第54話 第三章「山に追い越される」後編
ルゥはテオの銀板を写している。
ナギはスズと音路を比べている。
ザンバは途切れた上道を見ている。
「……いる!」
「今決めた?」
「みんなで!」
三人の若者は、それぞれの島へ戻った。
同じ市場を出て。
違う方向へ。
また会う日時だけを残して。
三脚群島には、十二年前の事故を三つの方法で記した部屋がある。
鉄歩島には、壊れた部品。
森歩島には、生き残った者の言葉。
鐘歩島には、最後に聞こえた音。
一つの記録庫へ集めないのは、事故のあと、三つの島が同じ出来事を同じ形で覚えられなかったからだった。
「なのに道は一つ」
ナギは森歩島の記録館で言った。
「覚え方は違うまま、進み方だけ同じにした」
壁には、十二年前の三針峡が描かれている。
三つの島。
三本の風路。
上道を走る三人の岐路守。
若いレグル。
鉄歩島のカネト。
鐘歩島のハク。
三人は壁画の中で動かない。問いかけても、現在の答えは返さない。残るのは、当時の物と、別々の記録だけだ。
カネトの棚には、片耳を塞ぐための革片と、濡れて送れなかった手紙がある。雷鳴が重なると耳鳴りと吐き気が出る。それでも紙の縁だけは何度も真っすぐにし、鉄歩島が一度北へ曲がった経路を、自分たちの判断として残そうとしていた。救援路の失敗だけへ吸収すれば、島が危険を避けて選び直した事実まで消える。
ハクの棚には、別路を赤糸で囲った地図と、使いかけの咳薬がある。鐘歩島の最後の音には、咳を抑えて現在地を伝えようとした短い呼吸が混じっていた。救援路だけを死因へすれば、本人の体調も、先に下へ降りた島の判断も、一本の物語へまとめられてしまう。
どちらの棚にも英雄像はない。未送信の手紙。使いかけの薬。手垢のついた道具。矛盾したままの人間だけが残っていた。
三人が別々の道から、同じ再会原を探す。
「レグルだけ着いた」
ザンバが壁画を見る。
「最初の日は」
記録館の老女が訂正した。
名をマヤ。
森歩島で、十二年前の言葉を保管している。
七十三歳。指先は季節に関係なく温かく、紙と金属の温度差を触っただけで分ける。若い頃の頭部打撲で、強い光を見たあと数呼吸だけ視界が欠ける。その時は「光が引くまで待つ」と言い、秒数を数えて視界が戻るのを待つ。
マヤは一つの事故を、一枚の壁画へまとめなかった。部品。証言。最後の音。三つの棚を、同じ高さにも置かない。便利な教訓へ揃えると、死んだ人の選択まで後世の都合で変わるからだ。
泣く人を見ると、自分の鼻を指でつまむ。慰めの言葉が先に出るのを止め、記録の続きを相手自身が言うまで待つためだった。
「雨風路を通った森歩島は、その日の夕方に着いた」
「じゃあ二つ」とカナタ。
「レグルは、鉄と鐘が来ないことを恐れた」
「助けに行った?」
「行こうとした」
老女は次の壁を開く。
一枚の紺色の布。
一本線の最初の試作。
「再会原から二本の救援路を伸ばした。雷風路と鳴風路へ」
「いいことだろ」
「行き先を、レグル一人の場所へ決めた」
ルゥが布の縫い目を見る。
「二つの島の重さを、再会原へ引いた?」
「鉄歩島は雷を避けるため、一度北へ曲がっていた。鐘歩島は音壁を抜けるため、下へ降りていた」
「引いたら?」
「元の危険へ戻った」
事故の図。
鉄歩島の橋が雷で焼ける。
鐘歩島の鐘楼が音圧で崩れる。
死者。
負傷者。
それでも、二つの島は三日目に再会原へ着いた。
「会えた」
ミオが言う。
いつの間にか、記録館の入口へ立っていた。
「遅れたけど、会えた」
「死者を連れて」
レグルの声が後ろから来る。
連路長は、一人で記録館へ入った。
住民たちは止めない。
この部屋では、誰も事故の言葉から逃げない決まりらしい。
「カネトとハクは?」
ザンバが訊く。
「死んだ」
レグルは答える。
「私が伸ばした救援路を、島から外すために」
マヤは壁の下へ三枚の札を置いた。
――カネト。鉄歩島側の記録。
――ハク。鐘歩島側の記録。
――レグル。森歩島側の証言。
「一つへ混ぜない」
レグルの証言では、二人は自分の道から皆を守った。鉄の部品記録では、カネトは焼けた導線を外した。鐘の音記録では、ハクは崩れる前に三度、停止を求めた。どれも同じ瞬間を示すが、同じ意味ではない。
ザンバは右の機巧腕で棚へ触れず、生身の左手でカネトの濡れた手紙を受け取った。読み終えると、元の向きへ戻した。
