第56話 第四章「ひとつの前しかない町」後編
「座って」とルゥ。
「昨日より軽い」
「痛い日の言い方」
「何で分かる」
「同業者」
ルゥは椅子を出すのではなく、作業台を低くした。座ることを弱さと思う少年へ、仕事を続けられる形で休ませた。
「四拍子を三と五の間へ押すたび、どこかが余る」
「同じ間隔にしないと橋が揺れる」
「だから、一番長い拍子に合わせてる」
「鐘歩島の五?」
「今は四と三が待つ」
「重い」
「十二年ぶん」
ルゥは輪の内側から、折れた歯を一つ抜いた。
灰色の粉。
「六日も保たない」
「三日」
低い女の声がした。
工房の奥から、背の高い職人が出てくる。
五十歳ほど。
赤銅色の髪を短く切り、左腕は銀の機巧腕。
背負う旗には、大きさの違う四つの歯車。
「鉄歩島工房長、バルカ」
五十歳。工房長の重装着の胸には、規格外札と、焦げた古い机の取っ手が並ぶ。右膝の古傷で、冷えた床へ最初の一歩だけ遅れる。迷うと半歩下がり、すぐ半歩戻るので、立ち位置は変わらないのに床だけ磨かれていた。
危険の話へ入ると、バルカは完全に黙る。人の数。炉の音。出口。全部を数え直す。豪快な工房長が無言になるときこそ、鉄歩島を他島の都合で壊される恐怖が近い。
「要するに」
と言ってから説明が長いのも、若い職人には有名だった。
テオが紹介する。
バルカはルゥの銀鋲を見る。
「《継ぎ路》の機巧師」
「見習い」
「誰の」
ルゥは少し考える。
「今は、自分の」
バルカの口元が動く。
「いい答え」
「前にも似たこと言われた気がする」とカナタ。
「誰に?」
「まだ会ってない!」
「未来の話をするな」
ザンバが後頭部を押す。
バルカは同歩機関の三輪を示した。
「連路長は、三つを一つへ継げと言っている」
「私は断る」
ルゥは即答した。
「まだ頼んでない」
「頼まれても」
「なら、違う形を考えて」
バルカの声は責めていない。
「鉄歩島は同道を望む者も多い。工房は三島の橋を作る。別れれば仕事を失う職人もいる」
「分かれる=橋を捨てるじゃない」
「それを形にできる?」
ルゥは三輪を見る。
違う拍子。
同じ橋。
別々の島。
「できるまで――」
言いかけて、カナタを見る。
「何で俺を見る!」
「期限」
「三日!」とテオ。
「できる方法を、三日で探す」
「手伝う」
テオは言った。
「ミナモへ行くまで百二十日。ここを直さず出たくない」
「行くの?」
「行きたい」
「島の工房は?」
「帰る」
「いつ?」
「決めてない」
「帰る気はある?」
「ある」
「なら、仕事を残していい」とバルカ。
テオが驚いて見る。
「反対してた」
「工房に人が足りない」
「じゃあ」
「困ることと、止めることは違う」
バルカは機巧腕で、銀色の細い枝を持ち上げた。
枝の節に歯車。
葉の代わりに透明な羽根。
「逆さ銀樹から流れ着いた銀枝機関」
ルゥの目が輝く。
「本物?」
「古い型」
「動く?」
「半分」
「見せて!」
「三日」
「短い!」
「峡谷まで」
「そのあと!」
バルカはルゥを見る。
「ここへ残ってもいい」
工房の音が、一瞬遠くなる。
「私が?」
「銀枝を読める者が要る。同歩機関を別の形へ直せる者も」
「第一歩号は?」
カナタが割り込む。
「船の機巧師は、ほかにいるのか」
「いない!」
「船長は壊す」とバルカ。
「直す人が必要だな」
「そうだ!」
「本人が決める」
ザンバが言った。
カナタが振り向く。
「でも、世界の果てへ一緒に行く!」
「決めたの?」
ルゥの声は静かだった。
「最初から!」
「私は、あんたの後ろを歩くって言った?」
「後ろじゃない。隣だ!」
「隣なら、どっちを見てるか聞いて」
「今聞いてる!」
「残るかもしれない」
ルゥは髪から銀鋲を一本抜いた。怒りではない。自分の答えを、カナタの望む形へつなぎ直さないための目印だった。
左手首の痛みが強く、親指が工具帯へ届かない。それでも「自分の番ではない」と言いかける。痛みを隠す日の言葉だ。
テオが先に小さな支持具を机へ置いた。
「今は、ルゥの番だろ」
技術の話では競う相手が、体の限界だけは勝敗へしなかった。
カナタの笑顔が止まった。
「なんで」
「逆さ銀樹の機巧がある。三つの島を直す仕事もある。ここでしかできないことがあるかもしれない」
「第一歩号にも、お前にしかできないことがある」
「船を直す人なら、探せる」
「俺を止められるのはルゥだけだ!」
「そこを自慢しないで!」
