第57話 第五章「十二年前の三日」前編
ナギは五声台の中央へ響瓶を置く。
トマリギ島の返事は、まだ風待ち。
カゲノハ村からは、今朝一度だけ届いた。
アカリの声。
――帰還路の試航で、今日の鐘が古い音に埋もれた。
――帰路を直すのではなく、村の今日だけを返す鐘がほしい。
――鐘歩島の音を借りたい。
「アカリ、私より先に仕事を頼んでる」
「会ったことないのに?」
「返事は何度もした」
「じゃあ知ってる人」
スズは簡単に言った。
ナギも頷く。
「現在地の鐘を一つ、作れる?」
「カゲノハ村用?」
「うん。帰る道を決める鐘じゃない。今日の村が鳴ったと分かる鐘」
「どんな音?」
ナギは朝葉機関の不揃いな音を思い出す。
からん。
ころん。
長い音。
途中で止まる音。
修理されるたび変わる。
「毎日、少し違う」
「鐘は同じ音を出す道具」
「同じじゃないほうがいい」
「難しい」
「できる?」
「考える」
スズの顔が明るくなる。
「外へ行かなくても、外の村の鐘を作れる」
「連標網の結節点」
「大きい名前」
「まだ三つ」
「ここを入れたら四つ」
「鉄と森も別」
「六つ」
「一つずつ」
「同じ?」
「違う」
二人で笑う。
町の下では、全島会議の準備が始まっていた。
住民たちは、自分の旗へ小さな音札を結ぶ。
賛成。
反対。
保留。
昔は三種類あった。
今は札の裏に、すべて同じ白い線。
「会議、見に行く?」
「聞きに行く」
広場の中央に、レグルの大鐘がある。
その脇には、鐘守長カネオが立っていた。五十八歳。片側の肩を昔脱臼しており、長い槌を頭上へ上げ続けられない。余韻を測る糸を左手で持ち、反復の槌だけ右へ任せる。揃い過ぎる音を、利き手の癖で同じにしないためだ。
決断の前には、肩の古傷を親指でなぞり、視線を左下へ落とす。今日も一度、わずかに震えた。
「失敗ではなく、保留にできる鐘も要る」
幼い字で《ききなおす》と書かれた古札を胸へ差している。十二年前、子どもだったスズたちから渡されたものだった。
連路長が紺旗を掲げる。
「三針峡を中央門で越える案に、賛成する者」
鐘が鳴る。
大きい。
多い。
反対の者。
小さな鐘が、町の端からいくつか。
鳴り終わる前に、同道線が大鐘へ引く。
ごおん――。
記録係は板へ書く。
――全島、賛成。
「全員じゃない!」
ナギが叫んだ。
人々が振り向く。
レグルも。
「反対が七つ」
「最後の鐘は一つだった」
「最後になる前は七つ」
「途中の揺れだ」
「返事」
ナギは響路の旗を広げる。
「聞こえたものを、なかったことにしない」
反対した七人の鐘へ、細い波を送る。
「今、ここ?」
一人目。
老鐘職人。
「ここだ」
二人目。
旅に出る息子を持つ母。
「ここ」
三人目。
同道で商売が安定した店主。
「反対ではない。まだ決めてない」
ナギは札を直す。
――保留。
「返事が変わった」とレグル。
「今、答えた」
「最初の音は間違いか」
「違う。聞き直して変えた」
「なら、いつまで聞けば決まる」
「決めるまで」
「峡谷は待たない」
「だからって、勝手に同じにしない」
レグルの一本線が、ナギの響路へ触れた。
二つの標術が反発する。
波の先が一瞬、まっすぐになる。
ナギの耳に、全員の声が同じ言葉で入った。
前へ。
前へ。
前へ。
頭の中が白くなる。
金属の味。偏頭痛の前触れ。ナギは左耳の栓を押し込もうとするが、指先が自分の旗を探して空を掴む。奥行きがなくなり、目の前のスズが二歩先か五歩先か分からない。
スズはナギの肩を引くのではなく、五つの音を低い順へ置いた。構造で道を作る。ナギはその音から、人の位置を一つずつ取り戻す。
「私、全部聞けると思ってた」
「聞こえるのと、分けられるのは違う」
「誰の音かも違う」
「そこはナギの仕事」
同じ音の専門家でも、互いの代わりにはならなかった。
「ナギ!」
スズが五つの鐘を同時に叩いた。
高い。
低い。
短い。
長い。
鳴らない一つ。
最後の鐘は、布で押さえている。
同道線が終わりを取れない。
違う四音が、ナギの耳を開いた。
少女は響路を閉じる。
「全部聞くのは、全部を同じにすることじゃない」
息を整える。
レグルは旗を下ろした。
「会議記録を、三種類へ戻せ」
記録係が驚く。
「連路長」
「賛成。反対。保留」
「では決定は」
「今日のところは賛成多数」
ナギを見る。
「多数を、全員とは書かない」
「少し違う」
「結果は同じだ」
「今は」
