第68話 第十章「分かれる足音」後編
スズは音を公平に並べたい。ナギは一人の小声が多数の大鐘に埋もれないようにしたい。二人の正しさは少しずれていたから、連標網は一人の設計で完成しなかった。
「大きい返事だけ残る」
ナギは三つの鐘の間を、一歩ずつ空ける。
「ここから鉄」
こん。
「ここから森」
ころん。
「ここから鐘」
りん。
「一緒に鳴らしたら?」
スズが三本の綱を握る。
「試す」
三つ。
短い音は先に消え。
木の音は空気へ混じり。
長い鐘だけが最後まで残る。
「鐘歩島の返事に聞こえる」
「ここにあるから」
「鉄と森が消えたわけじゃない」
「だから、音ごとに札を残す」
ナギは現標板へ三枚の札を差した。
――鉄歩島。最終返事、四呼吸前。
――森歩島。最終返事、三呼吸前。
――鐘歩島。現在地。
「一枚へ書かない?」
「書けるけど、書かない」
「どうして」
「私が全部を聞いて、一つにして返したら」
ナギは響路の旗を見る。
開いた輪。
二つの点。
輪の中には、まだ何もない。
「私が新しい《同道》になる」
スズは少し考えた。
「ナギが船でいなくなったら?」
「この鐘が聞く」
「壊れたら?」
「鉄歩島が直す」
「鉄歩島が遠かったら?」
「森歩島の木鐘を使う」
「全部、返事がなかったら?」
「返事なしって残す」
「探しに行かない?」
「必要なら行く」
「いつ必要?」
「決める人を一人にしない」
ナギは三枚の札の下へ、空の札を三枚置いた。
呼び声。
最終返事。
出発予定。
それぞれを別に書く。
「連標網って」
スズが言う。
「大きな鐘を一つ作ることじゃないんだ」
「うん」
「小さい鐘を、聞ける場所に残すこと」
「返事を強くするんじゃない」
ナギは三つの音をもう一度聞く。
「違う返事を、違うまま届かせる」
スズは自分の五声旗を鐘台へ立てた。
「私、ここへ残る」
「知ってる」
「外へ行きたくないからじゃない」
「うん」
「みんなが戻る音を聞きたい」
「それも道」
「ナギは?」
ナギは第一歩号を見る。
遠く、三方向へ引かれて修理中。
空いた四つ目の椅子は、甲板へ固定されている。
「今は乗る」
「ずっと?」
「今は、って言った」
「カナタ、嫌がる」
「嫌って言う」
「止める?」
「止めないって言うまで聞く」
二人は笑った。
鉄歩島の工房では、ルゥが三つの歯車を机へ並べていた。
一つ目は丸い。
二つ目は歯が一つ欠け。
三つ目は大きさが合わない。
「全部、同じ機関へ入れるのか?」
テオが訊く。
「入れる」
「噛まないぞ」
「直接は」
ルゥは歯車の間へ銀糸を通す。
「速いものから、遅いものへ力を渡す。必要なときだけ」
「同歩機関の反対?」
「同じ速さにしない機関」
「名前は?」
「まだ」
「《別歩機関》」
「そのまま」
「分かりやすい!」
工房長バルカが、奥から銀色の箱を運んできた。
逆さ銀樹から流れ着いた銀枝機関。
透明羽根は七枚。
一枚だけ、ほかと逆向きに開く。
「これを読み切れる職人が、鉄歩島にはいない」
バルカは、箱の上へ真鍮の責任札を置いた。
――別歩機関、仮責任者。
「同歩機関を外しただけでは、町はまた古い共通歯へ戻る。十八基の脚核を別々の拍子で動かし、次の職人へ渡す者が要る」
「私に残れって?」
「見物人としてではない。失敗したとき、止める判断まで引き受ける者としてだ」
工房の音が少し遠くなる。
三脚群島へ来た日にも、同じ誘いを受けた。
今度は、珍しい機巧を見たいというだけではなかった。
鉄歩島の家。
炉。
脚。
別々の速さを選んだ町が、明日も歩くための責任だった。
ルゥは札を取った。
親指の付け根が痛み、札を一度落とす。ルゥは「自分の番ではない」と言いかけ、言い直した。
「今は私の番。でも、最後まで私の番にはしない」
責任を取ることと、責任を独占することを分ける。テオと二人の職人へ、停止判断を一基ずつ渡す条件も同時に札へ書いた。
「二十日」
「期限か」
「十八基を試して、手順を書いて、次の責任者が一人で止められるまで」
「終わらなければ」
「延ばす」
自分で言ってから、第一歩号の方向を見た。
カナタはここにいない。
誰かの顔を見て答えを変える必要もない。
「そのあと、逆さ銀樹へ行く」
銀枝機関へ触れる。
「これが来た場所を、自分で見たい」
「第一歩号で?」
「たぶん」
「たぶん?」
「責任を渡せた時に、どの船がどこへいるか分からない」
外で、船体が三角形に軋んだ。
