第51話 第二章「四つ目の椅子」前編
「世界の果ての途中で!」
「途中じゃないかもしれない」
「世界の全部は途中だ!」
「便利な言い方」
ルゥが笑う。
「私は逆さ銀樹を見たい」
カナタが振り向く。
「三脚群島の向こう!」
「着いたら、しばらく工房を見たい」
「一刻?」
「一か月かも」
「長い!」
「決めてない」
「第一歩号は待つ!」
「待たせるかも決めてない」
「置いていくのか!?」
「今、その話はしてない!」
ザンバが灰旗の黒い点へ指を置く。
「俺は、三脚群島の古い上道を見たい」
「お前まで!」
「一人で行く」
「監視役!」
「船長が行かなければ、船を見張れる」
「俺も行く!」
「意味がない」
「みんな、別々じゃねえか!」
カナタの声が甲板へ響く。
いつもの怒鳴り声より、半音低かった。怖いほど声が沈む。右足だけが甲板の継ぎ目を越え、白旗の端を握る。別の道という言葉が、父の帰らなかった十年へ直結するときの身体だった。
ルゥは銀鋲を抜いて叱る代わりに、操舵輪から一度だけ振り返った。ナギは返事を急がず、ザンバは椅子を半指ずらす。三人とも、カナタの「別々」を議論の語ではなく恐怖の音として聞いた。
「別々って、いなくなることじゃない」
ナギの声は小さい。
「まだ、同じに聞こえる」
カナタは嘘をつかなかった。
四人が少し黙った。
ナギは響路の旗を下ろす。
「今、初めて聞いた?」
「同じ船だぞ!」
「同じ船にいるから、同じことしか考えないと思った?」
カナタは答えなかった。
船首の鍋蓋が風を受ける。
一枚は速く。
もう一枚は遅く回る。
同じ軸に並んでいても、音はそろわない。
ザンバは機巧の右腕で滑る椅子を止め、生身の左手でナギの落とした鉛筆を拾った。壊す、支える、切るのは右。受け取るのは左。昔から自分へ課した区別だ。
幻肢痛が強い日は、機巧腕の留め具を締め過ぎる。今も銀の留め具が一つ白く鳴った。ナギが音だけで見つけ、何も言わず緩める小鍵を差し出す。ザンバは左手で受け取った。
「監視役も返事が要るね」
「今は痛む」
事実を一つ足すのが、彼の助けを求める言い方だった。
そのとき。
遠くの雲海から、低い足音が届いた。
どん。
少し間。
どん、どん。
さらに別の音。
どん、どん、どん、どん。
最後に、大小の鐘が五つ。
ナギが顔を上げる。
「三つ」
「何が?」
「島の足音」
雲の向こうから、山が歩いてきた。
「山に追い越された!」
カナタが船首から叫ぶ。
「山は追い越さない!」
ルゥが叫び返す。
「じゃあ見ろ!」
「見てる!」
第一歩号の横を、巨大な島が歩いていた。
下面から何十本もの根。
雲を踏むたび、島全体が上下する。
頂には森。
段々畑。
赤い屋根の町。
森歩島。
その前を、鉄色の島が進む。
崖一面に工房。
根には金属の装甲。
一歩ごとに火花。
鉄歩島。
最後尾には、何百もの鐘を吊るした白い島。
鐘歩島。
三つの島は、一列だった。
鉄。
森。
鐘。
島と島の間には、紺色の光帯。
一本の巨大な旗が、三つの進路を同じ線へ縫いつけている。
旗の紋は、まっすぐな一本線。
「三脚群島ミツアシ」
ルゥが航路図を広げる。
「季節ごとに三つの風路を歩いて、年に一度だけ合流する島々」
「今、合流中?」
「地図の合流期は二か月後」
「早く会いたかったんだな!」
ナギは船縁へ耳を当てた。
「違う」
「何が」
「足音」
鉄歩島は四拍子。
どん。
どん。
どん。
どん。
森歩島は三拍子。
どん。
どん。
どん。
鐘歩島は五拍子。
どん。
どん。
どん。
どん。
どん。
本来は違う。
けれど、紺色の光帯が張るたび、三つの終わりだけが強く引かれる。
四拍子の最後。
三拍子の最後。
五拍子の最後。
すべて一つの大きな足音へ押し込まれる。
どおん――。
「別々に歩いてるのに、最後だけ同じ音」
ナギが言った。
「橋が揺れないように合わせてるんじゃない?」
ルゥは光帯を見る。
「それなら歩幅を合わせれば足りる。行き先まで一本にしてる」
ザンバが紺旗を見た。
「縛っている」
「便利じゃないか」
カナタが言う。
「迷子にならない」
「船長が言うと危険に聞こえる」とナギ。
「俺は広く探す!」
「今、三つの島が広く探せてない」
「島に聞く!」
カナタは操舵輪へ手を伸ばした。
ルゥが工具の柄で叩く。
「私が回る!」
「船長!」
「四人目が乗った初日に壊したくない!」
「昨日までならいいのか!」
「昨日もだめ!」
