第59話 第六章「三つの足音」前編
カゲノハ村では、帰還路の脇に三本の白杭が立っていた。
一番目。
十年前の村を記録した杭。
二番目。
第一歩号が出航した日の杭。
三番目。
今日の村を測る杭。
三本は、帰還者を正しい道へ送る設備ではない。
同じ場所が、違う日にはどう鳴るかを比べるための記録杭だった。
「一番目、鳴らすよ!」
トウヤが木槌を振り上げる。
「待って」
アカリが帰還路へ耳を当てた。
へこんだ薬箱の角を親指でなぞる。昨日、自分で三番目の札を半歩ずらした失敗が、まだ金色の道に残っている。左手で書いた誤線は消さず、赤糸で囲った。
急に立ち上がると視界が暗くなった。薬を待った日の高熱以来、冷えと過労で眩暈が出る。アカリは「手順の中に休憩はない」と言いかけ、マツバ婆に叱られた日の声を思い出して一呼吸座った。自分の体調だけを記録から外せば、正確さも嘘になる。
現標板へ小さく足す。
――案内役アカリ、休憩一呼吸。
金色の道の奥に、古い薬師橋が一瞬だけ浮かぶ。
今はもうない手すり。
昨日の試験で旅人が踏みかけた場所。
「今は比較だけ。道へつながない」
「三本もあるのに?」
「三本あるから、勝手につながない」
アカリは一番目の杭から細い試験糸を外した。
昨日は、自分も三番目の札を古い橋の位置へ置き、現在の橋と半歩ずらした。
位置を記すことと、道を直すことは同じではない。
それが、今分かっている失敗だった。
現標板が青く曇る。
三脚群島から、四つの現在地が同時に届いた。
カナタは森歩島。
ルゥは鉄歩島。
ナギは鐘歩島。
ザンバは旧上道。
村の板には、宛先を書く欄が一つしかない。
四枚の札を重ねると、文字が《三脚群島》へ潰れた。
「また一つになった」
フィオが言う。
「大きい紙にする?」とトウヤ。
「分ける」
アカリは紙を三枚だけ切った。
「留め具は四つ要る」
セノが斜めの銅杭を持ってきた。髪へ挿した六本のうち、どれが飾りか分からず、全部一度抜いて確かめる。風鐘が重なると耳鳴りがするため、片耳へ布を当てていた。
「三通だけ」
「ザンバの現在地もある」
「返事が必要な手紙は三つ」
「でも板は四地点」
セノはルゥの机を変えた後、自分の仕事が帰還者に消されることを恐れている。だから必要な四つ目を、遠慮せず言った。
アカリは少し考え、四本目の留め具だけ置く。手紙は作らない。空欄の場所を、場所ごと消さない形だった。
一通目。
カナタへ。
――同じ船へ全員を乗せる方法は知らない。
――別の道へ行く人には、次に会う場所を聞いて。
二通目。
ルゥへ。
――机の右側はセノが使っている。
――隣の作業台は空けたまま。使い方は、会ってから決めたい。
三通目。
ナギへ。
――三地点を《三脚群島》という一つの宛先へ戻したくない。
――別々の現在地としてつなぐ方法を、一緒に試したい。
「ザンバには?」
トウヤが訊く。
「今は送らない」
「仲間外れ?」
「返事が必要な手紙を、数合わせで増やさない」
アカリは三枚へ、違う切り込みを入れた。
カナタは一つ。
ルゥは二つ。
ナギは三つ。
読めない風の中でも、触れば宛先が分かる。
東風が来るまで、一刻。
三通は同時に送らない。
一枚ずつ。
返事を確かめてから、次を入れる。
最初の手紙が第一歩号へ届いたとき、カナタは森歩島の脚核の下にいた。
「同じ船に乗せる方法は知らない!?」
『知らない』
響瓶から、アカリの声。
「考えてくれ!」
『本人たちへ聞いて』
ルゥの声が鉄歩島から入る。
『聞いた。私は今、工房』
ナギ。
『私は鐘歩島』
ザンバ。
『俺は上道だ』
「ばらばらだ!」
『現在地はね』
アカリは、四枚を一つの欄へ書かなかった。
紙の端で別々に留める。
「アカリ」
『何』
「帰ったとき、村の道が三つあったら?」
少し間があった。
『どの道を使うかは、帰ってきたときに聞く』
「俺が覚えてる道!」
『今は、それが使えるか分からない』
「三本の杭は?」
『比べるため。案内するためじゃない』
木槌が一度、遠く鳴る。
『昔の道と今日の道、同じ場所へ重ねないほうがいい気がする。でも、まだ気がするだけ』
「分からない?」
『分からない』
アカリは、分からないことを小さく言わなかった。
声を張ったわけではない。姿勢をまっすぐにし、記録係の固い声へ逃げそうになるのを止めただけだ。分からないと言うときほど、アカリは相手の名を略さない。
「カナタ。帰る日に、今の道を聞く。昔の道を捨てろとは言わない」
