第71話 第十二章「別々のまっすぐ」前編
「競わない!」
テオの四拍子が遠ざかる。
雷風路へ入る前の、最後の返事。
『先で!』
ルゥは鉄の板へ銀鋲を一つ打った。
「会おう!」
返事は雷に呑まれた。
聞こえたかは分からない。
現標板へ書く。
――テオ。雷風路へ出航。
――最終返事、今朝。
――再会予定、逆さ銀樹ミナモ。
予定であって、義務ではない。
来なければ、返事を探す。
来ないと決めない。
森の板。
三拍子。
雨音と一緒に、農路長リーネの声。
『干し実、二十袋送った!』
第一歩号の甲板には、三十袋あった。
「十袋多い!」
ルゥが数える。
『余った』
「返す?」
『食べて』
カナタが一袋を開ける。
「もう食べた!」
「一呼吸で!?」
「小さい!」
袋はカナタの上半身ほどある。
「残り十九!」
「二十九!」
「一つ食べた!」
「袋ごと数えないで!」
雨風路の奥から、子どもたちの声。
『第一歩号、また来て!』
「来る!」
カナタは迷わず答える。
ナギが現標板へ書く。
――呼び声、あり。
――返答、来る。
「日付は?」
「決めてない!」
「じゃあ、予定なし」
「来るって言った!」
「約束と日程は別」
「細かい!」
「大事」
カナタは札へ自分で一文字書こうとした。
来。
上の横線が長すぎて、木札からはみ出す。
「書けた!」
「半分、別の札」
「道が広い!」
「字が迷子」
それでも、ナギは消さずに下へ小さく読みを足した。
――くる。
鐘の板。
五拍子。
スズの声は、朝の風より澄んでいた。
五本の指へ割り当てた音名を一つずつ確かめる。最後の小指は、もう「沈黙」だけではない。返事を待つ音と名づけられていた。
会話の終わりに、ナギの声高を一度真似る。次に自分の高さで「行ってらっしゃい」と言う。借りた声と、自分の声を同じにしなかった。
『出発鐘、鳴らすよ』
「まだ!」
ルゥが第一歩号の帆を見る。
「右帆、張ってない!」
『一つ目は、準備』
ごおん。
第一歩号の船体が揺れる。
『二つ目は、現在地』
ごおん。
三番港。
『三つ目は、行き先』
ごおん。
逆さ銀樹。
『四つ目は、帰る場所』
ナギがトマリギ島の鈴へ触れる。
ごおん。
遠く、イオラの対鈴が返る。
『五つ目は、また会う場所』
三番目の旗がはためく。
ごおん――。
銅色の余韻が、三つの島へ伸びる。
ナギは響路の旗を掲げた。
「スズ」
『何』
「行ってきます」
『行ってらっしゃい』
「次の返事は?」
『明日の三つ鐘』
「返せないかも」
『返事なしって書く』
「探しに来る?」
『三回呼んで、予定を見て、必要なら』
「覚えた」
『教わった』
五拍子が閉じる。
ナギは少しだけ目を閉じた。
トマリギ島を出たときの「行ってきます」とは違う。
あの日は、帰る場所を背中へ置いた。
今日は、また会う場所を横へ置く。
帰る場所と、会う場所は違う。
どちらも、持ち歩かない。
返事の道だけを船へ積む。
ミオは銅色の小旗を一本持ってきた。
三番港に立つ本旗より、ずっと小さい。
三本の布も、指ほどの幅しかない。
「三番目の旗?」
カナタが手を伸ばす。
「写し」
「本物は?」
「ここ」
「持っていかないのか!」
「持っていったら、会う場所が船になる」
「第一歩号で会えばいい!」
「船がどこにいるか分からない」
「俺は分かる!」
「今の現在地は?」
「三番港!」
「昨日の朝」
「三番港!」
「その前」
「三つ編み場!」
「十日前」
「……東?」
「分からないでしょ」
「世界のどこか!」
「会えない」
ミオは小旗を帆柱へ結ぶ。
結び目を作る手が一度止まる。別れ際だけ言葉が増えるミオは、説明を続けた。
「本旗が倒れたら、三島が別々に直す。私一人で守らない。父さんが直したいって言ったら、まずどの布か聞く。勝手に三本まとめたら、また喧嘩する」
「もう喧嘩してる!」
「続けられる喧嘩なら、道」
滑走靴の風車を回し、右膝を一度かばう。カナタは気づいたが、代わりに歩かず「痛い?」とだけ聞いた。
「少し。次の鐘まで持つ」
「隠す言い方だろ」
「覚えたの?」
「仲間だからな!」
先回りではなく、聞き取った返事だった。
「本旗は場所。これは、約束を忘れないための札」
「帰る場所は持ち歩かない」
ナギが言った。
「また会う場所も」
「でも旗はある!」
カナタは小旗を嬉しそうに見る。
「目印は持っていける」
ミオは頷く。
「三番港が移動したら?」
「移動するのか!?」
「風が変われば」
「場所が違う!」
