第73話 第一章「雨の上へ落ちる」前編

道がないなら、最初の一歩になればいい。

誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。

三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。

けれど、その先が自分の手には届かないとき。

終わらせられない仕事は、失敗なのだろうか。

まだ会っていない誰かへ、途中の形と、試したことと、残った空白を渡す。

それもまた、道を作ることなのだと。

カナタは、最後まで自分で歩けない道を、失敗と呼びかけていた。

三番港を出て、十八日目。

飛空艇《第一歩号》は、順調に雨の上へ落ちていた。

「空が下になった!」

船首から、カナタの歓声が上がる。

第一歩号の周囲では、雨が雲から降っていなかった。

雲海から細い銀の筋となって立ち上がり、青空へ向かって流れている。

雨粒は船底を叩かず、船腹を撫で、帆柱を越え、頭上の見えない川へ吸い込まれていく。

船首の三枚舵のうち、森歩島でもらった曲がる木羽だけが大きく開いていた。雨風路の流れを読むための舵である。

ただし、カナタの中では《第三翼》だった。

「下は下!」

操舵輪を握るルゥが叫び返す。

「雨が上へ行ってるだけ!」

「じゃあ、俺たちは上へ落ちてる!」

「落ちてない! 引かれてる!」

「同じ方向だ!」

「原因が違う!」

甲板の後ろでは、ザンバが椅子ごと帆柱へ縛られていた。

灰色の旗には、黒い点から三本の線が伸びている。

雷。

雨。

音。

三脚群島で分かれた道の痕跡だった。

「船長」

「何だ!」

「昨日、雨羽へ白旗を結んだな」

「迷わないように!」

「外せ」

「なんで!」

「未踏路が、雨の行き先を自分の行き先だと思っている」

白旗から伸びた金色の線が、曲がる木羽へ絡んでいた。

雨は空へ。

カナタの旗は、銀色の大樹へ。

二つの行き先が重なり、第一歩号を斜め上へ引っ張っている。

「もっと早く言え!」

「八度言った」

「俺には?」

「主にお前へ」

「聞いてない!」

「知っている」

三番港で正式な自席になった響路士席で、ナギが青い帳面を開いた。

短い青緑色の髪が、上へ流れる雨に引かれて逆立っている。

背には、開いた輪と二つの点を描く白い旗。

腰の小さな鈴は、雨粒が触れるたび違う音を返していた。

右耳には欠けた青銅鈴。左耳には、強い音を削る薄い耳栓。呼ぶ音は右手で鳴らし、返った音は左手で青い帳面へ書く。問いと答えを同じ手へ持たないという、ナギだけの決まりだった。

重要な問いの前には、舌先で前歯の裏を五度押す。一、二、三、四、五。今も四方向から来る雨音を数えていたが、五を越えたあたりで舌へ金属の味が広がった。偏頭痛の前触れだ。

