第74話 第一章「雨の上へ落ちる」後編
二人は四方向の重さの真ん中で激突した。
その瞬間、重場栓が抜けた。
銀枝の透明羽根が、ばらばらに開く。
第一歩号は少女と作業籠と重場栓をまとめて引きずり、銀枝都市の外周へ突っ込んだ。
最初に壊したのは、巨大な銀の看板だった。
――完成品搬入口。
「何て書いてある!」
「今、読む必要ある!?」
「ぶつかる!」
「完成品だけ!」
「第一歩号は完成してる!」
「どこが!」
看板の中央を、船首の鍋蓋が受け止めた。
がん、と鐘のような音。
看板は二つに割れた。
「翼が守った!」
「看板を壊した!」
次に、完成品の寸法を測る検査輪が三基並んでいた。
一つ目。
船首だけが通る。
二つ目。
帆柱が引っかかる。
三つ目。
三路舵の黒鉄板が、輪を一枚持っていく。
「船を細く!」
少女がカナタの腕の中で叫ぶ。
「できない!」
「帆を畳んで!」
「ルゥ!」
「もう畳んでる!」
「もっと!」
「骨まで畳めって!?」
第一歩号は検査輪を首飾りのようにつけたまま、都市の道へ入った。
道は正面にない。
右の壁。
その次は天井。
銀枝の羽根が開くたび、重さが九十度ずつ変わる。
船は壁を走り。
屋根を滑り。
天井に吊られた風車を一つさらう。
町の機巧人形たちが、同じ動きで左右へ逃げた。
「港!」
カナタが叫ぶ。
「完成門の先にはない!」
少女が答える。
「じゃあ、どこ!」
「戻って!」
「後ろが上!」
「今だけ右!」
「俺の右?」
「町の!」
「町が回ってる!」
「全部右ぃぃぃ!」
ナギは響路台へ安全糸で逆さまにぶら下がりながら、点呼札を叩いた。
「前方、紙!」
何千枚もの銀色の設計図が、都市の壁から壁へ積まれている。
折れた翼。
曲がった歯車。
脚が五本ある机。
火を入れると水を吐く炉。
右へ曲がるたび左の鐘が鳴る靴。
第一歩号は紙の山へ船首から突っ込んだ。
ぼふん、と銀色の雪が舞う。
船体が一度沈み。
二度跳ね。
最後に、半分だけ壁へ刺さって止まった。
しばらくして、紙束からカナタの腕だけが突き出た。
「着港……!」
「廃図庫!」
少女が隣から這い出す。
銀髪に、失敗した傘の設計図が三枚刺さっている。
「完成品搬入口を壊して、未完成品しかない場所へ着くって何!?」
「一番近い!」
「近くない!」
ルゥは工具箱を抱えて紙の中から現れた。
右肩に検査輪。
腰に風車。
額に、完成品の寸法札。
「カナタ」
「何だ」
「しばらく、何にも触らないで」
「船長の仕事は?」
「呼吸」
「地味!」
ザンバは紙の山から椅子を引き出した。
脚が一本増えていた。
「完成したな」
「違う!」と少女。
「その設計、廃図!」
ナギは青い帳面を拾い、人数を数える。
「カナタ」
「いる!」
「ルゥ」
「いる」
「ザンバ」
「椅子もいる」
「だから椅子は船員じゃない!」
「少女」
「キリ!」
少女は立ち上がった。
「銀枝都市ミナモ、四等機巧師キリ。重場栓の点検係。今日の完成門担当。今の事故の被害を数える人!」
名乗るときだけ背筋が不自然なほど伸びた。危険や喪失へ触れられると、公的な姿勢と口調へ逃げる癖らしい。
板へ数字を書く右手の小指が、疲れで少し浮いている。紙の角には爪で一つずつ小さな刻みを入れた。三十一番目。五十三番目。番号だけではない。誰が次に読む紙かを、触っただけで区別する印だった。
風眼鏡は下りたまま。まだ仕事の顔である。
細長い板を取り出す。
数字を書き始める。
「弁償」
「高い!」
まだ一行目だった。
「完成門看板一枚。検査輪三基。外周風車一基。重場栓一個。作業籠一台。廃図、数えきれないほど」
「廃図は壊れてない!」
「順番が混ざった」
「同じ紙だろ!」
「失敗した場所が違う!」
キリは一枚を拾う。
七枚羽根の滑空具。
図面の端に、三十一と番号。
「これは三十一番目の失敗」
別の紙。
曲がる銀枝。
「五十三番目」
「失敗に順番があるのか」とカナタ。
「ある」
「一番目が偉い?」
「全部、違う理由で失敗した」
「だから、番号順だけじゃ足りない」
キリは三十一番をテオが来る方向へ。五十三番を自分の工具帯側へ。水路図を濡れた靴の職人が通る道へ置き直した。
「同じ場所で壊れても、受け取る人が違えば次の試し方も違う。七枚羽根は雷路の人。曲がる銀枝は、今の重さを測る人。誰にも渡せない紙は、まだ棚から出さない」
「誰でも直していいんじゃないのか」とカナタ。
「誰でも、は、誰も受け取ってないのと同じ」
キリは言い切り、風眼鏡を一瞬だけ額へ上げた。仕事の説明ではなく、自分の考えを話した印だった。すぐ下ろす。
キリは紙を一枚ずつ拾い始める。
「混ぜたら、次に直す人が同じところで失敗する」
ナギの手が止まった。
「誰かに渡すために、残してる?」
「捨てると戻るから」
「何が?」
キリは答えなかった。
町の中心から、四つ鐘が鳴った。
一つ目。
ごおん。
紙の山が浮く。
二つ目。
ごおん。
設計図が番号順へ並び始める。
三つ目。
ごおん。