「銅旗が立った場所が三番港」
「じゃあ持っていけば第一歩号が三番港!」
「本旗じゃない!」
「惜しい!」
「全然!」
ミオはもう一つ、細い筒を渡した。
三つの地図が入っている。
雷風路。
雨風路。
鳴風路。
どれも逆さ銀樹の方向へ伸びる。
距離も。
危険も。
途中の景色も違う。
「どれを行く?」
ミオが訊く。
「一番早い道!」
カナタが雷風路を取る。
「却下」
ルゥが奪う。
「なんで!」
「船体の銀糸が雷を受ける」
「テオは行った!」
「鉄歩島の工房艇」
「第一歩号も強い!」
「昨日まで三角形」
「今は船!」
「たぶん」
「たぶん!?」
ナギは鳴風路の地図を見る。
「鐘の返事が多い。連標網は使いやすい」
「遠い」とルゥ。
「五日増える」
「五日なら短い!」
カナタが言う。
「迷ったら十五日」とザンバ。
「迷わない!」
「東風路交換点」
「三つある!」
「またそれ」
ザンバは雨風路の地図へ指を置く。
「船の修理には、これが最も軽い」
「遠さは?」
「雷より二日。鳴風より三日短い」
「真ん中!」
カナタが喜ぶ。
「真ん中だから選ぶな」
「じゃあ、どうする!」
ルゥは第一歩号の現標板へ三枚を並べた。
雷。
雨。
音。
「今の船で進める道は雨」
「今の返事が聞きやすいのは音」
ナギが言う。
「最も速いのは雷」
ザンバ。
カナタは雷。
「四人で三つ!」
「私は雨」とルゥ。
「私は音」
「俺は、どれでも構わん」
「それは答えじゃない!」
「危険が来れば分ける」
「今!」
ザンバは雨の地図へ指を移した。
「船体を優先する」
「雨が二票!」
カナタが雷の地図を握る。
「船長は俺だ!」
「船長は、船を沈めていい人じゃない」
ルゥが言った。
「世界の果てが遠くなる!」
「二日」
「二日ぶん!」
「今の船員が一人でも欠けたら、もっと遠くなる」
カナタは三枚を見る。
右膝が朝の冷えで遅れる。以前なら痛みを助走と呼び、最速の雷を取っていた。今は一番近い出口を先に見る。船体。船員。戻れる燃料。
白旗の中央ではなく端を持ち、三人の返事が終わるまで待つ。嫌だという気持ちは消さない。船長の声だけを大きくもしない。
雷風路も消えていない。
テオが先に進んでいる。
鳴風路も。
スズの鐘が残る。
第一歩号は、雨風路を選ぶ。
ほかの道が間違いになるわけではない。
「嫌だ」
カナタが言う。
「知ってる」とルゥ。
「でも、雨へ行く」
「船長命令?」
「船で決めた!」
ナギが現標板へ書く。
――第一歩号。
――次の道、雨風路。
――雷風路、テオ。
――鳴風路、連標網。
選ばなかった二枚も、記録箱へ入れない。
現標板の横へ残す。
必要なら、次の分かれ道で選び直せる。
「同じ船では、一つの道を選ぶんだな」
カナタが言った。
「船体は一つ」とルゥ。
「人は四人」とナギ。
「選択は、その時ごとだ」とザンバ。
「面倒!」
「冒険でしょ」
ルゥが笑う。
第一歩号には、新しい舵がついた。
三枚の小さな翼。
鉄歩島の黒鉄板。
森歩島の曲がる木羽。
鐘歩島の薄い音板。
それぞれが別の風を読む。
一本の軸へ固定しない。
三つの小さな操縦桿で、必要な一枚だけを動かす。
「《三路舵》」
ルゥが正式名を告げる。
「《第三翼》!」
カナタが即座に改名する。
「三枚あるからって、三番目じゃない!」
「三番旗でもらった!」
「もらったのは部品!」
「翼!」
「舵!」
ミオが黒鉄板を叩く。
「これ、テオが作った」
「翼って言ってた?」
「舵」
「裏切り!」
森の木羽。
「リーネは?」
「曲がり板」
音板。
「スズ!」
「返事板」
「誰も翼って言わない!」
「船長だけ」
「じゃあ、船では翼!」
ルゥは反論しようとして、やめた。
「動かし方を守るなら」
「守る!」
「一度に一本」
「三本ある!」
「一度に一本!」
「分かった!」
「本当に?」
「三本を順番に!」
「同時じゃなければ」
第一歩号を桟橋から外す。
カナタは船首。
ルゥは操舵輪。
ザンバは船尾。
ナギは四つ目の椅子の前。
誰もまだ座らない。
現標板の乗船欄が空いている。
カナタは一人ずつ見る。
最初にルゥ。
「今、第一歩号へ乗るか」
問いの前、カナタは一度だけ右足を戻した。相手の一歩を踏まない位置へ。
ルゥは銀鋲を髪へ一本戻し、ナギは舌で五拍を数え、ザンバは椅子を半指だけ船側へ寄せた。答えは言葉より先に身体へ出ても、最後は本人の口から待つ。
「乗る」
「世界の果てまで?」
「逆さ銀樹まで」
「その先は?」
「着いてから」