第60話 第六章「三つの足音」後編
右腕の接続部へ激痛が走る。幻肢の指まで梁を握っている感覚。ザンバは「風向きのせい」と言いかけ、今は誤魔化さなかった。
「右腕、三呼吸」
自分の限界を声へ出す。三呼吸後、生身の左手で梁の端を次の住民へ渡す。壊す手と受け取る手を一人で完結させず、重さを共同作業へ変えた。
灰旗の石突を橋へ刺す。
人の力だけで、家を一呼吸止める。
「船長!」
男が叫ぶ。
「選べ!」
「全部!」
「方法を!」
カナタは白旗を両手で握る。
大きな道。
三つの島を同じ場所へ。
今なら救えるかもしれない。
ルゥは反対している。
ミオも。
ナギも。
だが、家が落ちる。
人がいる。
「中央門の手前!」
白旗を振り下ろした。
「標術――《未踏路》!」
空中に巨大な光板。
森歩島一つを載せられる大きさ。
三つ分には足りない。
「もっと!」
二枚目。
三枚目。
横へ並べる。
同道旗の一本線が引く。
三枚は途中から重なった。
「また一枚!」
「厚さは三つ!」
レグルが叫ぶ。
「支えは足りる!」
「幅が足りない!」とルゥ。
「位置を重ねる!」
「まだ百呼吸じゃない!」
「一!」
カナタが数え始める。
「数えないで!」
「分かりやすい!」
「長く感じる!」
「二!」
ザンバは家を橋へ戻す。
灰旗の黒い点から、二本の細線が伸びる。
一つは家。
一つは橋。
同じ場所へ重ねず、隣り合わせに戻す。
線はすぐ消えた。
「今の!」
カナタが叫ぶ。
「数えろ!」
「三!」
ナギは三枚の現標板へ響路を開く。
「鉄、今!」
四回。
「森、今!」
三回。
「鐘、今!」
五回。
返事が別々に来る。
最後を同道旗へ渡す前に、帳面へ刻む。
「四!」
「カナタ、数がずれてる!」
「今、全体の四!」
「鉄も四!」
「ややこしい!」
「数えたのあんた!」
百呼吸。
今ある亀裂だけを支える時間。
その間に、別々の道を作らなければならない。
けれど、人々は巨大な光板を見て歓声を上げた。
「一つになれば通れる!」
「連路長!」
「未踏路士!」
「このまま中央へ!」
恐怖の中で、一枚の太い道は分かりやすかった。
レグルの紺旗が強く光る。
レグルは短く笑った。愛想笑いのまま、笑い終わる前に同歩機関の次の留め具へ手を伸ばす。道を分ければ、また誰かを失う。その恐怖が、作業の速さへ姿を変えた。
白帯の下で、未開封の三通が鳴る。妻の森路笛も。けれど男は一つの大きな道だけを見た。分かりやすさが、恐怖の中では正しさに見えた。
ルゥの銀糸へ、一本線が絡み始めた。
「触らないで!」
「亀裂を支える力を、三島の縫い目へ使う!」
「約束が違う!」
「落ちる島を前に、約束を守って全員を失うのか!」
ルゥの指が止まる。
森歩島の脚が、また一欠け落ちた。
残り六十七呼吸。
選ぶ時間が、全員を同じ答えへ押していく。
「百呼吸だけ」
ルゥは同歩機関の中央で、レグルを見た。
条件を一つ言うたび、髪から銀鋲を一本抜き、床へ並べる。百呼吸。三つの脚核を一つにしない。光板を増やさない。最後の一歩を本人へ残す。
口約束を、手で数えられる形へした。レグルの白帯は、その鋲と平行になるよう何度も直される。
「私の《継ぎ路》は、壊れた場所だけを支える」
「分かった」
「三つの脚核を一つにしない」
「分かった」
「未踏路を重ねるのは、森歩島を持ち上げる間だけ」
カナタを見る。
「分かった!」
「最後まで聞いて!」
「聞く!」
「百呼吸の間に、島を分ける準備をする。テオは鉄の脚核。ミオは森。スズは鐘。ナギは三つの返事を保つ。ザンバは橋の負荷を分ける」
「俺は!」
「光板を一枚ずつ保つ。増やさない」
「大きいの一枚!」
「今ある三枚。増やさない」
「分かった!」
「本当に?」
「百呼吸!」
カナタは白旗を握り直す。
レグルは紺旗を下ろした。
「連路長の名にかける」
「名前を道にしないで」
「約束だ」
ルゥは銀鋲を引く。
三輪をつないでいた糸が少し緩む。
鉄歩島の四拍子。
森歩島の三拍子。
鐘歩島の五拍子。
別々の沈み方を取り戻す。
揺れは大きい。
だが、歯は噛み合わなくてよい。
同じ輪の中で、違う速さへ回り始める。
「十七!」
カナタが数える。
「今、十二!」
ナギが訂正する。
「俺、速く呼吸した!」
「一人の呼吸で決めない!」
「全員で!」
「だから、鐘!」
スズが五声台から一つずつ鐘を鳴らす。
一呼吸。
二呼吸。
最後を大鐘へ渡さない。
五つ終わるたび、ナギが現標板へ一線。
「十五!」
「遅い!」
「正しい!」
ミオは森歩島の脚核へ滑走靴で降りた。
折れた右脚。
