具箱を三度叩く音用。ザンバの椅子が半指ずれる音用。三個はもう用意してあった。
ただし、音が六つ以上重なると舌へ金属の味が出る。偏頭痛の前触れだ。交換点では風が声を何十本にも分けており、ナギは平気な顔のまま耳栓を一段深くした。
その足元には、空色の小さな滑空翼がある。
「ナギ!」
カナタが両手を振る。
少女がこちらを見る。
最初に笑った。
次に、第一歩号の進行方向を見た。
最後に、顔色を変えた。
「止まってぇぇぇ!」
「迎えに行く!」
「止まってって言った!」
カナタは船首のレバーを引いた。
二枚の鍋蓋が開く。
片方が下向きの風。
片方が上向きの風を掴む。
第一歩号が真上へ跳ねた。
「鍋蓋で昇るな!」
ルゥが操舵輪へしがみつく。
「ナギの手前!」
カナタは白旗を空へ突く。
「標術――《未踏路》!」
一歩分の光板が生まれた。
第一歩号の船首から、逆さまの塔へ。
板は途中で東風を受け、横へ曲がる。
「道が逃げた!」
「交換点では、空いた風へ道が渡される!」
ナギが叫ぶ。
「一歩ずつ、小さく!」
「三か月ぶん、でかく迎える!」
「大きさで待った時間を埋めないで!」
第一歩号が曲がった光板へ乗る。
塔ではなく、隣の風車へ向かう。
風車の羽根が迫る。
「右!」
「右に塔!」
「左!」
「左に別の羽根!」
「下!」
「雲!」
「上!」
「ナギ!」
「じゃあ前!」
「風車!」
ナギが自分の旗を掲げた。
「標術――《響路》!」
開いた輪から、波のような線が飛ぶ。
第一歩号の響瓶。
船首の返事の鐘。
空いた四つ目の椅子の鈴。
三つが同時に鳴った。
ちりん。
こん。
りん。
別々の音。
同じ場所から返る。
「そこ!」
ナギが示したのは、塔の縁ではない。
第一歩号の甲板。
空いた椅子。
「私の行き先!」
カナタの白旗が強く光る。
「四つ目の椅子!」
一歩分の光板が、今度は曲がらず甲板の上へ立った。
ナギは塔を蹴る。
滑空翼を開く。
上向きと下向きの風の間を、斜めに落ちる。
「取る!」
「来ないで!」
「三か月ぶり!」
「初めて乗るの!」
「同じ!」