第62話 第七章「つなぎすぎた道」後編

カナタは尾へ跳ぶ。

光板を一歩。

二歩目を出す。

単路獣の体に、後ろから噛みつく形。

獣が身をよじる。

三島の進路が一瞬遅れる。

岩壁まで、三百歩。

「止まった!」

「遅れただけ!」

尾がカナタへ巻きつく。

白旗の中央へ、一本の太い矢印が入り始める。

カナタは旗の中央を握れなくなり、布の端へ指を移した。世界の果て。仲間。全部。自分の好きな言葉が、ヒトスジの舌へ同じ餌として並ぶ。

「俺の『全部』が、道を食わせたのか」

答える余裕はない。それでも問いを口へ出したことで、矢印の太さが一瞬揺れた。人を助ける速さが、その人自身の一歩を奪う場所を、初めて怪物の外ではなく自分の内側に見た。

世界の果て。

仲間。

助ける。

全部という言葉。

すべてが一本の《前》へ削られる。

「カナタ!」

ナギの声が、響路ではなく肉声で届く。

第一歩号が獣の横へ近づいている。

操舵輪には誰もいない。

船は同道線に引かれて勝手に前へ進んでいる。

「船まで!」

四つ目の椅子の鈴が、同じ一音を鳴らす。

どおん――。

「第一歩号を止めて!」

ナギが船縁へ飛び移る。

終路鐘の綱を引く。

から……。

最後まで鳴らない。

「みんなの着きたい場所が違う!」

「今はそれでいい!」

カナタは尾に巻かれたまま叫ぶ。

「鐘を鳴らすな!」

「止まらない!」

「船を、誰の前にも置くな!」

ナギは四つ目の椅子へ結んだ安全糸を切る。

椅子が甲板を滑る。

船首へ。

同道線が椅子を前へ引く。

ナギは逆に、椅子の鈴だけを外した。

「空席!」

鈴を空へ投げる。

誰も座っていない場所。

行き先をまだ決めていない一席。

単路獣の白線が、一瞬迷う。

「今!」

ルゥは銀糸を一本だけ外す。

鉄歩島と森歩島の間。

位置が半指ずれる。

工房の壁と木の幹が擦れ、火花。

「あと九本!」

テオが工房で叫ぶ。

「一度に外すな!」

「一つずつ!」

レグルは紺旗を獣から引き抜こうとする。

抜けない。

「同道を解く!」

「命令が一本しかない!」

ミオが銅旗の糸を引く。

「分かれろって言えない!」

「言える!」

カナタは白旗を獣の尾へ突き立てる。

「みんな、別々に行け!」

声は低く、喉が痛む。言葉を出した右足は前へ行きたがり、左膝は尾へ巻かれたまま。それでもカナタは次の指示を足さなかった。どの別々か。誰がどこへ。そこを自分で決めれば、また同じ前になる。

白旗の端をつまみ、中央の空白を残す。

言った瞬間、胸が痛む。

別々。

見えなくなる。

帰ってこないかもしれない。

それでも叫ぶ。

「今は、別れろ!」

単路獣の尾に、細い亀裂。

白旗の太い矢印が止まる。

岩壁まで、二百歩。

ザンバが灰旗を掲げる。

黒い点から、三本の線が初めて現れた。

鉄。

森。

鐘。

「標術――《岐点》

名を口にする。

一つの進路の途中へ、黒い点。

そこから三つの道を始める。

単路獣の胴に、三本の亀裂が走った。

喉の乳白色が、赤、緑、紫へ戻る。異音を飲み込み過ぎた体が三つの影へ分裂し、同じ場所で重なろうとして何度もずれる。苦痛というより、初めて別々の感覚器を持った混乱だった。

