第55話 第四章「ひとつの前しかない町」前編

ナギは、三つの島へ一枚ずつ現標板を置いた。

鉄歩島には、四角い鉄板。

森歩島には、赤い木板。

鐘歩島には、大小五つの鐘片。

同じ形にしなかった。

「試作《連標》なのに?」

カナタが訊く。

「同じ板だと、どこから返ったか分からない」

「名前を書けば!」

「音で読む」

「字も覚えろ」とザンバ。

「船長から」とナギ。

「俺はカナタを読める!」

「次を覚えて」

三枚の現標板は、三つ編み場の古い噴水を中継点にした。

板の裏には、ルゥが作った三叉の留め具。

宛先には、アカリが切った別々の紙札。

呼び声と返事を分けるのは、ナギの《響路》

どれか一つだけでは、三つの場所を三つのまま扱えない。

鉄板を四回。

木板を三回。

鐘片を五回。

最後に、第一歩号の返事の鐘を一回。

四、三、五、一。

違う回数が、違う場所を示す。

「一回だけ俺たちが少ない!」

「船は一隻」

「四人いる!」

「現在地は一つ」

「さっき、みんな違う行き先って言った!」

「場所と行き先は別!」

「難しい!」

最初の試験。

ナギが響路の旗を掲げる。

「鉄歩島。今、ここ?」

四回。

こん。

こん。

こん。

こん。

返事が噴水へ届く。

次に森歩島。

三回。

鐘歩島。

五回。

三つの返事が、途中までは別々に来た。

響瓶の底で、遅れて届いたアカリの紙札が鳴る。

――一つの現標を伸ばすんじゃなく、別々の現標を網の目みたいにつなぐ。

《連標網》

ナギが声にした。

「今日から?」とカナタ。

「三つを三つのまま返せたら」

「今、返せた!」

「途中まで」

その言葉どおり、紺色の同道旗が風を受ける。

最後の一音だけが強く引かれる。

四回目。

三回目。

五回目。

全部が一つの大きな鐘へ重なった。

どおん――。

響路の波が混ざる。

三枚の現標板に、同じ白い一本線が浮かんだ。

「全部、鉄歩島から返った?」

カナタが首を傾げる。

「違う。全部が『前』から返ったことにされた」

ナギは三枚を外す。

「返事の終わりを、同道旗が持っていく」

「途中までなら分かる?」

「四回の一、二、三」

「最後だけだめ?」

「今いる場所を確かめる最後が、一つになる」

スズは五つの鐘片を、別々の高さへ並べ直した。

左手の五指を一つずつ鐘片へ当てる。親指は低音。人差し指は呼び。中指は歩調。薬指は再会。小指は、鳴らなかった返事。

「構造が違えば、混ざっても分け直せる」

「誰の音かも要る」とナギ。

「音が同じ人もいる」

「同じ人が違う音を返す日もある」

スズは音の均衡を守ろうとし、ナギは持ち主の現在を守ろうとする。似た仕事でも、聞いているものは同じではなかった。

「鐘歩島でも同じ」

「前から?」

「十二年前から。最後の音だけ、連路長の大鐘へ返す」

「便利じゃない?」

カナタが言う。

「全島へ合図できる」

「誰かが『嫌』って五回鳴らしても、最後が『前へ』になる」

「途中で嫌って分かる!」

「聞く人がいれば」

スズは町の大鐘を見る。

「みんな、最後しか記録しない」

ナギは青い帳面を開いた。

一回目。

二回目。

三回目。

四回目。

最後の前。

途中を全部書く。

「何してる?」

「返事が変えられる前を残す」

「全部?」

「聞こえたぶん」

「大変だぞ」

「響路士」

自分の役目を、自分で言う。

その直後、舌へ金属の味が広がった。四、三、五。最後の大鐘。さらに第一歩号の一音。音が重なり、視界の奥行きが薄くなる。

「道具のほうが疲れた」

症状を隠す日の言い方だった。ルゥは帳面を取り上げず、ナギの左側へ立つ。片目を閉じたときの距離を、声で補う。

「鉄板、二歩。木板、一歩。鐘片、手の下」

「分かる」

「分かるじゃなく、聞いて」

ナギは頷き、一度響路を閉じた。聞き続けることだけが仕事ではない。聞き分けられない状態を申告することも、返事を守る仕事だった。

その日、トマリギ島への返事はできなかった。

三つの島の音を聞き分けるうちに、夕鐘を越えた。

対鈴を五回鳴らす。

返事はない。

もう一度。

ない。

「風が変わった」

ルゥが交換輪を見る。

「今夜は、東風路が鉄歩島の下へ入ってる。トマリギ島へは届かない」

「母さん、待ってる」

「昨日返した」

「今日は返してない」

ナギは三つ編み場の端へ立つ。

今から鉄歩島の交換塔へ行けば、夜中に一度つながるかもしれない。

第一歩号の修理。

三島の試験。

明朝の会議。

全部を置いて、返事へ行く道もある。

