第63話 第八章「一本線の危機」前編
テオは四回、輪を叩く。四拍目で終わった。余計な五拍目はない。けれど腰をかばう姿勢をルゥが見つけ、作業台を一段下げる。
「座れとは言わないんだ」
「弱いと思うからでしょ」
「思ってない」
「本人が」
役目を渡すとは、相手が痛みを隠すのまで見過ごすことでも、代わりに全部やることでもなかった。
二人は四拍子の輪へ走る。
ザンバは、三島の影が分かれ始めた隙間へ立っていた。
旧上道は、石針の上を細く伸びている。
レグルが紺旗を抜こうとする。
単路獣へ根を張り、動かない。
「連路長」
ザンバが呼ぶ。
「残れ」
「断る」
「お前がいなければ同道を解けない」
「今のお前では解けない」
「何をしろ」
「旗の行き先を変える」
「一本しかない」
「だから上道へ来い」
「島を置いて?」
「島は三つの者が動かす」
「私の責任だ」
「責任の顔をした恐れか」
レグルがザンバを見る。
「挑発か」
「確認だ」
岩壁まで、九十歩。
レグルは紺旗から手を離せない。
ザンバが機巧腕で旗竿を掴む。
「一人で持つな」
「お前が言うか」
「言えるようになった」
二人で引く。
紺旗が単路獣から半分抜ける。
一本線の根が三つに裂ける。
「今!」
ザンバは黒い点を上道の入口へ置く。
「《岐点》!」
レグルと島の間に、二つの進路。
一つは連路長の塔。
一つは上道。
どちらも消さない。
「選べ」
レグルは塔を見る。
ミオが森歩島の脚核へ立っている。
スズは鐘歩島。
テオは鉄歩島。
自分がいなくても、島には人がいる。
「上道」
初めて、自分の行き先を言う。
ザンバと同時に踏み出す。
三脚群島は、四つの場所へ分かれた。
鉄。
森。
鐘。
その上を走る、二人の細い道。
岩壁まで、七十歩。
同じ場所にいる者は、もう誰も全員ではなかった。
鉄歩島。
ルゥは同歩機関の輪へ、鋸を入れた。
「切るの!?」
テオが驚く。
「輪じゃない。歯を」
三つの脚核を同じ速さへするため、十二年前に足された共通歯。
鉄の四拍子。
森の三拍子。
鐘の五拍子。
全部を一周二十拍へ合わせるための大歯車。
「これを外す」
「全部止まる」
「一呼吸だけ」
「その間に?」
「鉄歩島の四拍子を、自分の輪へ戻す」
「森と鐘は」
「それぞれの人が戻す」
「見えない」
「返事を待つ」
ルゥは鋸を引く。
左手首へ打った銀鋲が脈に合わせて熱い。一人で切れば速い。けれどルゥはテオへ鋸の反対側を渡した。
「四拍目で引く」
「三拍目で準備」
「五拍目が出たら止める」
「失敗の音?」
「止まる音」
自分が壊れるまでつなぐ癖を、共同作業の手順へ変えた。
共通歯が火花を散らす。
同道線が銀糸を通じて腕へ入る。
前へ。
同じに。
つなげ。
「私は、同じにするためにつなぐんじゃない!」
銀鋲を自分の手首へ打つ。
「《継ぎ路》! 私の今と、私の糸!」
奪われた標術を、自分の手へつなぎ直す。
指から血。
銀糸が一本ずつ色を取り戻す。
カゲノハ村の古い板を直した糸。
トマリギ島の往路と還路を並べた糸。
同じ形に戻さなかった記憶。
「テオ、四拍子!」
テオが脚核を叩く。
一。
二。
三。
四。
共通歯が切れる。
鉄歩島の輪が自由に回る。
島の影が森歩島から一指離れた。
重なっていた木が、工房の壁を擦る。
「まだ近い!」
「一指ずつ!」
ルゥは銀糸を切らず、長くする。
橋を外すのではない。
離れる距離へ合わせて、端を伸ばす。
鉄歩島と森歩島の間に、初めて空が見えた。
鐘歩島。
ナギは響路を開かなかった。
「聞かないの?」
スズが訊く。
「今は、近くを聞く」
ナギは片耳の鈴を外し、もう片耳の栓を浅くした。全部を聞くのではなく、目の前の一人の呼吸へ範囲を狭める。
スズは音量の均衡を取り、ナギは誰が鳴らしたかを確認する。スズが五つの鐘を美しく分けても、持ち主が倒れていれば現在地は別に要る。ナギが一人ずつ名を取っても、鐘の構造が崩れれば遠くへ届かない。
二人は互いの仕事を「同じ」と呼ばなかった。
遠い全島の声を一度に取れば、また単路獣へ送る。
目の前の鐘。
人の呼吸。
五つの音紋。
「鐘歩島は、どこへ行く?」
ナギが肉声で問う。
「鳴風路!」
多くの声。
「森歩島へ残りたい!」
少数。
「決めてない!」
沈黙。
「島の一歩は?」
スズが五声台へ立つ。
五つの鐘。
一つ目。
鳴風路。
二つ目。
残る者を移す。
三つ目。
決めない者の現在地を保つ。
四つ目。
鉄歩島へ行く者。
五つ目。
まだ鳴らさない。
「最後は?」
ナギが訊く。
「島が踏むとき」
「同道に取られる」
「だから、ほかの島と違う時に鳴らす」
「いつ?」
