第75話 第二章「響路台と五本脚」前編

第一歩号は、廃図庫の外周桟橋へ移された。

移されたと言っても、自分で飛んだわけではない。

町の重場索へ吊られ、半分銀色のまま横向きに運ばれた。

「修理桟橋は?」

ルゥが訊く。

「完成門の先にある」とキリ。

「完成してない船は?」

「完成させてから入れる」

「先に修理が必要!」

「だから、廃図庫」

「仕組みが逆!」

桟橋には、四人ぶんの重場靴が用意された。

左右同じ銀の靴。

底には、銀枝の羽根。

「履くと、町が決めた下へ足が向く」

キリが説明する。

「自分で決められないのか」とカナタ。

「決めたら落ちる」

「落ちながら決める!」

「履いて」

ルゥが片方を押しつける。

カナタが右足を入れた瞬間、体の右半分だけ壁へ落ちた。

「左も!」

「待て、右が下!」

「町では今だけ壁が下!」

「左足は甲板だ!」

「だから早く!」

左足も靴へ入れる。

体が九十度回り、壁へ立つ。

「できた!」

次の鐘で重さが変わり、カナタは天井へ頭から落ちた。

「できてない!」

ナギは左右同じ靴を見比べた。

「音も同じ」

「靴だから」とキリ。

「片方が壊れたら?」

「原図へ戻る」

「どっちが右か分からなくならない?」

「同じ形だから、どちらでもいい」

ナギは自分の靴を見た。

トマリギ島で作った、左右で留め具の位置が違う滑空靴。

右は母イオラの縫い目。

左は自分で直した傷。

「私は、違うほうが分かる」

キリは少し首を傾げた。

ザンバは五本脚になった椅子へ腰を下ろした。

重場が変わっても、一本余分な脚が先に壁へ触れる。

椅子は倒れない。

「廃図のほうが使えるな」

「それは、机の失敗図」とキリ。

「今は椅子だ」

「勝手に続きを作らないで」

「使った者が決める」

キリの視線が止まる。

「この町では、作った人が決める」

「死んだあともか」

灰色の旗の石突が、五本目の脚を軽く叩く。

キリは答えず、先へ歩いた。

廃図庫の隣に、外来者用の仮宿がある。

ただし、部屋は全室同じ形。

同じ机。

同じ寝台。

同じ窓。

窓から見える景色まで、銀板が昨日の眺めを映している。

「本物の外は?」

カナタが窓を開けようとする。

「開かない」とキリ。

「何で!」

「風向きが変わると危ない」

「変わったら閉じる!」

「原図には閉じた窓」

「最初から壁でいいだろ!」

ナギは四つの寝台へ、船員札を置いた。

カナタ。

ルゥ。

ザンバ。

ナギ。

同じ寝台でも、札を別にする。

「今、ここ」

最後に仮宿の現標板へ書く。

――銀枝都市ミナモ、廃図庫隣。

――第一歩号、半分復元。

――天衡機、未完成。

――生きた返答、キリ、オルド、テオ。

――同一音の鐘、未確認。

「テオはどこ?」

カナタが訊いた。

「雷路工房」とキリ。

「会ってないのに返事あり?」

「四拍子」

ナギは帳面を示す。

「今も聞こえる」

かん。

かん。

かん。

かん。

壁の向こうから、槌の音。

最後だけ高い。

「俺たちより先に着いた!」

「三日前」とルゥ。

「競争に負けた!」

「道が違ったでしょ」

「同じ目的地!」

「着く日を決めてない!」

三番港でミオに言われた言葉が、そのまま返る。

「でも先は先だ!」

カナタは壁の道へ走る。

「テオ!」

次の鐘で壁が天井になる。

カナタだけが宿の中へ落ち、五本脚の椅子へ頭から突っ込んだ。

「着地……!」

「椅子の続きを勝手に壊すな」

ザンバが引き抜く。

雷路工房は、ミナモの外縁にあった。

逆さ銀樹から流れてくる雷を、銀枝へ変える工房。

入口には、完成品検査の白い輪。

その前で、錆色の髪の少年が小さな工房艇を押していた。

三枚の羽根。

一枚は黒鉄。

一枚は布。

最後は、鉄歩島の古い看板。

左右も大きさも違う。

船尾には、四つの小さな炉。

一つだけ煙を吐いている。

「テオ!」

カナタが呼ぶ。

少年は振り向いた。

錆色の旗。

四つの歯車。

手には、脚核用の黒い手袋。

黒い手袋の甲には銀点が四つ。槌を打つ順を示す印で、失敗したときだけ無意識に五つ目を机へ打つ。今も工房艇を止めたあと、指が一度余計に検査輪を叩いた。

左右の手袋は、干すときだけ必ず逆向きへ掛ける。作業前に自分で直すことで、今日の左右を確かめるためだ。

長く立つと腰が痛む。けれど座るのを弱さだと思い、空いている銀箱にも腰を下ろさない。

「昨日より軽い」

誰も訊いていないのに言った。痛みを隠す日の言葉だった。

「遅い!」

「先に着いた!」

二人が同時に言う。

「俺が先!」

「今、俺のほうが前!」

「三日前!」