第一歩号は森歩島の港へ回り込む。
ただし、歩く島は速い。
港が一歩進むたび、船の着港地点が横へずれる。
「追いつかない!」
「風路を読む!」
ルゥが銀枝機関を開く。
透明羽根が島の重さを拾う。
第一歩号の船首が少し前へ出た。
その横を、鉄歩島がさらに一歩。
「また追い越された!」
「島に競争を挑まないで!」
カナタは甲板から大きな錨を持ってきた。
「引っかける!」
「許可!」
「取ってくる!」
「投げる前に!」
錨が飛んだ。
森歩島の崖を越え。
港の柱を外れ。
島の下面から伸びた巨大な根へ巻きつく。
「足!」
ナギが叫ぶ。
「引っかかった!」
「そこ、右歩脚!」
森歩島が次の一歩を踏む。
縄が張った。
第一歩号が猛烈な勢いで引かれる。
「速い!」
「速すぎる!」
ルゥが操舵輪へしがみつく。
船は横向きになり、雲海を三度跳ねた。
一度。
二度。
三度。
船首の鍋蓋が片方外れかける。
「往還翼が!」
「鍋蓋!」
「名前をそろえて!」とナギ。
「どっちに!」
「今は部品!」
森歩島の根が高く持ち上がる。
錨につながれた第一歩号も、振り子のように空へ上がる。
頂点で縄が切れた。
「飛んだ!」
「落ちる!」
「どっちも!」
第一歩号は森歩島の町へ向かって飛んだ。
屋根。
風車。
吊り橋。
正面の道を、一人の少女が走っている。
赤茶色の髪を三本の三つ編みにし、足には小さな風車のついた滑走靴。
背には、三つに裂けた銅色の旗。
三本の三つ編みは、右から鉄、森、鐘の順に結び目が違う。考えるときも同じ順で触る。今は鉄、森まで触り、鐘へ届く前に飛空艇が迫った。
冷えた風で右膝の古傷が固まり、横道へ入る最初の一歩だけ遅れる。少女は「次の鐘まで持つ」と口の中で言い、滑走靴の小風車を指で回した。痛みを認めないときの合図だった。
片方の耳たぶが赤い。緊張するとそこだけ先に色が変わる。けれど声は真ん中の音量を持たず、囁くか叫ぶかのどちらかだった。今は当然、叫ぶほうである。
少女は後ろを振り返った。
空から船。
「なんで道を飛空艇が走ってるのぉぉぉ!?」
「どいてくれぇぇぇ!」
「曲がって!」
「曲がれない!」
「道は曲がるもの!」
「この船は違う!」
「自慢しないで!」
少女は滑走靴の風車を回し、横道へ入ろうとする。
道の標柱が光った。
一本の矢印。
まっすぐ前。
少女の足が勝手に線へ戻された。
「また!」
第一歩号も同じ線へ吸い寄せられる。
「道が船を引っ張ってる!」
ルゥが叫ぶ。
「カナタ、一歩を横へ!」
「標術――《未踏路》! 広場へ!」
道の横に、光板。
生まれた瞬間、一本線へ曲がる。
「俺の道まで!」
「この町では、行き先が全部同じ!」
ナギが響路の旗を振る。
「少女! 返事して!」
「何に!?」
「今、どこへ行きたい!」
「三番塔!」
銅旗が光る。
ナギの波が少女の声を拾う。
まっすぐな標柱とは違う方向。
町の外れ。
古い塔。
響路が一瞬だけ、その方角を鳴らす。
「カナタ!」
「三番塔の手前!」
一歩分の光板が生まれる。
今度は横へ向く。
少女が踏む。
第一歩号も乗り上げる。
光板は船一隻ぶんの重さに耐えられない。
大きくしなる。
「少女だけの道!」
ルゥが叫ぶ。
「船も行きたい!」
「訊いてない!」
光板が跳ね返った。
少女は三番塔の方角へ飛ぶ。
第一歩号は反対へ飛ぶ。
町中の洗濯物を一度に干す、百メートルの物干し場。
「前、布!」
「帆にする!」
「洗濯物!」
第一歩号が突っ込んだ。
白い布。
赤い布。
縞模様の靴下。
三枚の巨大な敷布。
船体は洗濯物を巻き込み、一回転する。
最後は三つ編み状に組まれた吊り橋へ、逆さまに引っかかった。
濡れた服から水が落ちる。
しばらくして、敷布の中からカナタの腕だけが出た。
「着港……!」
「港じゃない!」
滑走靴の少女が戻ってきた。
カナタの頭を踏む。
「私の道を船で使わないで!」
「助かっただろ!」
「私は! 船は洗濯場!」
少女の後ろで、ナギが四つ目の椅子から落ちないよう安全糸を確かめる。
「乗船一日目」
青い帳面へ書く。
「交換塔、一基。洗濯物、たぶん五十枚。知らない少女、一人。返事、あり」
「事故も現在地に入れるのか?」
「主に船長の位置」
「役に立つ!」
「褒めてない」
少女は濡れた布を一枚ずつ数え始めた。
「弁償」
「話が早い!」
「慣れてる?」
「世界中、最初にそれを言う!」
「原因を考えて」と三人。
少女の名はミオといった。