「聞く」
スズは地面へ耳を当てる。
鉄歩島の四拍子が遠く戻る。
一、二、三、四。
森歩島はまだ乱れている。
「鉄が離れたあと」
五つ目を鳴らす。
ごおん。
同道旗は四拍子の最後を待っていた。
鐘の五つ目を取れない。
鐘歩島の脚核が、自分の五拍子を取り戻す。
一。
二。
三。
四。
五。
島の影が反対側へ一指離れる。
「できた!」
「まだ一指」
「次!」
ナギは響路を一呼吸だけ開く。
「鉄、今?」
四回。
途中で閉じる。
「森、今?」
返事は乱れている。
「待つ」
「聞こえない」
「いなくなってない」
スズと二人で、森の次の返事を待つ。
森歩島。
カナタは第一歩号を、折れた右脚の下へ押し込んでいた。
操舵輪を右へ。
船は左へ。
「逆!」
ミオが甲板から叫ぶ。
「分かってる!」
「同じ間違い二回!」
「操舵輪が逆なんだ!」
「船のせいにしない!」
往還翼の鍋蓋が、光板と島の間で軋む。
「あと一指、森を右へ!」
カナタが白旗を抜く。
「雨風路の手前!」
一歩分の光板。
島の右側。
同道線が岩壁へ曲げようとする。
「誰の一歩!」
ミオが叫ぶ。
「森歩島!」
「島は返事した?」
脚核が三拍子。
一。
二。
三。
右へ。
「した!」
光板が曲がらない。
森歩島が一歩を置く。
第一歩号が支えから外れ、下へ落ちる。
「船!」
「今度は自分を支える!」
カナタは船の手前へ一歩。
自分で踏む。
船首へ戻る。
「一人で二つ!」
「順番!」
森歩島の影が、鉄と鐘から一指離れる。
三島の間に、細い空。
単路獣の胴が引き伸ばされる。
白い線に亀裂。
「ミオ!」
「何!」
「三番旗!」
「上道へ行く!」
「一人で?」
「三人で探すはずだった」
テオは鉄歩島。
スズは鐘歩島。
今、上道へ出られない。
「私が先に行く」
「待て!」
「待たない」
「一人は危ない!」
「島も危ない」
「俺が!」
「第一歩号を誰が操舵するの?」
カナタの口が止まる。
「船長」
ミオが言う。
「自分の道を持って」
森歩島を雨風路へ導く。
第一歩号を支える。
住民へ道を出す。
それが今のカナタの役目。
「でも、ミオが!」
「返事する」
「聞こえなかったら!」
「いなくなったことにしない」
ナギの言葉。
カナタは歯を食いしばる。
「一歩、必要なら呼べ!」
「最初は私」
「分かってる!」
「本当に?」
「たぶん!」
「そこは約束して!」
ミオは三番塔から運んだ小さな滑走艇へ乗る。
洗濯竿の翼。
森歩島の赤い板。
鉄歩島の銀枝一枚。
鐘歩島の小鐘。
そして、第一歩号から外した予備の鍋蓋が足元にある。
「俺の往還翼!」
「一枚あるでしょ!」
「一組で翼!」
「今は足場!」
「返せ!」
「再会原で!」
小さな艇の名は《再会号》。
ミオが滑走靴で蹴る。
上道へ飛び出した。
カナタは追わなかった。
第一歩号の操舵輪を握る。
見えなくなるミオへ、白旗を振るだけだった。
旧上道。
ザンバとレグルは、三本の石針の上を走っていた。
道は細い。
十二年前の亀裂。
雷に焼けた跡。
音で削れた跡。
途中に、三つの標柱が倒れている。
鉄。
森。
鐘。
「昔は、ここで三人の位置を比べた」
レグルが言う。
白帯はまだ、走るたびねじれる。レグルは三度直し、四度目で手を止めた。別々の速度へ体が慣れたわけではない。先を歩くザンバへ「待て」と言いかけ、代わりに自分の膝の遅れを口にする。
「一呼吸、遅れる」
右膝の古傷を、初めて命令ではなく現在地として渡した。ザンバは速度を同じにせず、分かれ道の黒点だけ一呼吸長く残した。
「今は一人」
「二人だ」
「お前は岐路守ではない」
「監視役だ」
「何を監視する」
「お前が全部を一つにしないか」
「今も疑うか」
「今だからだ」
単路獣の三つの頭が、下から上道へ伸びる。
一本線を取り戻そうとする白い牙。
ザンバは黒い点を道へ置く。
「《岐点》!」
上道が二つへ分かれる。
一つは雷の頭を避け。
一つは音の頭を避ける。
「どちらへ」
レグルが訊く。
「お前が選べ」
「正しい道は」
「知らん」
「監視役だろ」
「答え役ではない」
レグルは二本を見る。
雷の道。
音の道。
昔、カネトとハクが通った方向。
「音」
「理由」
「鐘歩島へ行く」
「なぜ」
「私の《同道》は、最後の一歩をそろえる術だった」
レグルは思い出すように言う。
「十二年前、三番旗を立てたとき。別々の道の先を、同じ場所へ重ねた」
「途中まで重ねたから壊れた」
「ああ」
「戻せるか」
「三番旗があれば」
「今はない」
「ミオが立てる」
「信じるか」
レグルは一歩、音の道へ踏み出した。
「待つ」
十二年前、できなかった言葉。