第77話 第三章「天衡機の四つ目」前編
天衡機は、町の中央に吊られた銀色の球だった。
入口は一つ。
ただし、重さが変わるたび場所が変わる。
一つ目の鐘では床。
二つ目では壁。
三つ目では天井。
四つ目では、昨日の入口へ戻る。
「今日はどこ!」
カナタが球の周りを走る。
「今は左」とキリ。
「俺の左?」
「天衡機の」
「球に左があるのか!」
「原図にある」
「便利!」
「今は右へ回った」とリクサ。
「原図が遅い!」
ナギが響路を短く開く。
球の内側から、低い音。
三つ。
最後に、一呼吸ぶんの沈黙。
「入口は、音がないところ」
ナギが指さす。
銀の球の右下。
一枚だけ、歯車の唸りが返らない板。
「そこ!」
カナタが未踏路を出そうとする。
「歩ける道がある!」と全員。
正規の重場橋を渡る。
橋は途中で九十度曲がる。
カナタだけまっすぐ進み、壁へぶつかった。
「道が曲がった!」
「先に見なさい!」
天衡機の中には、空が入っていた。
銀枝が幹のように何百本も伸びる。
透明な水路。
上下へ流れる重さ。
歯車は床に固定されず、球の中心を回っている。
奥に、四つの輪を持つ台座。
三つには、銀色の旗が立っていた。
一枚目。
地面を抱く四本の爪。
「《支点旗》」
オルドが示す。
「町の重さを、今ある支えへ集める」
二枚目。
開いた錠。
「《解錠旗》。落重期に、銀樹から町を離す」
三枚目。
風を指す針。
「《航向旗》。離れた町を、安全な重場へ導く」
四つ目の輪だけが空。
カナタは顔を近づける。
「何もない」
「触るな」と四人。
「まだ触ってない!」
手が輪の中へ半分入っていた。
オルドの銀指が、腕を抜く。
「船長は、機関へ近づけるな」
「初対面で役目を分かってる!」
「顔を見れば分かる」
「褒めてる?」
「警戒している」
壁一面に、細い銀線で設計図が描かれていた。
線の余白には、設計と関係のない小さな魚が何匹も描かれている。泳ぐ向きが全部違い、一匹だけ上下を間違えていた。
台座の隅には、焦げた袖布。冷えると痛む古い火傷を隠すように、エルナは緊張すると右袖だけ肘までまくったと、キリは祖父からではなく廃図庫の作業写真で知っている。
銅像の英雄は、そんな落書きをしない。設計冠の完璧な声も、娘の誕生日を一度忘れたことや、高い場所が苦手だったことまでは残さない。
設計室には、完成した機巧師ではなく、矛盾した一人の人間の跡があった。
球。
銀樹。
町。
三本の旗から伸びた線は、中央で集まり、四つ目の輪の前で途切れている。
「天衡機を設計したのは、エルナ」
オルドの声が少し低くなる。
「私の娘。キリの母親だ」
カナタが二人を見る。
「親子?」
「今の話で分かったでしょ」とルゥ。
「髪の色が同じ!」
「そこから離れて!」
キリは空の輪を見ている。
三歳のときに失った母。
記憶の顔より、町の銅像と設計図で知っている人。
「十一年前、大枝が一本折れた」
リクサが現在図を広げる。
原図には四本ある銀枝。
今は三本。
「落重期が予定より早まり、天衡機は未完成のまま起動された。ミナモの半分が空へ散った」
「エルナは残った町を枝へ戻した」
オルドの銀指が、自分の左半身へ触れる。
「機関室からは帰らなかった」
四つ目の輪。
空白。
「三枚だけでは、町を離し、動かすところまで」
オルドはルゥを見る。
「移動中に変わる重さを、機関同士へつなぎ直す力が必要だ。《継ぎ路》なら、途切れた設計線を結べる」
ルゥは輪へ銀鋲を近づけた。
触れる前に、台座の銀線が反応する。
細い光が鋲へ伸びる。
「待って」
ルゥは手を止めた。
「これ、途切れてない」
「何?」
「切れ口がない」
設計線の先。
事故で裂けたなら、焼け跡や歪みが残る。
ここは、筆を置いたようにきれいだった。
「最初から、描いてない」
「完成前だったからだ」
「描けなかった空白と、描かなかった空白は違う」
