第76話 第二章「響路台と五本脚」後編
「原図が今と違うなら、毎回使う値でしょ」
「そう言うと、感情的だと言われる」
「感情は?」
「誤差」
言ったあと、リクサは低い一音で笑った。親しい相手の前なら二音になる笑いは、まだ一音だけだった。
リクサはルゥを見る。
「外の機巧師も、そう思う?」
「外じゃなくても思う」
四つ鐘の一つ目が鳴った。
マロの三角パンが、手の中で丸くなり始める。
「食べる!」
カナタが残りを奪う。
「半分、僕の!」
「急げ!」
二人で左右からかじる。
パンは丸へ戻りながら、真ん中で二つに割れた。
「完成前に終わった!」
「食べ物は終わっていい!」
テオの工房艇も銀色に光る。
三枚羽根が同じ白い四枚へ変わろうとする。
テオとルゥが同時に飛びついた。
「固定!」
「《継ぎ路》!」
黒鉄。
布。
立入禁止の看板。
三つの違いを、今の一艇へ縫い止める。
ナギは四拍子を叩く。
かん。
かん。
かん。
かん。
最後だけ高い。
同じ四枚へ戻りかけた羽根が、一呼吸だけ止まった。
「音で固定できる?」
リクサが目を見開く。
「今の形を、今いる人へ返しただけ」
ナギは答える。
「返事がある間は、原図だけにならない」
キリは三人を見る。
ルゥ。
テオ。
ナギ。
違う方法で、同じ「今」を守っている。
四つ鐘の最後の余韻が消えた。
工房艇は三枚羽根のまま残った。
検査札だけは、銀色の《規格外》を保っている。
「正式な工房へ入れない」とテオ。
「でも、ここにいる」
ナギが現標板へ札を差す。
――テオ。
――銀枝都市ミナモ、雷路工房前。
――採用、保留。
――返事、あり。
「保留は嫌だな」
「なしより先」
「完成より途中」とルゥ。
キリはその言葉を、何も言わず聞いていた。
銀枝都市ミナモでは、壊れたものを見つける仕事より、壊れる前の形を覚える仕事のほうが多かった。
通りの壁には、一軒ごとに銀の札がある。
家の幅。
窓の数。
机の高さ。
住む者の仕事。
四つ鐘が鳴れば、札に書かれた形へ戻る。
家の持ち主が壁を一枚動かしても。
子どもが窓を増やしても。
雨よけの屋根を斜めにしても。
次の四つ鐘で、元へ。
「毎日、同じ朝になる」
ナギが言った。
「夜もある」とキリ。
「音の話」
町中の鐘は、一日四回。
一つ目で、壊れた場所を探す。
二つ目で、原図へ結ぶ。
三つ目で、形を戻す。
四つ目で、違いを閉じる。
どの地区でも、同じ高さ。
同じ長さ。
同じ余韻。
「呼び声は?」
ナギが訊く。
「非常鐘なら三つ」とキリ。
「誰かが返す?」
「鐘が返す」
「人は?」
「聞いたら作業へ行く」
「それ、返事じゃない」
キリはまた首を傾げた。
カナタは町の道を何度も踏み外した。
一度目。
床だと思った場所が壁へ変わり、パン屋の看板へぶつかる。
二度目。
天井の水路を近道にしようとして、液体の重さを頭から浴びる。
三度目。
銀枝靴を左右逆に履き、自分だけ斜めへ落ちる。
「左右同じだろ!」
「留め具の内側が違う」とルゥ。
「見えない!」
「履く前に見る!」
「履いたあとでも見える!」
「落ちながら?」
「時間を無駄にしない!」
ザンバは五本脚の椅子へ座ったまま、重場の切り替わりを覚えていった。
一つ目の鐘で右脚。
二つ目で後ろ脚。
三つ目で余分な一本。
椅子のほうが町へ早く慣れた。
「椅子に負けた!」
カナタが叫ぶ。
「比較するな」とザンバ。
ミナモの市場には、同じ形のものが並んでいた。
丸いパン。
四角い箱。
六歯の歯車。
左右同じ靴。
違う色はある。
大きさも少し違う。
だが、形は原図から外れない。
マロが三角パンを隠していた店では、店主が丸い焼型を百枚磨いていた。
「三角、売らないのか?」
カナタが訊く。
「袋に入らない」と店主。
「袋を三角に!」
「袋師の継承図は四角」
「じゃあ、袋師も変える!」
「標議会の許可がいる」
「誰に言う!」
「船長、町を一日で全部変えないで」
ナギが襟を引く。
「変えたいか聞いただけだ!」
「聞く前に叫んだ」
市場の中央では、十五歳になる少年少女が列を作っていた。
今日、《継承図》を受け取る者たちだ。
旗へ浮かぶ紋は、生まれたときから完全には決まらない。
十四歳の授旗で輪郭が出る。
十五歳になる年、親か師匠の原図へ旗を結び、仕事の形を整える。
槌の家には槌。
鐘の家には鐘。
丸型師には丸。
「本人の紋は?」
カナタが訊く。
「原図へ合うよう、余分な線を削る」とキリ。
「余分って誰が決める」
「機巧守と師匠」
「本人は?」
「受け取る」
「嫌なら?」
キリは答えない。
列の先頭に、十三歳の小柄な少年がいた。
