第79話 第四章「継承図の町」前編
ミナモでは、名前より先に原図を聞かれる。
「家は?」
「カゲノハ村!」
「原図は?」
「白旗!」
「職は?」
「未踏路士!」
「原図番号」
「ない!」
カナタは継承図塔の受付で、三度同じところへ戻されていた。
修理工区へ入るための仮札が必要なのだ。
「原図がない者は、廃図扱いになる」
受付の女は、銀の帳面を閉じる。
「俺を紙と一緒にするな!」
「分類上」
「今、動いてる!」
「廃図の中にも動くものはある」
「もっと悪い!」
隣の窓口。
ルゥは一度で通った。
「《継ぎ路》、機巧師原図との適合九十二」
銀の輪が、ルゥの旗を読む。
歯車。
糸。
橋。
母や師匠から受け取った原図ではない。
それでも、ミナモの機巧師系統へ近いと判断された。
「臨時二等機巧師」
首へ銀札がかかる。
銀札の文字を読むため、ルゥは紙を近くへ寄せた。遠くの顔はぼやけても、刻印の傷なら一本ずつ見える。
札の裏には「同行船機巧担当」とある。カナタの停止係ではない。一人の機巧師として名が記されている。
嬉しさを認める代わりに、工具箱の蓋を三度叩いた。左手首が痛み、三度目だけ音が弱い。
「二等でも、壊れたら休む規則は同じ」とナギ。
「自分の番ではない」
反射で答えたあと、ルゥは顔をしかめた。痛みを隠す日の言葉だと、もう仲間には知られている。
「二等!?」
カナタが驚く。
「村では見習いだったぞ!」
「今も見習い」
「札は二等!」
「町の分類」
「出世!」
ルゥは銀札を見た。
嬉しくないわけではない。
工房の人々が、初めて彼女をカナタの修理役ではなく、一人の機巧師として見る。
設計冠を使える者。
天衡機の四つ目へ届く者。
期待が集まる。
「ルゥ」
オルドが塔の奥から現れる。
「天衡機の閲覧権を渡す」
銀札へ、もう一本の線が入る。
――継承候補。
「誰の?」
「エルナの」
キリの顔が固くなる。
彼女の首には、四等機巧師の小さな灰札。
自分の母の原図。
受け取れなかったもの。
外から来たルゥが、一日で候補になる。
「必要なら使う」
ルゥは銀札を外さない。
「でも、継ぐとは言ってない」
「名が変わるだけだ」
「手も変わる」
「正しい手へ」
「今の手を、間違いって決めないで」
オルドは答えず、キリを見る。
「五十三枚目を、また開いたな」
「見せただけ」
「仮工区の者へか」
「今使う人」
「試験に通らぬ図は、町を危険にする」
「試験に入れない」
「適合しないからだ」
「今の町に?」
「原図に」
キリの灰青色の旗が揺れる。
欠けた歯車。
「どっちを守るの」
「町だ」
「今の?」
オルドの銀指が止まる。
答えが遅れた。
その間を、ナギが聞いた。
「十一年前の町」
小さく言う。
オルドの左目がナギへ向く。
「現在の町は、十一年前の原図から続いている」
「今の人は?」
「同じ町の者だ」
「原図にいなかった人も?」
「あとから加わった」
「ナギの席みたい」
「船と都市を同じにするな」
「どっちも、今いる人を乗せてる」
継承図塔の鐘が鳴る。
一人の少女が銀の輪へ入る。
十五歳。
細い体。
背中の旗には、歌う鳥と小さな錨。
輪が光る。
鳥が消える。
四本の同じ錨へ戻る。
少女の口が閉じた。
リネは十五歳。白銀の輪と白い旗の境界が見えにくく、普段は指先へ炭をつけ、消えそうな線を自分でなぞっている。今も歌う鳥の輪郭へ黒い指が伸びた。
冷えた銀線に触れた手の甲が痛む。古い火傷は熱より冷気で疼く。それでも「今は数えなくていい」と小さく言い、痛みの申告を後へ回した。
背筋だけが妙に伸びる。自分の望みを公的な言葉で消されそうになるときの姿勢だった。
「ガドの妹、リネ」
キリが言う。
「歌鐘を作りたい」
「言えばいい!」とカナタ。
「言った」
「もう一回!」
「七年」
リネは銀の輪を出る。
首に、家の原図札。
重場杭工区。
ガドが塔の外で待っている。
十八歳の兄は、長い杭と短い杭を一本ずつ背負っていた。長時間立つと腰が痛むのに、座ることを弱さだと思い、壁へもたれもしない。
妹の旗から鳥が消えた瞬間、視線が出口へ固定され、指先が留め具を探した。守らなければと思うほど、本人の代わりに進路を決める身体になる。
「一呼吸だけ借りる」
誰にも聞こえないほど小さく言い、杭を床へ下ろした。痛みを隠す日の言葉だった。