ヒトスジは吠えず、分岐角を三つの道へ順に擦りつけた。食べられないものを確かめるように。

獣は三つの頭を生やす。

だが、今度は同じ前を向けない。

鉄の四拍子。

森の三拍子。

鐘の五拍子。

それぞれの体が、内側から違う方向へ引く。

「今なら分けられる!」

ルゥが叫ぶ。

「でも、同じ場所に重なった町を先に離す!」

「どうする!」

「全員、別の島へ!」

「俺は!」

「自分で選んで!」

響路を閉じたナギ。

鉄歩島のルゥ。

上道へ向くザンバ。

森歩島のミオ。

鐘歩島のスズ。

全員が、同じ船にはいない。

岩壁まで、百五十歩。

分かれることだけが、今は全員を救う道だった。

「まず、人を分ける!」

ルゥの声が、三つの島へ響いた。

同じ場所に重なった町を、島より先に離す。

鉄歩島の炉と、森歩島の家。

鐘歩島の鐘楼と、鉄歩島の水管。

同じ位置を占めているものへ、銀鋲を二本ずつ打つ。

「元いた島を言って!」

「今いる場所は一つだぞ!」

カナタが叫ぶ。

「だから、どこへ戻りたいか!」

「元の家!」

「仕事場!」

「家族がいる島!」

「どこでもいい!」

答えはばらばら。

ルゥは同じ島へ戻すのをやめた。

「鉄へ行きたい人、四回!」

テオが工房の鉄板を叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

「森、三回!」

ミオ。

「鐘、五回!」

スズ。

三つの音へ、人々が自分の旗を向ける。

ナギは響路を閉じたまま、肉声で叫んだ。

「聞こえる音を、自分で選んで!」

同道旗が最後を一つにする。

だから、最後まで待たない。

四回の三回目で鉄へ。

三回の二回目で森へ。

五回の四回目で鐘へ。

一音手前。

同道に取られる前の返事。

「一歩、足りない!」

カナタが言う。

「本人が踏む!」

ルゥは銀糸を、各島の一歩手前まで伸ばした。

最後の一歩を空ける。

鉄を選んだ者が、自分で鉄板へ足を置く。

森を選んだ者は木板。

鐘を選んだ者は、五つ目を鳴らす。

位置が分かれる。

重なっていた体が、元の重さへ戻る。

「俺も手伝う!」

カナタは白旗を振る。

「鉄の一歩手前!」

一枚。

「森!」

二枚。

「鐘!」

三枚。

光板はそれぞれ別の方向へ向く。

単路獣が三つの頭で噛みつく。

板の先を同じ岩壁へ曲げようとする。

「最後を空けて!」

ナギが叫ぶ。

カナタは光板を短くする。

一歩手前。

単路獣が食べる終わりがない。

板は曲がらない。

「できた!」

「誰かが踏むまで道じゃない!」

「それでいい!」

人々が自分の一歩を置く。

鉄。

森。

鐘。

町の輪郭が少しずつ分かれる。

岩壁まで、百二十歩。

「第一歩号は!」

カナタが船を見る。

同じ場所に重なった三島の中央へ、つぎはぎの船が押し込まれている。

帆柱は鐘歩島の鐘楼。

船首は森歩島の家。

船尾は鉄歩島の工房と重なる。

「船をどこへ戻す!」

「船長が決めて!」

「みんなのところ!」

「一つ!」

「三つに切る!」

「切らない!」

ルゥが即座に怒鳴る。

「第一歩号の現在地は、一つ!」

ナギが四つ目の椅子の鈴を探す。

空へ投げた鈴は、単路獣の尾に引っかかっている。

誰も座っていない音。

行き先を決めていない一席。

それが船から離れたままでは、現標が定まらない。

「取ってくる!」

ナギが光板へ飛び出す。

「俺が!」

「船を決めて!」

「どこ!」

「今、誰が操舵する!」

操舵輪はルゥの手から遠い。

鉄歩島の工房へ戻れば、船に乗れない。

ナギは鐘歩島へ行く必要がある。

ザンバは旧上道。

ミオは森歩島。

「俺」

カナタは白旗を握る。

「第一歩号は、森歩島!」

カナタは言い切ったあと、三人を見る。以前なら「全員、船へ」と続けていた。今は船体という一つの物に必要な行き先だけを決め、人の行き先は呼ばない。

「ルゥは?」

「鉄」

「ナギは?」

「鐘」

「ザンバは?」

「上道」

一つずつ聞き、嫌そうな顔のまま白旗へ記憶した。

「理由!」

「折れた脚を支える!」

ルゥが一呼吸だけ考える。

「分かった。船長、操舵!」

「できる!」

「できないけど、今はやって!」

「褒められた!」

「褒めてない!」

カナタは第一歩号へ一歩を出す。

船首の手前。

自分で最後を踏む。

甲板へ着地。

操舵輪を握る。

「右へ!」

ルゥが叫ぶ。

「右はどっち!」

「船の!」

「船が透けてる!」

「私の右!」

「見えない!」

「森歩島!」

「それなら分かる!」

操舵輪を回す。

第一歩号が鉄の工房をすり抜け、森の家へ戻る。

船体が元の重さを取り戻す。

鍋蓋が二枚、同時に落ちる。

「往還翼!」

「あとで!」

カナタは船首を森歩島の折れた脚へ向けた。

朝火炉を吹かす。

第一歩号の船腹が、島の下へ滑り込む。

「船で支える!」

「潰れる!」

「鍋蓋を下ろす!」

二枚の重錨が、光板と森歩島の間に入る。

今度は本当に緩衝板になった。

「働いた!」

船体が大きく軋む。

「働きすぎ!」

ナギは単路獣の尾へ飛び移った。

白い線が足を前へ引く。

「私は鐘歩島!」

自分の行き先を言う。

足元に、スズの四音目。

五つ目ではない。

最後の一歩手前。

ナギは響路を一瞬だけ開く。

「スズ!」

『ここ!』

同道へ変えられる前に閉じる。

四つ目の椅子の鈴を掴む。

安全糸を腰へ結ぶ。

「第一歩号、現在地!」

鈴を五回。

カナタが船の返事の鐘を五回叩く。

今、森歩島。

ナギは最後まで聞かず、四回目で道を閉じた。

「返事、途中!」

「最後は信じる!」

自分は鐘歩島へ跳ぶ。

光板の手前。

最後の一歩を、自分で踏む。

スズが腕を掴む。

「来た!」

「今だけ!」

「そのあと?」

「決めてない!」

「いい返事!」

ルゥは鉄歩島へ戻った。

銀糸を一本ずつ外しながら、工房の床へ着地する。

テオが手を伸ばす。

「戻った」

「今は」

「また出る?」

「たぶん」

「第一歩号へ?」

「決めてない」

「船長、怒る」

「もう怒った」

「戻る?」

「今は脚核!」