名前はシウ。
年齢が足りないのに、原図庫の写し係として補助に入っている。
背の旗には、細い四角が二つ。
一つは黒く閉じ。
もう一つは輪郭だけで空いていた。
片方の耳たぶだけ少し長く、緊張するとそこが赤くなる。前歯を一本欠いているため、笑うと左右の口角が違った。
シウは原図庫へ入る前、入口、出口、人数を必ず数える。大人が動く前に、自分が逃げる位置ではなく、紙を守れる位置を決めるためだ。
今も四十七枚の図を抱えたまま、最寄りの出口を一度見た。けれど、長い一歯の話になると姿勢だけが急に正しくなる。
「原図庫写し係としては、廃棄対象です」
十三歳の少年が、役職の声へ逃げた。
手には、同じ図を何十枚も写した紙。
「何の図?」
ルゥが覗き込む。
「六歯歯車」
「全部同じ?」
「四十七枚目だけ、一歯が少し長い」
「失敗?」
「筆が滑った」
「残してる?」
「消すよう言われた」
シウは紙を裏返す。
長い一歯の図だけ、背中側へ隠していた。
「何で」
「回したら、速さが変わるかもしれない」
「壊れるかもしれない」とルゥ。
「だから、無人で回す」
「誰に教わったの」
「まだ誰にも」
シウは肩をすくめ、隠していた紙をさらに背へ回した。危ない遊びを思いつくと「練習」と呼ぶ癖がある。目的を三回訊かれれば、ただ面白そうだったと白状するが、今はまだ二回目だった。
「試す前に、間違いって決められるのが嫌なんだ」
最後だけ役職ではなく、自分の声で言った。
「試した?」
「原図庫では試せない」
「廃図庫なら?」
キリが一歩近づく。
シウは肩をすくめた。
「入れない。四等機巧師以上」
「私が連れていく」
「機巧守に怒られる」
「私も怒られる」
「慣れてる?」
「五十三回」
キリとシウは、ほんの少し笑った。
シウは欠けた歯を隠さず笑い、キリは最初こそ愛想笑いに見えた。三呼吸目で本当に可笑しくなり、肩が揺れる。
「廃図庫へ入ったら、最初に何する?」とキリ。
「道具を全部、きれいに並べます」
「試さないの?」
「怒ってるときは、最後の一個を置いてから」
丁寧すぎる片づけのあとにしか本音を言えない少年だった。キリはその順番を急かさず覚えた。
列の前で、白銀の旗が上がる。
オルド。
その隣に、重場師リクサ。
標議会の老人たち。
継承図の儀式が始まる。
一人目の少女が前へ出る。
旗には、三つに分かれた水路。
母親の原図は、一本のまっすぐな管。
銀の線が少女の旗へ伸びる。
三本のうち、左右が薄くなる。
中央だけが残る。
「水が三方向へ行きたいんじゃないのか」
カナタが言った。
「家の水路師は、一本」とキリ。
「本人へ聞け!」
声が市場中へ響いた。
全員が振り向く。
ルゥがカナタの口を工具布で塞ぐ。
「儀式中!」
「んー!」
少女はカナタを見た。
次に、自分の旗を見る。
銀の線が左右を消そうとしている。
「待ってください」
小さな声。
オルドの手が止まる。
「何だ」
「右の線を、残したい」
市場が静かになる。
「なぜ」
「東区の水が、今朝から低い。右へ分けたら届くと思う」
リクサが水準管を見る。
「今の測定では、正しい」
「継承図にはない」と標議員。
「今の町にはある」とリクサ。
オルドは少女の旗を長く見た。
「今日の儀式は保留」
「消さない?」
少女が訊く。
「決めるまで、つながない」
「保留!」
カナタが工具布を外して叫ぶ。
「テオと同じだ!」
「静かに!」
今度はルゥとナギが両側から口を塞ぐ。
オルドの銀の目が、ルゥへ向いた。
「外来者が来て半日で、保留が二つ増えた」
「私たちのせい?」
「主に船長」とザンバ。
「何も壊してないぞ!」
「儀式を一度」
「壊れてない! 止まっただけ!」
キリは旗の欠けた歯へ指を入れた。
「止まったものは、壊れてる?」
「動けなくなったら」とルゥ。
「考えるために止まるなら?」
「修理中」
「完成してない」
「それでいいときもある」
キリは市場の列を見る。
保留になった少女は、旗の右線を両手で守っている。
誰かが次の答えを出すまで。
自分の線を、自分のものとして。
町の四つ鐘が鳴った。
ごおん。
少女の旗へ再び銀線が伸びる。
保留札が光り、ぎりぎりで止める。
ナギが音を聞く。
「鐘は、まだ戻そうとしてる」
「原図機関は議論を知らない」とオルド。
「誰が止める?」
「人だ」
「毎日?」
「決まるまで」
「面倒」
カナタが言う。
アカリが言っていた言葉と同じ。
今の村は毎日変わる。
変わらない日も、今日の返事として残す。
「でも、必要か」
カナタは続けた。
オルドの顔が、わずかに動いた。