「今は俺!」

「時間と場所を一つにしないで」とナギ。

ルゥは工房艇へ駆け寄った。

「雷風路、抜けたの?」

「二回焼けた」

「炉は?」

「一つずつ使った」

「四拍子で負荷を逃がした?」

「三つ目までは。四つ目が遅れた」

「この羽根、途中で変えた?」

「看板は雷除け」

「文字、残ってる」

《立入禁止》

「一番雷が避けそう!」

二人は同時に笑う。

カナタが工房艇へ手を伸ばす。

「俺も――」

「触らないで」と二人。

「息しか仕事がない!」

検査輪の横には、銀色の札が貼られていた。

――規格外。

――再設計後、再検査。

「招待状があっただろ」

カナタが訊く。

「見習い採用」

テオは胸元から銀板を出す。

まだ大事に持っている。

「でも、工房艇を標準四翼へ直せって」

「四枚にすればいい!」

「今の三枚で雷を抜けた」

「一枚増えたらもっと速い!」

「重くなる」

「軽くする!」

「何を?」

「船長!」

「先に落とす」とザンバ。

「俺を部品にするな!」

キリは検査札を見る。

「原図がないから、正式な工房へ入れない」

「テオの船に原図はある」とルゥ。

油染みの紙。

消し跡。

雷で焼けた穴。

途中の修理を直接書き込んだ線。

「どれが完成図?」

キリが同じ問いをする。

「今日の」

テオは答えた。

「明日は?」

「明日、直す」

「それ、原図じゃない」

「だから、ここへ学びに来た」

テオは銀枝都市を見上げる。

「完成図を習えば、今度こそ壊れないと思った」

ルゥは半分銀色の第一歩号を見る。

「壊れない船なんてある?」

「ない」

「じゃあ、直せる船を作る」

「俺も、そう思い始めた」

「いつ?」

「検査輪に三回落とされてから」

「遅い!」

「三回で覚えた!」

「船長より早い」とザンバ。

「俺は一回で覚える!」

「同じことを毎回壊す」とナギ。

工房の奥から、三角形のパンが飛んできた。

カナタが受け取る。

「食べ物!」

投げたのは、十四歳ほどの少年だった。

茶色い髪。

麦の旗。

ただし、麦穂の先が三つに分かれている。

「それ、見本じゃない!」

「食えない?」

「食べられるけど、四つ鐘までに丸へ戻る!」

「戻る前に食う!」

カナタは一口で三角の角をかじる。

「うまい!」

少年は驚いたあと、少し笑った。

笑っても声量はほとんど変わらず、目の端にだけ涙が浮いた。片方の肩には、昔の脱臼をかばう細い帯。上へ腕を伸ばし続けられないため、三角型を棚の高い場所へ置くときは、柄の長い煤染みの測定糸を使う。

形を否定される話になると、マロは急に説明が長くなる。

「角は見た目だけじゃなくて、蒸気が三方向へ逃げるし、丸より端が先に焼けるから持つ場所も選べるし、規格袋へ入らないのは袋のほうが――」

「まだ誰も捨てろって言ってない」とルゥ。

マロは口を閉じた。自分の三角が、試す前に無価値と決められることを恐れている。

「マロ。焼型工房の見習い」

「パン屋じゃないのか?」

「この町では、型を作る人と焼く人が別」

「一緒にやれば早い!」

「継承図が違う」

マロは自分の旗を見た。

「父さんは丸型師。僕も丸型師。三角は廃型」

「食えるのに?」

「規格袋に入らない」

「腹には入る!」

「船長の腹を規格にしないで」とルゥ。

工房の反対側から、細身の少女が走ってくる。

十七歳ほど。

長い黒髪を銀の輪で三か所留めている。

背の旗には、重りが三つ。

一つだけ、少し低い位置にある。

リクサは会話相手の目の高さへ、水準管を必ず持ち上げる。数値を見せるなら、上からでも下からでもなく、同じ位置からというこだわりだった。

左利き。測定帳は左手で書き、右手は人の腕へ触れて止めるときにしか使わない。高音の弱い片耳を補うため、相手の口元と低い振動を一緒に見る。

三重りの一つを低く吊るしているのは、誤差を消さないためだ。ところが厚い測定帳の人物欄には、町じゅうの重量があるのに、リクサ自身の体重だけ空白だった。

「重場師リクサ」

キリが紹介する。

「今の町の下を測る人」

「今の?」

ナギが反応する。

「原図の重場と、今日の重場は違う」

リクサは透明な水準管を見せる。

中の銀液が、一定の場所へ止まらず揺れている。

「十一年前に折れた第三大枝のぶん、銀樹の重さは毎年少しずつ移る。原図機関は補正してるけど、補正値は記録にしか残らない」

「天衡機は、その原図で動かす?」

ルゥが訊く。

「機巧守は、原図が基本だと言う」

「今の測定は?」

「補助」

「命綱でしょ」

リクサの重心が片足へ偏った。不安になると、自分の体だけ測定から外す癖が出る。

「補助値は、原図が間違ったときだけ使われる」