レグルは答えない。
会議が終わる。
カネオは記録板を受け取り、《全島》の二字へ余韻糸を置いた。糸は七つの反対音で微かに揺れる。
「消すな」
肩を上げられないため、板を下ろさせて自分の高さへ合わせる。
「今日の多数は賛成。反対七。保留一。次の会議で変わっても、今日の七は命令へ直さない」
伝統を守る老人は、記録が現在の命令へ変わることを一番恐れていた。
スズは五つ目の鐘から布を外した。
鳴らす。
小さな余韻。
「私は残る」
今度は大鐘へ吸われる前に、ナギが帳面へ書いた。
――鐘歩島、スズ。残る。
――止まる、ではない。
三番塔は、森歩島の下側にあった。
町の道から見れば、崖の下。
歩く島の重さから見れば、横。
昔の上道から見れば、入口。
「どれが正しい?」
カナタが塔の外壁に張りつきながら訊く。
「全部」とミオ。
「一つにして!」
「今までそれで困ってる!」
塔へ続く道は閉じられている。
一本線の標柱が、前の町へ戻そうとする。
ミオは滑走靴で崖を走り。
カナタは一歩ずつ光板。
ザンバは灰旗の石突を壁へ刺し、二人の後ろを登る。
ルゥは来なかった。
鉄歩島の工房で、同歩機関を調べている。
ナギは鐘歩島。
第一歩号は修理場。
三人が別々の場所にいるだけで、カナタは何度も後ろを見た。
「落ちるよ」
ミオが言う。
「ルゥがいない!」
「工房にいる」
「見えない!」
「いなくなってない」
「分かってる!」
「分かってない顔」
ザンバが下から言った。
「顔で言うな!」
三番塔の扉には、三つの鍵穴。
雷。
雨。
音。
「鉄と鐘の鍵がない」
カナタが白旗を構える。
「開ける!」
「壊すな」
ミオは扉の横へ耳を当てた。
塔の内側から、かすかな音。
四回。
テオが鉄歩島の古い鍵鐘を叩く。
五回。
スズが鐘歩島から返す。
ナギの響路が、別々の音を扉へ運んだ。
三回目。
ミオが自分の旗竿で雨の鍵穴を叩く。
三つの鍵が、同じ時刻ではなく順番に回った。
扉が開く。
「別々の場所から開いた!」
カナタが喜ぶ。
「誰も同じ塔にいないのに」
「仲間!」
「今のは三つの鍵」
「同じ!」
「違う」
塔の中には、三本の旗竿がある。
鉄色。
森色。
鐘色。
中央だけ空。
壁画には、三人の岐路守。
別々の上道を走る。
空の一点へ集まる。
そこで初めて、銅色の三番旗が一本になる。
「一番目は、行きたい場所へ立てる旗」
ミオが壁画をなぞる。
「二番目は、帰る場所へ立てる旗」
トマリギ島の二番旗が、カナタの頭へ浮かぶ。
「三番目は?」
「別々の道を行く人が、また会う場所に立てる旗」
「帰るのと違うのか」
「帰れない場所で会うこともある」
「帰ればいい!」
「どっちの家へ?」
カナタが止まる。
カゲノハ村。
トマリギ島。
第一歩号。
ルゥがもし鉄歩島へ残るなら。
ナギがトマリギ島へ戻るなら。
ザンバが一人で上道へ行くなら。
「全部の真ん中!」
「毎回、真ん中があると思う?」
「作る!」
「誰が決める?」
カナタは白旗を見た。
自分が行き先を言えば、一歩が生まれる。
便利な力。
自分の声が大きいほど、道は太くなる。
「みんなで」
「どうやって?」
「訊く!」
「返事が違ったら?」
「……全部」
ミオが笑う。
「そこから離れられないね」
塔の最上部には、古い滑走路があった。
三本の細い板が、空へ伸びる。
途中で切れている。
その先に、上道。
見えない風の筋。
「試す」
ミオは滑走靴の留め具を締めた。
冷えで右膝が固まり、最初の一歩だけ遅れた。ミオは滑走靴の小風車を回し、「次の鐘まで持つ」と呟く。痛みを申告したのではなく、隠した合図だ。
カナタが白旗を先へ出しかける。ザンバは止めず、ミオの三本の三つ編みを見るよう顎を向けた。鉄。森。鐘。三本を触り終えるまで待つ。少女自身が進路を選ぶ時間だった。
「何を!」
「上道」
「危ない!」
「岐路守見習い」
「俺が先に道を出す!」
カナタは白旗を突く。
「上道の先!」
一歩分の光板。
滑走路の前へ生まれる。
板は太く、安定している。
ミオは乗らない。
「何で!」
「それ、カナタの行き先」
「上道だぞ!」
「どの上道?」
「前!」
「三本ある」
見えない風は、雷、雨、音へ分かれている。
カナタの光板は、三つの真ん中へ伸びた。
どの道にも乗っていない。
「真ん中なら全部へ行ける!」
「どこにも行けない」
ミオは銅旗を掲げる。
三つに裂けた布。
森色の一本だけが風を受ける。