妹の旗を見る。
何も言わず、錨の札を受け取った。
「諦めた?」
カナタが訊く。
「夜に鐘を作る」
ガドは答える。
「作るのは、私」
リネが先に続けた。
ガドの口が止まる。昼の杭仕事を終えてから自分が手伝い、妹が眠れるようにするつもりだった。善意だった。けれど、また妹の仕事の順番を代わりに決めている。
「……手伝っていいか」
疑問形で命令するいつもの口調が、今だけ本当の質問になった。
「音を聞いてから」
リネはすぐ許さない。少し意地悪な沈黙を一呼吸置き、それから小さく頷いた。
「昼は杭。夜は歌」
「両方!」
「寝る時間がない」
「交代!」
「誰と」
「俺!」
「杭を立てられるか」
「道なら!」
「鐘は作れるか」
「鳴らせる!」
「役に立たない」
「声は大きい」とリネ。
初めて笑う。
ナギは歌う鳥の消えた旗へ小鐘を近づける。
銀の錨の奥。
細い音が残っている。
消えてはいない。
「夜の鐘、聞かせて」
リネが頷く。
四つ鐘では戻せない約束が、一つ増える。
カナタは自分の仮札へ、大きく書いた。
――原図なし。
受付の女が消す。
「字が違う」
「読めるようになった!」
「《原》が逆」
「向こうから読めば正しい!」
「ここは表」
「世界の果てで使える!」
結局、カナタの首には《外来作業物》の札が下がった。
「物!?」
「原図がない」
「人!」
「作業中は動くもの」
「船長だ!」
ザンバの札には、《危険分岐物》。ナギには《音響機巧補助》。第一歩号には《未分類航路艇》。アカリは《遠隔付属記録》とされた。
「付属じゃない!」
カナタが現標板を抱える。
「アカリは村にいる!」
「だから付属」
「船の外でも仲間!」
「分類にない」
「作れ!」
受付の女は銀帳面を開く。
「新しい分類は、原図審査へ三十日」
「今日!」
「無理」
「一歩で!」
「帳面は歩かない」
「俺が運ぶ!」
ルゥはカナタの襟を掴み、塔から引きずり出した。
「今は天衡機」
「アカリが付属にされた!」
「本人に送る?」とナギ。
「送る!」
『気にしない』
返事は早かった。
「気にしろ!」
『村側の板では、第一歩号が遠隔』
「俺たちが付属!?」
『今、村にはいない』
「でも仲間!」
『だから、場所を別に書いてる』
アカリは怒らない。
分類名を変えようともしない。
『同じ欄へ入れなくても、道の外じゃない』
カナタは不満そうに現標板を見る。
船の欄。
地上連絡の欄。
離れている。
線がある。
「同じじゃないのに、つながってる」
キリが言う。
「当たり前だろ」
「この町では、当たり前じゃない」
継承図塔の銀輪が、次の旗を一つの原図へ戻す。
キリは首の灰札を外した。
捨てない。
工具帯へしまう。
「私は四等のまま、天衡機へ入れない」
「俺は物でも入るぞ!」
「入らないで」とルゥ。
「一緒に行く」
キリが言う。
「許可は?」
「ない」
「じゃあ行こう!」
「判断が早い!」
「今のはいい早さ」とナギ。
ザンバだけが、継承図塔の上を見ていた。
閉じた設計図の旗。
オルドの原図。
あの旗の中にも、消えなかった別の線があるのか。
まだ、誰も聞いていない。
落重期は、朝を待たなかった。
夜の二つ鐘。
逆さ銀樹の透明羽根が、一斉に裏返る。
都市を幹へ引いていた重さが消えた。
代わりに、空の外へ向かう力が生まれる。
最初に浮いたのは、仮工区だった。
原図機関とのつながりが薄い区画。
工房の床が、枝から一指ぶん離れる。
「浮いてる!」
マロが喜ぶ。
「落ちてる!」
ガドが重場杭を床へ打つ。
一本目。
長すぎる。
空の反対側へ抜ける。
二本目。
短すぎる。
床へ届かない。
三本目。
今の重さに合わせた違う長さ。
銀枝へ食い込む。
ガドの腰がそこで沈んだ。荷物を下ろす順番を逆にするのは、限界が近い徴候だ。短杭を先に持つべきところで、長杭へ手を伸ばしている。
「一呼吸だけ借りる」
今度はリネにも聞こえた。
「借りて」
妹は兄の代わりに杭を打たない。近くの職人へ、長杭の続きを渡す鐘を鳴らした。守ることを、仕事を奪うことにしない。
ガドは壁へ腰を預けた。座ったのではなく、次の杭を選び直すための休止だった。
「仮杭、三!」
リネが夜の鐘を鳴らす。
一回。
二回。
三回。
仮工区の人々が、それぞれの場所から返す。
同じ四つ鐘ではない。
今いる場所の数。