割れた完成門の看板が、銀の粉へ変わる。
四つ目。
ごおおん――。
粉が元の場所へ戻り、看板になる。
曲がった検査輪が伸びる。
外れた風車が壁へ飛ぶ。
重場栓がキリの手から離れ、銀枝へ差し込まれる。
「直った!」
カナタが歓声を上げる。
「弁償なし!」
「修復費は重場炉から出る」
キリは板の数字を消さない。
「壊した記録も残る」
「厳しい!」
第一歩号も銀色に光った。
船腹のへこみが戻る。
裂けた帆がつながる。
船首の鍋蓋が、ふわりと浮いた。
「翼も直る!」
鍋蓋は第一歩号から離れた。
町の調理器具店へ向かう。
「俺の翼!」
カナタが飛びつく。
今度は三路舵が光った。
黒鉄板。
森の木羽。
薄い音板。
三枚が一本の白い板へ変わり始める。
「止めて!」
ルゥが銀鋲を船体へ打ち込む。
「標術――《継ぎ路》! 第一歩号の今を固定!」
銀糸が、カゲノハ村の古い板からトマリギ島の白雲材へ走る。
三脚群島の鉄。
森の木羽。
鐘の音板。
別々の場所で加わった部品を、今の船としてつなぎ止める。
復元の銀線とぶつかり、火花が散った。
船体の左半分が、滑らかな銀色の標準艇へ変わったところで止まる。
右半分はつぎはぎ。
左半分は完成品。
「気持ち悪い!」
カナタが叫ぶ。
「どっちが?」とキリ。
「銀のほう!」
「普通は逆」
「こっちには、来た道がない!」
カナタは銀板を叩く。
音は、どこを叩いても同じだった。
ナギが耳を近づける。
「本当に、同じ返事」
つぎはぎの右舷。
木。
青板。
鉄。
叩く場所ごと、違う音。
銀の左舷。
全部同じ。
「この町の鐘と同じ」
ナギが言った。
「どこへ呼んでも、同じ形にして返す」
キリは第一歩号を見つめた。
「原図がないものは、近い完成品へ戻される」
「第一歩号の原図はある!」とルゥ。
船室の壁へ貼った設計図。
何度も書き直され、消し跡と鍋蓋の絵だらけ。
復元の銀線が、紙を一度読んだ。
すぐに首を振るように消えた。
「どれが原図?」
キリが訊く。
「全部」
ルゥは答えた。
「昨日の図も。今日の傷も。明日変える場所も」
「それ、原図じゃない」
「だから第一歩号なの」
キリは、半分だけ銀色になった船へ手を触れた。
この町では、壊れたものを直すなと言う人はいない。
まして、直る前の傷を残せと言う人も。
「また、勝手な修復をしたな」
低い声が、頭上から降ってきた。
頭上は道だった。
壁を歩き、一人の老人が近づいてくる。
長い白髪を金属の輪で束ねている。
左半身は銀の機巧。
片脚は細い銀枝。
左腕の指は、五本の工具。
老人は六十六歳。銀の五指を、指ではなく工具名で呼んでいた。親指は締具。人差し指は測針。中指は切刃。薬指は溶接棒。小指は記録筆。
長い白髪を束ねる金属輪が、原図の位置から半指ずれている。歩きながらも銀指で直した。食器も髪も設計も、決められた位置へ戻すことで息を整える人だった。
作業影の足音と四つ鐘が重なると、右の生身の手が耳へ上がる。耳鳴りを伴う感覚過負荷。吐き気が来る前に片耳を塞ぎ、それでも「寝れば戻る」としか言わない。
左半身は迷いなく動く。右手だけが、ごく小さく震えていた。
背負う旗は白銀色。
中央に、閉じた設計図の紋章。
老人は道の端から一歩踏み出した。
重さが九十度変わる。
カナタたちの立つ壁へ、静かに着地した。
「機巧守オルド」
キリが背筋を伸ばす。
「外来船が――」
「見れば分かる」
オルドは半分銀色の第一歩号。
カナタに抱えられた鍋蓋。
ナギの帳面。
ザンバの五本脚の椅子。
最後に、ルゥの銀鋲を見る。
「《継ぎ路》の使い手」
「ルゥ」
「機巧師か」
「見習い」
「誰の」
ルゥは一呼吸だけ考えた。
「今は、自分の」
答える前、ルゥは工具箱の蓋を三度叩いていた。閉じた。持った。自分の道具だと確かめる癖。
左手首は銀鋲の反動で腫れ、髪を結び直せない。だから金髪の片側だけがほどけている。左右非対称の姿を、本人は直そうとしなかった。
師ハルガから学んだ。カナタの船を直してきた。けれど、誰の付属かと問われた答えではない。
今、ここで機巧を見るのは、自分だった。
オルドの銀指が止まった。
「よい答えだ」
「珍しい。見習いって言って褒められた」
「完成していない者には、完成する余地がある」
老人は町の中央を見上げる。
逆さ銀樹の幹から、巨大な銀色の球が吊られていた。
四本の太い銀枝。
表面を走る無数の亀裂。
「ただし、余地には期限がある」
遠くで、透明羽根が何十枚も閉じた。
銀枝都市全体が、半歩ぶん傾く。
「二日後、《落重期》が来る」
オルドが告げた。
「銀樹の重さが反転し、ミナモは枝から離れる。中央の《天衡機》が完成しなければ、この町は上下のない空へ散る」
「完成してないのか?」
カナタが球を見る。
「十一年前からな」
「二日で完成させる?」
ルゥの声が変わる。
事故を忘れたわけではない。
けれど、目が完全に機巧師のものになっていた。
オルドは頷く。
「そのために、君の《継ぎ路》を借りたい」