第58話 第五章「十二年前の三日」後編
「私は、雨の上道」
滑走路を蹴る。
光板の横。
何もない空へ飛び出す。
「ミオ!」
カナタが追おうとする。
ザンバの旗竿が胸を止めた。
機巧腕の留め具が強く鳴った。ザンバも「先に助ける」判断へ戻りかけている。けれど右で止め、左手は開いたままにした。ミオの次の一歩を受け取る余地だ。
「聞け」
命令ではなく、自分にも向けた言葉だった。
「本人の一歩だ」
「落ちる!」
「聞け」
風の音。
三回。
ミオの滑走靴が、見えない雨の筋を踏む。
一歩。
二歩。
三歩目で、風が切れた。
体が沈む。
「今!」
ミオが叫ぶ。
カナタは白旗を振る。
「ミオの次の一歩!」
一歩分の光板が生まれた。
少女の足元。
最初ではない。
続き。
ミオが着地する。
「遅い!」
「待った!」
「一歩だけ!」
「十分!」
ミオは光板を蹴、滑走路へ戻った。
呼吸を切らしながら笑う。
「今のは、私の道」
「俺の板もあった!」
「続きに」
「仲間!」
「そこはそう」
カナタは胸の奥が少し軽くなる。
自分が最初へ立たなくても、ミオは消えなかった。
自分の一歩を使っても、ミオの道が自分のものになったわけでもない。
ザンバは灰旗の黒い点を見る。
そこから、二本の細線が現れた。
一つは、ミオが最初に踏んだ上道。
一つは、カナタが続きへ置いた光板。
同じ点から始まらない。
途中で触れ。
また離れる。
「出た!」
カナタが指す。
「標術?」
「まだだ」
「名前!」
「まだ」
「《二股》!」
「却下」
「《別々道》!」
「もっと却下」とミオ。
塔の下から、低い警鐘が鳴った。
一度。
間。
二度。
鉄歩島。
同歩機関の異常音。
ナギの響路が、三番塔へ声を運ぶ。
『ルゥから! 森歩島の脚核、亀裂! 次の二歩で折れる!』
「六日じゃなかったのか!」
『同道旗が歩調を上げた! 三針峡まで、明日の夕方!』
カナタは塔を飛び出す。
「戻る!」
「どこへ?」とミオ。
「第一歩号!」
「ルゥは鉄歩島」
「そっち!」
「船は?」
「あと!」
「行き先、一つずつ!」
ミオが叫ぶ。
カナタは崖の途中で止まりかける。
「まずルゥ!」
白旗を突く。
「鉄歩島の工房、その手前!」
一歩分の光板。
今度は迷わず、正しい方向へ伸びた。
その夜、第一歩号の食卓には四人いた。
ただし、ルゥは鉄歩島の工房から戻ったばかり。
ナギは鐘歩島の現標板を抱えたまま。
ザンバは三番塔で見た古い上道の地図を広げ。
カナタだけが、全員そろったことに安心して食事を始めていた。
食卓の席は四つあるのに、カナタだけは立ったまま冷えた焼き根豆へ息を吹いた。危険のない食卓ほど、どこへ座れば「帰った」ことになるか決められない。結局、船首に近い椅子へ半分だけ腰を掛ける。
ルゥは工具箱の蓋を三度叩き、銀鋲を危険度順へ戻す。ナギは椅子を位置ではなく軋み音で選び、片耳に栓、片耳に鈴をつけたまま皿を受け取った。ザンバは甘い根豆を食べる前に一度匂いを嗅ぎ、椅子を壁へ背を向けない角度へ半指ずらす。
同じ卓を囲んでも、落ち着く形は四つだった。
「いただきます!」
「会議」とルゥ。
「食べながら!」
「口に入れる前に聞いて」
「今、入った!」
「飲み込んで」
「長い!」
カナタは焼き根豆を丸ごと飲み込んだ。
「聞く!」
ナギが現標板へ四枚の札を置く。
カナタ。
ルゥ。
ザンバ。
ナギ。
「今の行き先」
「世界の果て!」
「今日から明日」
「三脚群島を助ける!」
「方法」
「三つの島を――」
同じ道へ、と言いかける。
ミオの上道。
ルゥの工房。
ナギの返事。
言葉を飲み込んだ。
「分ける?」
「疑問にしないで」とルゥ。
「まず、島が本来どの風路へ行きたいか聞く」
ナギが札へ書く。
「私は、三つの現標板をつなぎ直す。最後の音を同道旗に取られない方法を探す」
「鐘歩島?」
「今夜は船。明朝、スズのところ」
「戻る?」
「戻る」
「何刻?」
「決めてない」
「決めろ!」
「返事の試験が終わったら」
「いつ終わる!」
「聞いてから」
「難しい!」
ルゥが自分の札を置く。
「私は、同歩機関の亀裂を一呼吸ずつ支える。三つの脚核を同じにしない別案を作る」
「鉄歩島?」
「今夜は船。明朝、工房」
「戻る?」
「戻るつもり」
「つもり!?」
「三針峡までは」
「そのあと!」
「決めてない」
カナタは食卓を叩く。
「決めてくれ!」
カナタの声が低くなる。白旗の端を握り、説明を増やそうと口を開く。船の故障。世界の果て。父の夢。どれも本当だが、「空席がまた空くのが怖い」という一言の周りを回る言葉だ。