「いなくなるじゃねえか!」
声は怒鳴り声の形をしているのに、低かった。カナタの右足が半歩出る。追う一歩ではなく、置いていかれないために先へ出る癖だ。白旗の端を強く握り、中央を持てない。
説明が急に長くなる。
「だって船は毎日壊れるし、俺は方向を間違えるし、世界の果ては一人で見ても――」
嘘ではない。けれど本当の中心を、細部で囲って隠している。
「寂しい、でしょ」
ルゥが言う。
カナタは否定できなかった。
声が工房へ響いた。
ルゥが黙る。
カナタも、自分の言葉に驚いたようだった。
「父ちゃんは帰ってこなかった」
ルゥの目が少し柔らかくなる。
「ナギの母さんも七年いなかった。別の道へ行くって、そういうことだろ」
「違う」
「何が」
「私は、消えるって言ってない」
ルゥは自分の胸を指す。
「別の道を選ぶことと、いなくなることを同じにしないで」
「でも、同じ船にはいない」
「同じ船に乗ってないと、仲間じゃないの?」
カナタは答えられない。
ナギの対鈴が、小さく鳴った。
返事ではない。
緊張した手が触れた音。
ザンバは何も言わない。
バルカも。
テオも、視線を機関へ落とした。
「少し、一人で考える」
ルゥは銀枝機関を持ち、工房の奥へ歩く。
一歩目で右手。二歩目で左手へ持ち替える。指の痛みを隠すためではなく、片側だけへ負荷を集めないためだ。長くつなぎ続ければ、自分の腕が切れ目になる。
作業台へ着くと、工具箱を三度叩き、銀枝機関の「完成形」を探さなかった。今壊れている場所。次に誰が直せるか。外せる点検口。自分がいなくても続く形。それだけを白い帳面へ描き始めた。
道の一本線が、出口へ彼女の足を引いた。
ルゥは銀鋲を抜く。
「標術――《継ぎ路》」
自分の靴と、行きたい作業台を光糸でつなぐ。
一歩。
矢印から外れる。
もう一歩。
カナタとは違う方向へ進んだ。
カナタは追わなかった。
追えなかった。
「まずかったね」
ナギが横へ来る。
「分かってる」
「分かってない音」
「どうすればいい」
「私に聞かないで」
「響路士!」
「返事を聞く役。答えを決める役じゃない」
ザンバが灰旗を肩へ担ぐ。
「同じ目的へ進むことと、同じ道を歩かせることを、俺も混同した」
「どうした」
「失った」
「役に立たねえ!」
「だから言っている」
工房の外で、三つの足音が鳴った。
どおん――。
同歩機関の輪が沈む。
森歩島の模型だけ、少し遅れて戻った。
ぎぎ、と嫌な音。
輪の根元に、細い亀裂。
ルゥが奥から振り返る。
「三日もない」
銀枝機関を抱えたまま言った。
「次の一歩で、どれかの脚核が欠ける」
鐘歩島には、時刻を告げる鐘がなかった。
代わりに、行き先を告げる鐘がある。
工房へ行く者は、低い鐘を二つ。
食事へ行く者は、丸い鐘を三つ。
誰かを呼ぶときは、相手の名に合わせた短い音。
昔は、町じゅうに違う合図が飛び交っていた。
今は、どの合図も最後に大鐘へ吸われる。
ごおん――。
前へ。
「ここ、嫌い?」
スズが訊いた。
ナギは鐘歩島の吊り道を歩きながら考える。
頭上にも鐘。
足元にも鐘。
風が吹くたび、町全体が小さく鳴る。
「音は好き」
「最後は?」
「嫌い」
「正直」
「返事を食べるから」
二人は《五声台》へ着いた。
大小五つの鐘が、円ではなく離れて立っている。
真ん中は空。
スズは一つ目を叩いた。
左手の親指を低鐘へ。人差し指を次へ。五本の指に割り当てた音名を、触れるたび確かめる。驚きや恐れが強いと小指だけ立つ。今は五つ目の鐘を前に、細い小指が震えていた。
自分の感情だけは、まだどの音名にも入れていない。皆へ届く五声を作れても、「怖い」は一音へ縮めてしまう。
高い音。
「私は、鐘歩島に残りたい」
二つ目。
低い音。
「でも、鉄歩島の工房の音も聞きたい」
三つ目。
細い音。
「森歩島の子どもが歌う声も」
四つ目。
長い音。
「外の船の到着も」
五つ目。
鳴る前に、紺色の同道線が鐘へ絡む。
ごおん――。
「前へ」
スズの四つの言葉が、同じ終わりへまとめられた。
「残るって言ったのに」
ナギが言う。
「この島では、残るも『前へ』にされる」
「前へ進むことが悪いわけじゃない」
「でも、私の前はここ」
スズは足元を叩く。
こん。
鐘歩島。
今、ここ。
「船長は、残るって聞くと止まったと思う?」
「最初は」
「今は?」
「残る人が道を作るの、少し分かってる」
「少し?」
「たぶん三歩くらい」
「何歩で全部?」
「分からない」