同じ村へ帰る話でも、帰る者と待つ者の地図は一枚ではなかった。
「じゃあ、帰ったら決める!」
『その日に聞く』
「同じだ!」
『たぶん違う』
響路の向こうで、フィオが笑った。
そのとき、森歩島から警鐘。
どん。
ど、どん――。
足音が崩れる。
ルゥの声が響路へ飛び込んだ。
『森歩島の右脚、折れる!』
大きな轟音。
第一歩号の現標板から、一枚の札が落ちた。
――三針峡まで、明日の夕方。
裏に、新しい文字。
――次の一歩まで、百呼吸。
森歩島の右歩脚が折れた瞬間、三つの島を結ぶ橋が悲鳴を上げた。
島と島の間が開く。
紺色の光帯が引き伸ばされる。
町の家々が道ごと傾いた。
「森歩島、右へ流されます!」
「第三橋、支柱が抜ける!」
「畑区画を避難!」
人々は走る。
それでも足元の矢印は、同じ前へ押し続けた。
崩れた橋の先へまで。
「止まれ!」
カナタが白旗を突く。
「ここまで!」
一歩分の光板が壁のように立つ。
流される人々を受け止める。
「横へ逃げろ!」
「横へ行けない!」
老人が叫ぶ。
足元の一本線が前へ戻す。
カナタは横道を出す。
「森の広場!」
一枚。
「治療所!」
二枚。
「家!」
三枚。
生まれた道はすべて途中で曲がり、同じ一本線へ吸われる。
「行き先が違うのに!」
「同道旗が、島の前を一つにしてる!」
ナギは鐘歩島の現標板を抱え、町の中央へ走る。
「今、ここ! 返事して!」
五回。
右の家。
左の畑。
崩れた橋。
返事は四方から来る。
最後の一音だけ、大鐘へ持っていかれる。
ナギは途中までを読む。
「子ども三人、東の家! 老人二人、橋の下! 返事がない場所、穀倉!」
「穀倉へ!」
カナタが未踏路を出す。
今度は人ではない。
ナギが聞いた、返事のない空白。
一歩分の板が横へ向く。
「行けた!」
「返事がない場所は、同道旗が終わりを取れない!」
「便利!」
「人がいないってこと!」
「助けに行く!」
カナタは光板を走る。
穀倉の中には、作業員が一人倒れていた。
返事をする鐘が棚の下に挟まれている。
「いた!」
「だから、返事なしを無人と決めない!」
ナギが叫ぶ。
ルゥは鉄歩島の同歩機関へ、銀鋲を何十本も打ち込んでいた。
髪に残る銀鋲は三本だけ。危険度の低い順から抜いたはずが、もう順番を確かめる余裕がない。左手首の腱が熱を持ち、親指が一度閉じたまま戻らない。
「自分の番ではない」
痛みを隠す言葉が出た。テオが四拍子を止めずに返す。
「今、ルゥの糸だ」
バルカは人数、炉、出口を数え終えてから、工房の若手二人へ一本ずつ銀糸を渡した。ルゥ一人の腕を、三島の橋にしないためだった。
折れた森歩島の脚。
ひびの入った鉄歩島の装甲根。
鐘歩島の橋。
切れかけたものだけを、別々に縫い止める。
「《継ぎ路》!」
銀糸が三方向へ走る。
「同じ拍子にしない! 亀裂だけを今の位置へ!」
テオが四拍子の輪を押さえる。
「鉄、四!」
一。
二。
三。
四。
森歩島の工房から、ミオの声。
「森、三!」
一。
二。
三。
スズが鐘歩島で五つの鐘を叩く。
「鐘、五!」
違う拍子を、違うまま支える。
三輪の沈み方が少しずれる。
橋が激しく揺れた。
「揺れる!」
工房の職人が叫ぶ。
「揺れても、折れない幅へ!」
ルゥが銀糸を緩める。
今までの継ぎ路は、切れ目を閉じた。
今は、切れ目が動ける余白を残す。
一指。
二指。
三指。
島ごとに違う。
「百呼吸!」
ルゥが叫ぶ。
「それ以上は保たない!」
連路長の塔で、レグルが紺旗を掲げる。
「百呼吸で中央へ重ねる!」
「違う!」
ルゥの声が工房から響路へ乗る。
「百呼吸で分ける方法を探す!」
「今分ければ、森歩島が落ちる!」
「今重ねたら、全部の脚核が壊れる!」
「中央門へ入れば支えられる!」
「入る前に壊れる!」
レグルは三脚群島を見る。
森歩島は右へ沈み。
鉄歩島と鐘歩島は、光帯に引かれて傾いている。
三針峡は予定より近い。
石針から伸びる風が、島々を吸っている。
あと一刻。
「カナタ!」
レグルが呼ぶ。
「未踏路を、三つの島の前へ!」
カナタは穀倉から飛び出した。
「でかい道なら支えられる!」
「待って!」
ナギが腕を掴む。
「誰の前?」
「三つの島!」
「行き先は?」
「中央門!」
「ミオたちは?」
「あとで分かれる!」
「いつ?」
「通ってから!」
「同じこと!」
森歩島が大きく沈む。
家が一軒、雲海へ滑った。
ザンバが橋の上から飛ぶ。
機巧腕で屋根の梁を掴む。