ナギは五拍を待ち、ルゥは銀鋲を抜かず、ザンバは答えを代わりに言わない。
「帰ってきたとき、席がなくなるのが嫌だ」
カナタはようやく言った。
「席は残さない」とルゥ。
「何で!」
「帰った人と、今の席を決める」
アカリの手紙と同じ答えだった。
「どうして」
「仲間だろ!」
「仲間なら、未来を先に渡すの?」
「一緒に行く未来!」
「私の?」
カナタの手が止まる。
ザンバが自分の札を置いた。
「俺は、十二年前の上道を通る」
「一人で?」
「一人で」
「戻る?」
「道があれば」
「なかったら!」
「別の道を探す」
「連絡!」
「ナギへ返す」
ナギが首を振る。
「返事ができる場所だけ」
「じゃあ行くな!」
ザンバの片目がカナタを見る。
「監視役を、船の鎖と思っていたか」
「船を見張る役!」
「必要なら離れて見る」
「見えないだろ!」
「見えないものを信じる話を、今している」
カナタは椅子へ座り直した。
「ナギは」
「私は、響路を三脚群島へ残したい」
「そのあと世界の果て!」
「そのあと、トマリギ島へ一度帰るかもしれない」
「お前も!?」
「母さんと開く航路が増えた。乗るって決めたけど、帰らないって決めてない」
「二番目の旗がある!」
「だから帰れる」
「第一歩号は!」
「また会えばいい」
「どこで!」
ナギは空の五枚目を置く。
「それを決めるのが、三番目の旗じゃない?」
食卓の中央に、何も書かれていない札。
帰る場所ではない。
同じ船でもない。
また会う場所。
「俺は、みんなで世界の果てへ行きたい」
カナタは言った。
「それが、お前の行き先だ」とザンバ。
「みんなのだ!」
「訊いたか」
カナタは三人を見る。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
「世界の果てへ行きたい?」
最初にルゥ。
「見たい」
「同じ!」
「でも、途中で工房へ残るかもしれない」
ナギ。
「行きたい」
「同じ!」
「帰ってから追うかもしれない」
ザンバ。
「行く」
「同じ!」
「別の道でな」
「同じじゃない!」
「行き先と道は違う」
「同じ場所へ着くなら一緒でいいだろ!」
「いつ着く?」
ルゥの問いに、カナタは答えられない。
世界の果て。
場所も。
日も。
道も分からない。
「俺が先に着く!」
「競争じゃない」
「じゃあ待つ!」
「待ってほしいか、まだ分からない」
「何で!」
「一人で見たい景色もあるかもしれない」
カナタの顔が傷ついた。
ルゥは目を逸らさない。
「嫌?」
「嫌だ!」
「止める?」
長い沈黙。
「……止めたくなる」
「正直」
「でも、止めたらレグルと同じになる」
「全部同じじゃない」
ザンバが言う。
「分かってる!」
「分かっていないから、言った」
ナギが空の札を指で叩く。
「今、決めなくていい」
「明日、島が落ちる!」
「今決めるのは、明日の役目」
一枚ずつ、札を並べ直す。
カナタ。
森歩島で、人々の行き先を聞く。未踏路を一歩ずつ。
ルゥ。
鉄歩島で、脚核を直す。三島を同じ形へしない。
ザンバ。
古い上道を調べる。危険を分ける場所を探す。
ナギ。
鐘歩島で、違う返事を最後まで届ける。
第一歩号。
三つ編み場で待つ。
「船だけ一人!」
「船は場所」とルゥ。
「仲間!」
「返事はしない」
ナギが船腹を叩く。
こん。
低い返事。
「した!」
「板」
「第一歩号!」
「好きにして」
カナタは空の五枚目を見た。
「また会う場所」
「今は第一歩号」とナギ。
「明日の夕方まで」
「その先は?」
「決める」
「誰が?」
「全員」
カナタは不満そうに焼き根豆を取る。
「冷めた!」
「会議中に飲み込むから」とルゥ。
「温める!」
朝火炉へ投げようとする。
「やめて!」
三人の声が同時に重なった。
「今の返事は同じ!」
「理由も同じ!」
「珍しい!」
笑いが起きる。
笑い終えたあと、ルゥは左手で根豆をつまめず、右へ持ち替えた。ナギはそれを見ても「痛い?」とは聞かず、「明朝の担当、誰と誰?」と役目の渡し先を問い直す。ザンバは甘味を一つ残し、カナタの皿へ勝手に置かず中央へ戻した。
近くにいることは、相手の不足を全部埋めることではない。助けを選べる場所へ置くことだった。
同じ船にいる理由は、同じ答えしか持たないからではない。
違う答えを、近くで聞けるからかもしれない。
カナタはまだ、それを言葉にはできなかった。