「行くか?」

カナタが白旗を持つ。

「道を作る!」

ナギは首を振った。

「行かない」

「心配じゃないのか!」

「心配」

「またそれ!」

「今いる場所を残す」

青い帳面の一頁を破る。

――三脚群島、森歩島、三つ編み場。

――返事できず。

――鉄、四。森、三。鐘、五。最後は同じにされた。

紙を響瓶へ入れる。

今夜は届かない。

届く風が来たとき、先に送られる。

「返事じゃないぞ」

「返せなかったって返事」

「難しい!」

「ガルドが言ってた」とザンバ。

「返事がないことと、いなくなったことを同じにするな」

「アカリの言葉」とナギ。

「どっちでもいい!」

「言った人は違う」

「意味は同じ!」

「同じにしないで」

翌朝。

対鈴が一度鳴った。

トマリギ島からの返事。

五回ではない。

二回。

間。

三回。

母イオラが、昨日決めていない新しい合図を返している。

ナギは反射的に「母さん」と書きかけた。願いが判定より一歩先へ出たことに気づき、筆を止める。

新しい合図。昨日とは違う間。けれど、今の本人かどうかは声を聞くまで未確認。

母を信じたいからこそ、欄を一度空けた。五拍を舌で数え直し、次の問いを送る。

「今日、屋根のどこを直してる?」

『東側。レトが木槌を三度落とした』

遠くで「二度だ!」という少年の声。そこで初めて、ナギは名前を書いた。

響瓶の中に短い声。

『返せない日は、聞いた音を持って帰って』

ナギは肩の力を抜いた。

「怒ってない?」

『心配はする』

「じゃあ戻る?」

『戻らない』

カナタが響瓶へ飛びつく。

「同じこと言う!」

『親子だから』

「今の話で分かった!」

「髪の色が同じ?」とルゥ。

「言葉!」

「少し進歩」

響路が閉じる。

ナギは三つの現標板へ向き直った。

「途中を聞く」

「最後まで聞かないのか?」

「最後も聞く。でも、最後だけで決めない」

鉄歩島の四拍子。

森歩島の三拍子。

鐘歩島の五拍子。

最後の大きな一音の下に、違う足音がまだ残っていた。

鉄歩島の工房は、島の内側まで続いていた。

崖に開いた巨大な入口をくぐると、そこも町だった。

天井から歯車。

床の下に金色の樹液。

風を畳んで箱へ詰める機巧。

雲を糸へする機巧。

壊れた標旗から、最後に見た景色を映す鏡。

ルゥは入口で止まった。

遠くの職人の顔はぼやけるのに、歯車の欠けは入口から見えた。薄い片眼鏡を工具帯から出しかけ、誰にも気づかれないうちに戻す。代わりに空中へ断面図を描き、見えない内部を指で組み立てる。

髪の銀鋲は危険度順。今日は九本。興奮すると数を忘れるため、工具箱の蓋を三度叩いた。閉めた。持った。触る前に聞く。

ここへ来たかったのは、カナタを止めるためではない。逆さ銀樹の原理を、自分の名で一行残したい。誰かが後から改造できる形で。工房の匂いを吸った瞬間、その欲望が責任より先に顔へ出た。

「触っていい?」

案内役の職人が答える。

「壊さないなら」

「触っていいって!」

カナタが近くのレバーへ手を伸ばす。

「私が訊いた!」

工具箱が飛ぶ。

カナタは避ける。

工具箱は壁の赤い栓へ当たった。

工房中で警笛。

「何もしてない!」

「避けたでしょ!」

「当たると思った!」

「当てるつもりだった!」

「二人とも何も触るな」

ザンバが言う。

「お前が一番信用できない言い方するな!」

警笛は、テオが足元の輪を蹴ると止まった。

「一日四回鳴る」

「私たちのせいじゃなかった!」

「今のは二人のせい」

「すみません」

ルゥは素直に頭を下げる。

工房の中央には、三つの巨大な輪。

鉄歩島。

森歩島。

鐘歩島。

それぞれの脚核を模した模型が、同じ速さで上下している。

どん。

どん。

どん。

三つの心臓を、一拍へそろえる《同歩機関》

「昔は合流中だけ使った」

テオが輪の下へ潜る。

「今は十二年、止めてない」

ルゥは鉄輪へ耳を当てた。

表面の同じ音の奥。

四拍子。

三拍子。

五拍子。

押し込められたずれ。

「歯が削れてる」

「昨日、三枚交換した」

「交換じゃ足りない」

「分かってる」

テオは黒い手袋を外す。

指先には、細い裂傷がいくつもある。

外した手袋は左右逆へ掛ける。乾いたあと、毎回どちらがどちらか確かめることで、指の感覚が昨日と同じか試すためだ。

テオは脚核を四回叩いた。四拍目で終える。続けて五拍目が出た。

こん。

本人の顔が固まる。失敗のときだけ出る余計な一打だった。腰の痛みで姿勢が崩れ、四つ目の負荷を読み違えたらしい。