第50話 第一章「東風路交換点」後編
「違う!」
カナタが船首から跳んだ。
ナギは空中で身をひねる。
カナタを避け。
光板を一歩。
甲板へ二歩目。
四つ目の椅子の前へ、きれいに着地した。
カナタだけが風車へ向かって飛んでいく。
「俺は!?」
「自分の道を作って!」
「薄情!」
「船長!」
ルゥが銀鋲を投げる。
「《継ぎ路》!」
光糸がカナタの腰へ絡み、船へ引き戻した。
その勢いで、カナタはナギの旅行鞄へ頭から突っ込む。
鞄が開いた。
鈴。
響瓶。
青い帳面。
母イオラの焼いた丸いパン。
ガルドの書いた鐘路図。
コヨリの七色帯。
そして、三か月ぶんの手紙が、甲板へ一斉に舞った。
「俺への手紙!」
「全部じゃない!」
一枚目。
――ルゥへ。響瓶の留め具図。
二枚目。
――ザンバへ。ガルドから、切らない鐘の相談。
三枚目。
――アカリへ渡す途中の便り。
四枚目。
――船長へ。東を覚えて。
「俺のだけ短い!」
「三か月で直らなかったから!」
第一歩号の船首が、風車へ触れた。
二枚の鍋蓋が羽根を一枚ずつ挟む。
風車が回る。
鍋蓋も回る。
第一歩号が交換塔の周囲を大きく一周した。
「合流成功!」
カナタが叫ぶ。
「停船失敗!」
ルゥが叫ぶ。
ザンバは飛んできた手紙を一枚、機巧腕で掴んだ。
「一人増えた直後に、同じ場所を回るな」
ナギは空いた椅子へ手を置いた。
結んでおいた鈴。
三か月、誰も座らなかった席。
「ただいま、は違うね」
「おかえり!」とカナタ。
「初めて乗る!」
「じゃあ何て言う!」
ナギは第一歩号のつぎはぎの甲板を見る。
カゲノハ村の古い板。
トマリギ島の白雲材。
船首の大きすぎる鍋蓋。
ルゥの操舵輪。
ザンバの日除け。
現標板の四枚目。
「行ってきます」
小さく言った。
遠いトマリギ島から、対鈴が一度返る。
聞こえたのは、ナギだけだった。
「行ってこい」
少女は四つ目の椅子へ座る。
最初に背もたれへ耳を当てた。木の軋み。船腹の朝火炉。安全糸の結び目。椅子は場所ではなく音で選ぶ。三か月、自分を待った椅子が今日の第一歩号と同じ音を返すまで、ナギは腰を下ろさなかった。
座ると、鞄から小石を三つ出した。カナタの石には五本ではなく、途切れない一本の傷。ルゥには三本の短線。ザンバには、中央から左右へ分かれる二本。
「俺だけ一本!?」
「話が止まらないから」
「強い線!」
「長い線」
ナギは笑うと背筋が伸びた。片側の犬歯が少し見える。七年待った響路士の顔と、十五歳の少女の顔が、その一瞬だけ同じ場所にあった。
次の瞬間、風車の羽根が外れた。
第一歩号の船首へ、巨大な東向きの矢印が落ちる。
「今度こそ東が分かる!」
カナタが喜ぶ。
「弁償が増えた!」
ナギの乗船最初の仕事は、交換塔へ五回の謝罪音を返すことになった。
ナギが第一歩号へ乗って、最初にしたことは、船から降りる準備だった。
「なんで!」
カナタが四つ目の椅子の前で叫ぶ。
「安全縄」
ナギは椅子の脚へ細い青糸を結ぶ。
「ここから落ちたら、船へ戻るため」
「落ちない!」
第一歩号が東風路へ入った。
船体が横へ傾く。
カナタだけが船首から半分落ちた。
「船長から結んで」
「俺はいつも戻る!」
「ルゥに引かれて」
「戻ってる!」
「自力じゃない」
ナギは二本目の安全糸をカナタの腰へ結んだ。
船内の役割は、出航前から決まっている。
カナタ。
船長。《未踏路士》。道のない場所へ一歩を置く。
ルゥ。
航路機巧師。船と道の切れ目をつなぐ。
ザンバ。
監視役。危険な道と、船長を見張る。
ナギ。
響路士。呼び声を送り、返事のある場所を聞く。
「俺も返事を聞けるぞ!」
「大声で返すだけ」
「聞いてから返す!」
「途中で自分の話になる」
「村の話も聞いてる!」
「一つ聞いて三つ話す」
「最近は二つ!」
ルゥが操舵輪から言った。
「昨日は朝見台の位置と、第一歩号が交換塔を三周した話」
「一対一!」
「交換塔の話を四回した」
「周回ごと!」
現標板の響瓶が青く曇る。
アカリから、新しい便りが届いていた。
紙は四枚。
一枚目はカナタ。
――朝見台から、初めて上層の朝が見えた。
――カナタの家の前に、新しい配達棚を置いた。
――帰還路の試験で、旅人が古い薬師橋へ曲がりかけた。
――道を切り替えられず、通常路へ案内した。
二枚目はルゥ。
――机の引き出しは二段増えた。
――見習いセノが、右側を工具用に変えた。