オルドの表情は変わらない。
「機巧師は、答えのない場所を空ける」
「次の人のために?」
ナギが訊く。
「答えを見つけるまでだ」
「誰が?」
「エルナが」
「帰ってこないのに?」
天衡機の唸りが少し大きくなる。
オルドの銀指が、音を立てた。
締具。測針。切刃。溶接棒。記録筆。
五本を一つずつ閉じる。複数音が重なり、耳鳴りが強くなったときの動作だった。生身の右手は耳を塞ぎ、銀の左手だけが設計冠を守る。
「寝れば戻る」
誰も休めとは言っていないのに、先に言った。
キリは祖父の顔を見る。町を休ませる制度を守りながら、自分だけは限界まで働く。原図どおりでない現在を認められないのは、機巧だけではなかった。
「だから、原図から答えを読む」
「原図にない」とルゥ。
「設計冠がある」
老人は台座の奥から、銀色の冠を取り出した。
細い枝。
透明羽根。
何千枚もの設計図が、羽根の内側に光っている。
「エルナの記憶と技術を、原図として読むものだ」
キリの肩が固くなる。
「使った?」とルゥ。
「三度」とキリ。
「どうなった」
「一刻、母さんと同じ手を動かした」
「そのあと」
「自分の名前が、少し遅れて戻った」
ナギが設計冠へ呼び声を送る。
「エルナ」
透明羽根が開く。
『第三支点、補助輪を二指下げる』
女の声。
落ち着き。
正確な指示。
「今、どこ?」
ナギが訊く。
『第三支点、補助輪を二指下げる』
「キリは、今日何を直した?」
『第三支点、補助輪を二指下げる』
「返事じゃない」
ナギは響路を閉じる。
「記録」
ナギは同じ問いを、音の高さと間を変えて三度送った。返る呼吸はすべて同じだった。
冠の内側にあるのは、その時点で保存された声だ。キリの今日を知らず、オルドの十二年を知らず、今ここへ新しい答えを返せない。
ただし、息継ぎの直前に、ごく短い擦れがある。怖い仕事を前にすると「簡単」と言い、右袖をまくる人の呼吸だったのかもしれない。そう推測はできても、本人へ確かめることはできない。
ナギは帳面へ、推測と記録を別の欄に書いた。
「記録には答えがある」とオルド。
「質問を変えても、同じ答え」
「正しい手順だからだ」
「今が変わっても?」
リクサの水準管が揺れる。
原図の第三支点は、折れた大枝の側。
今、そこには太い幹がある。
「設計冠を使う」
オルドはルゥへ差し出した。
「君なら、記憶と自分を《継ぎ路》で分けて保てる」
「たぶん」
「たぶんで町を預けるの?」とキリ。
「たぶんを消して、できるって言うよりいい」
ルゥは冠を見た。
世界一の機巧都市。
十二年ぶんの原図。
自分が何年かけても届かない知識。
触れれば、読める。
「断ったら?」
ザンバが訊く。
「船の修理と物資は渡す」
オルドは答える。
「外来者を縛る法はない」
「町は?」
「二日後、散るかもしれん」
カナタがすぐ口を開きかける。
ルゥが先に見る。
「私に聞く?」
カナタは一呼吸、黙った。
「どうしたい」
「中を読みたい」
「おう」
「つなぐかは、読んでから決める」
「おう」
「ここに残るかもしれない」
カナタの眉が動く。
三脚群島の工房で同じことを聞いたときより、眉の動きは小さい。
「嫌だ」
「止める?」
「止めない」
「少しは考えた?」
「すごく」
「どこで」
「腹」
「また空いただけでしょ」
「三角パン半分だった!」
キリが二人を見る。
「行き先を、本人に聞くんだ」
「当たり前だろ」とカナタ。
「十九日目に覚えた」とザンバ。
「今は四か月以上だ!」
「時間ではなく回数だ」
オルドは冠を台座へ戻した。
「明日の三つ鐘までに答えを」
「二日じゃなかった?」とリクサ。
「重場の反転が早い」
球の外で、透明羽根が一斉に閉じる。
町が半歩ぶん銀樹の幹へ近づく。
「落重期は、明日の四つ鐘」
残り、一日。
廃図庫の奥には、もう一つ扉があった。