「先に船も直す」
「船長が触らなければ」
「それは無理」
テオが手を上げる。
「俺もミナモへ行く」
「第一歩号へ乗るの?」
「乗らない」
ルゥが少し驚く。
「工房の小艇を借りる。雷風路から行く」
「危ない」
「第一歩号より?」
「比べる相手が悪い」
「先に着くかも」
「私たちは迷うから」
「認めた!」
「船長がね」
工房の入口から、カナタが顔を出した。
「聞こえてるぞ!」
「いつから!」
「第一歩号より、のところ!」
「都合のいいところ」
カナタは鉄板を一枚抱えている。
船の修理材ではない。
現標板だった。
「二人とも、第一歩号で行けばいい」
「今の話を聞いてた?」とルゥ。
「テオの小艇を後ろへつなぐ!」
「別の道へ行くって言った」
「同じミナモだろ!」
「雷風路と雨風路で違う」
「着く場所は同じ!」
「着く日も、途中で見るものも違う」
テオは四つの歯車を描いた旗を肩へ掛ける。
「俺は、鉄歩島から出たい」
「第一歩号も鉄歩島から出る!」
「俺の船で」
カナタの口が止まる。
ルゥは机の銀枝機関を箱へ戻した。
「カナタ」
「何だ」
「世界の果てを、一緒に見たい?」
「当たり前だ!」
「同じ日に、同じ場所から?」
「そうだ!」
「できないかもしれない」
「できる!」
「私がミナモに残るかもしれない」
「待つ!」
「一年?」
「待つ!」
「十年?」
カナタの声が止まった。
父アステルを待った時間。
帰ってこなかった十年。
ルゥはそれを見て、言葉を続ける。
「待って、とは言わない」
「じゃあどうする!」
「先に行ってもいい」
「嫌だ!」
「うん」
「嫌なのに、行けって言うのか!」
「私は、あんたが嫌がらない答えを選ぶために旅してるんじゃない」
「俺も、ルゥがいない世界の果てを見るためじゃない!」
「見たら、話して」
「一緒に見ればいい!」
「私が先に見たら?」
「待ってろ!」
「あとから来なかったら?」
「行く!」
「じゃあ、会える」
「場所が分からない!」
「三番旗」
ルゥは再会原の銅色を指した。
「同じ景色を、同時に見る約束はしない」
「じゃあ何を約束する」
「見たものを、先で話す」
「先ってどこだ」
「今から決める場所」
カナタは長く黙った。
工房の槌が四回。
森の鋸が三回。
鐘が五回。
違う場所から、同じ再会原へ届く音。
「嫌だ」
カナタはもう一度言った。
「うん」
「でも、止めない」
「うん」
「先で会う」
カナタは白旗の端をつまんだまま言った。中央を握れば、約束を自分の道へ変えそうだった。
ルゥは銀鋲を一本渡すのではなく、現標板へ打った。最重要の道具を貸すのが最大の信頼だった頃から、少し変わった。今は自分の手元に残し、二人が見られる場所へ使う。
「会ったら、どっちが先に見たか競争」
「競争じゃないって言ったでしょ」
「でもする!」
「勝手にして」
拒絶ではなく、別々の旅を保つ返事だった。
「それなら約束」
ルゥは銀鋲を一本、カナタの持つ現標板へ打った。
二つの欄。
――ルゥ。現在地、鉄歩島。
――次の行き先、逆さ銀樹。
もう一欄。
――その先、未定。
カナタは最後の札を抜こうとした。
ルゥが手を叩く。
「残す」
「決めたら書けばいい!」
「決めてないって、今の返事」
カナタは不満そうに、札を差し直した。
旧上道の入口では、ザンバとレグルが折れた標柱を立てていた。
一本線の標柱。
中央から三つに分かれた、新しい線を上へ重ねる。
「《同道》を捨てる気はない」
レグルが言った。
「捨てる必要もない」
ザンバは灰旗を広げる。
黒い点から、三本の細い線。
まだ紋章というには小さい。
風が変われば、どの線も揺れる。
「お前の《岐点》も、最後には一つを選ぶ」
「選ばないために分けるのではない」
「では」
「誰が選ぶかを戻す」
ザンバは標柱の根元へ黒い点を刻む。
「道の持ち主へ」
「私は、三島の道を持っていた」
「持ったつもりだった」
「厳しいな」
「俺にも言っている」
黒旗の《終点》。
ザンバは、自分が不要だと思う道を切った。
今の灰旗は、切る前に分ける。
残すべき道を決めるためではない。
違う行き先があると、見えるようにするため。
「この上道を、見届けたい」
ザンバが言う。
「ここへ残るのか」
「今は残らん」
「第一歩号へ?」
「あの船長を放せない」
「役目か」
「行き先だ」
レグルが片目を細める。
「監視役と、自分で決めた?」
「不満か」
「いや」
レグルは標柱から一歩離れる。