「自分の道を守った?」
「私の道から、皆を守った」
一本線の試作布へ手を置く。
「三日目、二つの島は着いた。私はミオの母へ『ただいま』と言った」
ミオの母は、事故の一年後に病で亡くなっている。
カナタはそのことを知らない。
今は訊かなかった。
「その夜、三つの島の代表が集まった」
レグルが続ける。
「翌年も別々の道へ入るか。全員で中央を通る方法を探すか」
「父さん一人で決めたんじゃない」
ミオが言う。
「分かってる」
声は怒っている。
「森歩島も、鉄歩島も、鐘歩島も、同じ道を選んだ」
「全員?」とナギ。
「旗を出した者の八割」
「出さなかった人は?」
「数えなかった」
「反対した人は?」
「二割」
「今は?」
レグルは答えない。
白帯のねじれを直す。右へ。左へ。また右へ。外套の内側で三通の未開封報告が擦れた。毎年「確認した」と言いながら、事故当日の三つの声だけは一つずつ開けられない。
「答えないことも、今の返事」
ナギが帳面へ書く。
レグルは笑いかけ、笑い終わる前に壁の留め具を直し始めた。マヤがその手を止める。
「ここでは、次の仕事へ逃げない」
男の手が空中に残った。
「十二年前の八割を、今の全員にしてる」
ナギは青い帳面へ書いた。
「私は毎年、確認した」
レグルが言う。
「三脚会議で、《同道》を続けるかを問うた」
「答えは?」
「続ける」
「同道旗が立った会議で?」
スズが入口から入る。
その後ろにテオ。
三つ編み場の三人がそろう。
「別の答えを言うと、旗が『前へ』に直す会議で?」
「完全に縛ってはいない」
レグルの声が硬くなる。
「反対札は出せる」
「出した人の家は、次の三日ずっと前の島へ行けなくなる」
テオが言った。
「道が『別の進路』として扱うから」
「危険を分けている」
「生活も」
スズの耳鈴が、わずかに震える。
「反対を言うと、返事の音が町へ届かない」
レグルは三人の若者を見る。
「お前たちは、事故を知らない」
「知らないから、記録を集めた」
ミオが答える。
「父さんが待った三日を、なかったことにしたくない」
「私が何を見たかも知らない」
「だから聞いてる」
「聞けば同じ道を選ぶと思うか」
「違う」
ミオの銅旗は、三本に裂けたまま。
「父さんが別の答えを持ってても、私の道を一本にしないでって言ってる」
記録館に沈黙が落ちる。
カナタは、十二年前の再会原を見た。
一人で待つレグル。
来ない島。
父が帰らなかった十年。
ナギが待った七年。
「怖かったんだな」
レグルの顔が動く。
「カナタ」
ルゥが小さく止める。
「俺も、帰ってこないのは嫌だ」
カナタは続けた。
「だったら一緒に行けばいいって思う」
「そうだ」
レグルは初めて、カナタへ同意した。
「なら手伝え」
「でも」
ミオを見る。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
「一緒に行きたくないやつを、どうすればいい」
「守る」
「どこに?」
「同じ道へ」
「それ、守ってるのか?」
レグルの目が細くなる。
カナタ自身も答えを持っていない。
ザンバが灰旗の黒い点へ触れる。
「恐れは、責任の顔をして立つ」
全員が男を見る。
「俺は、アステルが別の道を選んだとき、裏切りと呼んだ」
「父ちゃんは帰った」
「ああ」
「レグルも同じ?」
「違う」
ザンバは即答した。
「だから似ている」
「分かりにくい!」
「同じ過ちを、同じ形でする者はいない」
レグルが灰旗を見る。
「お前は道を切った」
「今は切れん」
「何ができる」
「まだない」
「なら、責任のない言葉だ」
「そうかもしれん」
ザンバは逃げない。
「それでも、別の答えを言う者の口を旗で塞ぐな」
黒い点の左右へ、細い灰線が一瞬だけ揺れた。
一つではない。
まだ、どちらへも伸びない。
レグルはそれを見た。
「六日後」
記録館を出る。
「三針峡は待たない」
「待たせる!」とカナタ。
「石針へ言え」とザンバ。
「大きく!」
「そういう問題じゃない」と全員。
ミオは十二年前の布を、元の場所へ戻した。
「父さん」
レグルの足が止まる。
「三日、待ったんだよね」
「ああ」
「私も待てると思う?」
「待たせない」
「答えになってない」
レグルは振り返らなかった。
一本線だけが、記録館の扉から前へ伸びていた。