――勝手に元へ戻していない。
手紙の端には、セノが描いた斜め留め具の小図があった。ルゥの古い机を「保存」するのではなく、今の使い手が右側を変え、隣だけ空けてある。
ルゥは図を近くへ寄せる。細い傷なら誰より見えるのに、三十歩先の顔は服で判別する目だ。紙の端へ指を這わせ、空中へ断面図を描く。
「この角度、荷重が右へ逃げる」
「セノ、勝手に変えたぞ」とカナタ。
「私の机だった。今はセノの机」
言い切る前に左手首が震えた。三か月ぶんの《継ぎ路》で、指の腱は朝から熱を持っている。ルゥは痛みを技術用語へ隠し、工具箱の蓋を三度叩いた。閉めた。持った。忘れていない。
「隣の台は、帰ったら私が決める」
元へ戻してほしいのではない。戻った自分の場所を、今日の人と決め直したかった。
三枚目はザンバ。
――弁償板、南橋六歩ぶん。
――子どもたちは、監視役が返事をするまで減らさないと言っている。
四枚目はナギ。
――乗船、おめでとう。
――試作《連標》は、昨日も二度、宛先を間違えた。
――会ったら、村の今日の音を聞いてほしい。
ナギは四枚目を青い帳面へ挟んだ。
紙からは、カゲノハ村の六つ鐘と、薬箱の留め具が擦れる小さな音がした。アカリの声を最初に聞いた日の小石は、鞄の内側へ別に入れてある。名を知る前と、名を知った後で、同じ人の声が変わることを忘れないためだ。
ナギは紙の角へ今日の日付を足し、「長い」と言いながら一行も省かなかった。返事が短い人を、気持ちが少ない人にしない。長い人を、正しい人にもしたくない。
「アカリ、私には長い」
「俺のも四行!」
「内容が違う」
「古い薬師橋って、壊れた橋だろ」
カナタは一枚目をルゥに読んでもらい、三行目を指した。
「父ちゃんの帰還路?」
「たぶん」
ルゥは紙を受け取る。
「出航前の試航と同じ。帰還路が、歩く人の覚えている形を先に出した」
「今の橋を鳴らせばいい!」
「鳴らした。でも道は切り替わらなかったって書いてある」
「じゃあ、もっと大きく!」
「大きさの問題かは未確認」
ナギは二つの行を、指で別々に叩いた。
「古い橋が見えた。通常路で帰した。分かってるのはそこまで」
「アカリなら次は直す!」
「一人で仕組み全部を背負わせない」
カナタは響瓶へ顔を近づけた。
「アカリ!」
返事はない。
「聞いてるか!」
「今は配達中かもしれない」とナギ。
「五回だけでいい!」
「五回を返す人にも、今の仕事がある」
ナギは響路の旗を掲げた。
開いた輪から、細い波。
響瓶へ。
カゲノハ村の現標板へ。
呼び声を送る。
向こうから踏まれなければ、道は開かない。
瓶は静かなままだった。
「今は、返事なし」
ナギが板へ札を差す。
――カゲノハ村、最終返事、昨日。
――本日の呼び声、一回。
――返答待ち。
「心配じゃないのか?」
「心配」
「じゃあ戻る!」
「戻らない」
「どっちだ!」
「心配と、今の行き先は別」
ナギは青い帳面を閉じた。
「返事がないからって、私の道を全部そっちへ曲げない」
カナタは納得していない顔をした。
ザンバが日除けの下から言う。
「三人だったときより、船長が増えたな」
「俺一人!」
「四人目の椅子から命令が多い」
「命令じゃない。現在地の確認」
「似たものだ」
「違う」
「そこはナギとルゥが同じだな!」
「同じにしないで」と二人。
「今の返事は同じ!」
「理由が違う!」
第一歩号は東風路を進む。
四人になっても、船首は一つ。
操舵輪も一つ。
けれど、見ているものは違った。
カナタは、雲の向こうの世界の果て。
ルゥは、帆の揺れと銀枝機関の音。
ザンバは、後方の風路と船を追う影。
ナギは、四人それぞれの足音を聞いていた。
カナタは甲板を走る。
右足が強い。
ルゥは操舵輪の前で、左足へ重さを置く。
ザンバは動かないように見えて、船が傾くたび一歩だけ椅子をずらす。
自分は、まだ船の揺れへ足を合わせられない。
「みんな、違う音」
ナギが言った。
「船に乗れば同じになる!」とカナタ。
「ならない」
「同じ場所にいる!」
「同じ場所でも、違う足」
「でも行き先は世界の果て!」
「私は、まず三脚群島」
「その先!」
「その先は、まだ聞いてない」
「船に乗ったら聞くって言った!」
「今、乗った」
カナタは船首へ立ち、胸を張る。
「世界の果てへ行くぞ!」
ナギは少し考えた。
「行きたい」
「同じ!」
「でも、その前にトマリギ島へ返事の道を増やしたい」