残る二本の根。
根の内側には、雨風路の古い踏み跡がある。
「森歩島は、右へ行きたい!」
町へ叫ぶ。
「誰が?」
一本線に慣れた人々が戸惑う。
「畑は雨が要る!」
農師が旗を上げる。
「雨風路!」
「木工場は雷を避けたい!」
「雨!」
「鳴風路の向こうへ家族がいる!」
一人の女が叫ぶ。
「鐘へ行きたい!」
ミオは答えを消さない。
「森歩島の道は、一つじゃない!」
「島は一つ!」
カナタの声が遠くから届く。
「だから、今は島の一歩を決める!」
「誰が!」
「島の人!」
言ってから、自分でも驚く。
以前なら、俺が作る、と叫んだ。
今は答えを待つ。
農師。
木工師。
家族を訪ねたい女。
違う希望。
最後に、森歩島の脚核そのものが三拍子を鳴らす。
雨風路の方向へ。
「島は雨!」
ミオが旗へ記す。
「ほかの人は、島を降りて別の道も選べる!」
同じ頃。
テオは鉄歩島の工房へ、雷風路の導線を戻していた。
「鉄は雷を炉へ入れられる!」
バルカが職人たちへ問う。
「中央へ行きたい者は!」
手が上がる。
「雷へ行きたい者は!」
それ以上。
「決めない者は!」
少数。
テオは全部数える。
「多数、雷。反対、中央。保留、六」
バルカは板へそのまま書く。
「全員、とはしない」
鐘歩島では、スズが五つの鐘を別々に鳴らした。
「鳴風路の先へ行きたい人!」
高い音。
「森歩島へ残りたい人!」
低い音。
「今は決めない人!」
鳴らない鐘へ手を置く。
沈黙も一つの返事として記す。
ナギの響路が三島の答えを運ぶ。
鉄、雷。
森、雨。
鐘、鳴風。
途中で別の道へ降りたい者。
保留。
同じ答えにはならない。
「四十五!」
スズが叫ぶ。
三針峡が迫る。
中央の石壁。
三つの門。
風は強くなる。
光板が揺れる。
カナタは白旗を両手で支える。
「一枚目、割れる!」
ルゥの銀糸が縁を縫う。
「増やさないで!」
「でも!」
「今ある板を一歩ずつ渡す!」
森歩島が一枚目へ右脚を置く。
鉄歩島と鐘歩島は、自分の重さを別の板へ移す。
三枚はまだ重なっている。
少しずつ横へずらす。
ザンバが灰旗を構える。
黒い点から、二本の線。
一本だった光板の重さを、左右へ分ける。
「標術――」
言葉が出ない。
紋はまだ定まっていない。
それでも線は伸びる。
鉄。
森。
二つ。
鐘の分が足りない。
「三つ目!」
カナタが叫ぶ。
「俺が出す!」
「増やさない約束!」
「鐘歩島が落ちる!」
白旗を振り上げる。
その瞬間、レグルの紺旗が光った。
「今しかない」
「待って!」
ルゥが叫ぶ。
「七十二呼吸!」
「石針まで、三十」
レグルは同歩機関の台座へ旗を突き立てる。
旗を突く直前、外套の中から森路笛が落ちた。床へ当たり、妻が使っていた三つの短音を鳴らす。
レグルの右手が笛へ伸びる。人へ触れる時だけ使うと決めた手。だが、拾わず紺旗へ戻した。
「後で正しい名前を付ける」
限界を隠す日の言葉だった。約束を破ることを救助と呼び直す準備を、自分へしている。
ルゥは床の銀鋲を見た。まだ七十三呼吸。条件は全部、そこに残っている。
「分ける準備は整っていない!」
「重ねる準備は整った」
「約束!」
「守れば、鐘歩島が落ちる」
「だから三つ目を――」
カナタの言葉へ、レグルが答える。
「お前も、全員を一つの道で救いたいのだろう」
カナタの白旗が止まる。
否定できない。
「一度だけ」
レグルは言う。
「中央を越えるまで。越えたら分ける」
ルゥはカナタを見る。
「信じる?」
カナタは三つの島を見る。
落ちかける鐘歩島。
光板の亀裂。
石針。
「一度だけ」
答えた。
ルゥの顔から、何かが消えた。
怒りではなかった。信頼した相手へ渡した自分の術が、同意なしに使われたと理解した顔だった。左手首の痛みが消えたように感じるのは、限界を越えた徴候だ。
髪の銀鋲を最後の一本まで抜き、床へ置く。道具を投げなかった。声も上げない。ルゥが本当に怒ったときほど、動作は正確になる。
「助けるためなら、私の答えを消していいの?」
問いはレグルだけでなく、カナタへ向いていた。
「二人で決めた」
「ルゥ!」
「私の糸を使って」
「助けるため!」
「私の答えを聞かずに」
レグルが紺旗を振る。
「標術奥義――《万歩同列》!」
一本線が、ルゥの銀糸へ入り込んだ。
亀裂を支えていた糸が、島と島を縫う糸へ変わる。
「返して!」
ルゥが引く。
離れない。
カナタの三枚の光板も引かれる。
重なる。
一枚。
厚さだけが三つ。
「七十三」
ナギが小さく言った。
百呼吸の約束は、二十七呼吸を残して破られた。