ナギは何も言わず耳栓を一段深くした。聞こえることと、何でも聞き続けられることは同じではない。

「今の現在地」

ナギが言う。

「雨風路の出口、逆さ銀樹の外縁、たぶん西側」

「たぶんを消そう!」とカナタ。

「返事がない」

「銀樹へ呼んだ?」

「三回」

「もっと大きく!」

「声の大きさじゃない」

ナギは旗を掲げた。

「標術――《響路》

開いた輪から、細い波が雨を横切る。

前方。

雲の上。

逆向きに流れる銀の水の、その先。

呼び声は何かへ触れた。

ごおん。

一つ。

同じ高さ。

同じ長さ。

もう一度、別の方向へ呼ぶ。

ごおん。

同じ音。

三度目。

ごおん。

「全部、同じ返事」

ナギが眉を寄せる。

「便利だな!」

カナタは船首の縄を解こうとしながら言った。

「どこから呼んでも聞こえる!」

「返事じゃないかもしれない」

「音が返ったぞ」

「私の問いに、答えが変わらない」

ナギは帳面へ書く。

――銀樹外縁、三方向。

――同じ四つ鐘の一音。

――生きた返答、未確認。

「鐘が録音みたいに鳴ってる?」

ルゥが前を見たまま訊く。

「たぶん」

「また、たぶん!」とカナタ。

「分からないことを、分かった形へ戻さない」

ナギが答える。

「三番港で覚えた」

カナタは少し黙った。

「じゃあ、今は分からない!」

「大きく言わなくていい」

雨の奥で、四回の金属音が鳴った。

かん。

かん。

かん。

かん。

先ほどの四つ鐘とは違う。

最後の一音だけ少し高い。

ナギが顔を上げる。

「生きた返事」

「誰だ!」

カナタは白旗を雨へ向ける。

「テオ」

ルゥが先に答えた。

「四拍子」

響路を細く開く。

雷に焼けた声が届いた。

『第一歩号! 雨羽を閉じろ! その先、重さが四つに割れる!』

「先に着いたのか!」

『三日前!』

「競争は俺たちの――」

『今それどころじゃない!』

四拍子の向こうで、何かが爆発した。

『今のは予定どおり!』

「予定に爆発を入れるな!」

ルゥの声が三番港と同じ調子になる。

『とにかく、重錨! 銀枝の重場へ入る前に――』

第一歩号の下で、雨が止まった。

一粒ずつではない。

空へ流れていた銀の川が、見えない壁へぶつかり、四方向へ分かれた。

上。

右。

左。

後ろ。

第一歩号も、同時に四方向へ落ちた。

「前が増えた!」

カナタが喜ぶ。

「喜ぶな!」

ルゥが操舵輪へしがみつく。

工具箱が甲板から離れ、空へ向かう。

カナタの干し茸袋は右へ。

ザンバの椅子は後ろへ。

ナギの青い帳面だけが、安全糸につながれてその場へ浮いた。

「点呼!」

ナギが叫ぶ。

「カナタ!」

「船首!」

「ルゥ!」

「操舵輪!」

「ザンバ!」

「椅子と別れた」

「椅子!」

「後方」

「船員じゃない!」

「今、ここにいる!」とカナタ。

「椅子まで数えるな!」

ナギは四本の安全糸を引く。

人。

工具箱。

帳面。

椅子。

「返事、四つ!」

「俺たちも四人!」

「数が合ったから安全じゃない!」

ルゥは銀鋲を四方向へ投げた。

「標術――《継ぎ路》!」

一本はカナタの腰。

一本は工具箱。

一本は船尾。

最後の一本は、船首の曲がる木羽。

銀糸が第一歩号の形を一呼吸だけ保つ。

「重錨は!」

「鍋蓋!」

カナタが船首へ飛びつく。

三路舵の前に、三番港から戻った大きな鍋蓋が一枚固定されている。

「これは翼だ!」

「今は錨!」

「今日だけ!」

「早く!」

カナタがレバーを引いた。

鍋蓋が開く。

四方向の重さを一度に受けた。

第一歩号の船首が、ぐるりと回る。

一回。

二回。

三回。

「錨が回ってる!」

「翼だからな!」

「どっちでも失敗!」

回転の向こうに、巨大な樹が現れた。

根は空へ。

幹は雲海へ。

枝は下向きに垂れ、その一本一本へ家と塔と工房が吊られている。

銀色の葉の代わりに、何万枚もの透明羽根。

羽根が開くたび、町の「下」が変わる。

壁が道になり。

天井が港になり。

昨日の広場が、今日の空になる。

逆さ銀樹《カガミネ》

その枝に実る、銀枝都市ミナモ。

「すごい……」

ルゥの声が、事故の最中だけ少し静かになった。

透明羽根。

液体になって流れる重さ。

枝から枝へ回る銀の歯車。

彼女が三脚群島で地図を見たときから、来たがっていた場所。

ルゥは操舵輪の横へ吊っていた薄い片眼鏡へ一度だけ手を伸ばした。近くの亀裂なら髪の毛ほどでも見えるのに、遠い塔の人影は服の色でしか分からない。意地で使わないことが多い道具だった。

今は掛けた。

銀枝の継ぎ目。透明羽根の開閉。上下へ分かれる重液。父の古い図面へ描かれていたものが、遠い景色ではなく、自分の目で確かめられる機巧として立っている。

左手首には《継ぎ路》の熱が残っていた。銀鋲を四本同時に投げた反動で、親指が完全には閉じない。それでも、痛みより先に笑いそうになった。

カナタを止めるためではない。自分が見たくて来た場所だった。

「ルゥ!」

カナタが叫ぶ。

「見てる場合じゃない!」

「誰のせいよ!」

銀樹の中心で、四つ鐘が鳴った。

一つ目。

ごおん。

透明羽根が閉じる。

二つ目。

ごおん。

別の枝の羽根が開く。

三つ目。

ごおん。

第一歩号の鍋蓋が、町の重場へ吸われる。

四つ目。

ごおおん――。

船体が横倒しのまま、銀枝都市へ落ち始めた。

「テオ!」

ナギが響路を開く。

「港は!」

『完成門の反対! 修理口へ!』

「どっちが反対だ!」

カナタが叫ぶ。

『銀の看板がないほう!』

前方には、銀の看板が十二枚あった。

「全部ある!」

『じゃあ、何もない場所!』

「道がない!」

「作るな!」と三人。

「何で!」

第一歩号は、道のない場所を通り過ぎた。

その先で、小さな作業籠が揺れていた。

四本の鎖。

銀枝へ差し込まれた重場栓。

籠の中に、一人の少女。

短い銀髪。

片目だけの四角い風眼鏡。

背には、歯が一つ欠けた歯車を描く灰青色の旗。

少女は十五歳。四角い風眼鏡は右目だけを覆い、仕事中は下ろし、私的な話をするときだけ額へ上げる。今は下りていた。

高い音の聞こえにくい片耳を、重場栓へ向けている。警報より、鎖を伝う低い振動と、作業員の口の動きで異常を読む耳だった。乾いた目を十度続けて瞬かせる。焦るとそうなる。

籠の出口、銀枝の支点、落ちたとき掴める鎖。少女はその三つを先に見た。ところが、向かってくる第一歩号を見た瞬間だけ、最も近い出口から視線が外れた。

「今止まるほうが危ない……!」

誰へというより、自分へ言った。限界を隠す日の決まり文句だった。

少女は第一歩号を見た。

次に、船が向かう完成門を見た。

最後に、まだ半分しか入っていない重場栓を見る。

「今、動かないでぇぇぇ!」

「もう動いてる!」

警告は聞こえた。だが、重場栓は抜けかけ、少女の籠は完成門へ流されている。止まるだけでは間に合わないと見て、カナタは船を進めるためではなく、少女の手前へ一歩を置くために白旗を抜いた。

「標術――《未踏路》! あの子の手前!」

一歩分の光板が生まれる。

四方向の重さに引かれ、途中で四つに折れた。

「道が机みたいになった!」

「机は四方向へ曲がらない!」とルゥ。

第一歩号は一枚目の板へ乗る。

右へ。

二枚目。

下へ。

三枚目。

上へ。

最後の板が少女の籠へ向く。

「取る!」

「来ないで!」

「任せろ!」

「何を!?」

「全部!」

「その答え、完成してなさすぎる!」

カナタは船首を蹴った。

少女も籠から跳ぶ。