第80話 第四章「継承図の町」後編
ナギは第一歩号から音を拾う。
「北壁、返事七! 水路下、三! 歌鐘台、二!」
「返事なしは!」
カナタが白旗を構える。
「三角パン工房!」
「マロ!」
「ここ!」
すぐ横から声。
「聞こえなかった!」
「パンを持ってた!」
「口で返事するな!」
「今、叫んだ!」
工房の床がさらに浮く。
丸パンの炉だけが原図機関へ強くつながり、枝へ残る。
三角型の作業台が、空へ引かれる。
建物が二つに裂け始めた。
「つなぐ!」
ルゥが銀鋲を投げる。
「どっちへ?」
キリが訊く。
「今いる人が多いほう!」
「丸炉に八。仮台に十一!」とナギ。
「仮台へ!」
銀糸が裂け目を縫う。
原図機関の銀線が逆へ引く。
「戻せ!」
町の修復鐘が鳴る。
四回。
仮台が消えかける。
十一人の足元がなくなる。
「今は戻すな!」
キリが自分の旗を床へ突く。
欠けた歯車が回らない。
標術は出ない。
それでも、旗竿を両手で握る。
「ここに人がいる!」
ナギが十一人の返事を、四つ鐘へぶつける。
一人目。
二人目。
違う声。
違う高さ。
銀線が迷う。
カナタは白旗を振る。
「仮台の一歩手前!」
光板を一枚。
裂けた床の間へ置く。
十一人が一人ずつ踏む。
最後の一歩は、自分の足。
丸炉側の八人も、短い橋を渡る。
全員が仮台へ移った瞬間、ルゥが銀糸を切る。
丸い炉だけが原図の建物へ残る。
三角型の工房は別の杭へ支えられる。
二つの形。
どちらも町。
「助かった!」
マロが三角パンを掲げる。
高い棚から仮炉を下ろしたせいで、古傷のある肩が震えている。腕を上げ続けられないマロは、パンを掲げたまま下ろせなくなった。
「次の鐘まで持つ」
また隠した。
カナタがパンだけを受け取ろうとすると、マロは首を振る。
「型は僕が持つ。炉の紐を切って」
全部救助されるのではなく、自分の役目を一つ残す。カナタは聞き直し、言われた紐だけを切った。
「焼けた!」
「今!?」
「炉を持ってきた!」
「丸炉は向こう!」
「仮炉!」
パンの底は焦げ、上は生だった。
カナタが一口。
「途中の味!」
「褒めてない!」
町の別の方向で、大きな亀裂音。
天衡機の外殻が割れる。
銀色の球から、透明な重液が流れ出した。
上へ。
下へ。
横へ。
都市の道が、それぞれ違う方向へ傾く。
オルドの声が全工区へ響く。
『落重期、前倒し。残り、明日の四つ鐘まで』
「三日じゃなかった!」
カナタが叫ぶ。
『原図復元の試運転を、夜明けへ繰り上げる』
「待って!」
ルゥは天衡機へ向かう。
「まだ四つ目を決めてない!」
『決める時間がなくなった』
「だからって、昔へ戻すの?」
『昔ではない。完成前へ戻す』
「同じ!」
『違う』
「今いる人が消えるなら同じ!」
返事はない。
オルドの声ではなく、町中の四つ鐘が答える。
同じ音。
どこへ呼んでも同じ。
ナギは小鐘を強く握る。
「今の返事を集める」
「何人ぶん?」とキリ。
「町全部」
「明日まで」
「一人ずつ」
「間に合わない」
「だから、次の人へ渡す」
ナギは三番港で作った分声札を広げる。
鉄。
森。
鐘。
今度は、ミナモの工区。
仮工区。
原図工区。
水路。
天衡機。
第一歩号。
カゲノハ村。
「返事の場所を増やす」
「鐘を?」
「人を」
カナタが胸を張る。
「俺が呼ぶ!」
「声は足りる」
「大きいぞ!」
「だから一か所」
ナギは笑う。
「カナタは、一番遠い場所」
「世界の果て!」
「今は天衡機の裏」
「近い!」
「重場が一番遠い」
ザンバが灰旗を取る。
「俺は分岐を置く」
「返事を分ける?」
「過去の音と、今の声を」
ルゥは銀鋲を握る。
「私は、中継具をつなぐ」
キリは何も言わない。
欠けた歯車の旗。
「私は?」
カナタが答える。
「次を考える!」
「それ、仕事?」
「一番難しい!」
キリは少しだけ笑う。
「じゃあ、考える」
天衡機の亀裂が、もう一本増えた。
明日の四つ鐘まで。
町が完成する時間ではない。
今の町を、今いる人が言い直す時間だった。
ミナモには、鐘が多すぎた。
ナギには、数より重なり方がきつかった。
高い修復鐘。低い重場鐘。金属を擦る工区鐘。六本の索を触るだけで、舌へ鉄の味が戻る。片耳栓を深くし、もう片方の鈴だけを残す。
「道具のほうが疲れた」
ナギがそう言うときは、自分の限界を隠している。ルゥは中央塔の一番高い鐘を銀糸で半分閉じ、ザンバは床の振動を別札へ分けた。
聞く仕事を守るため、聞かなくてよい音を仲間へ渡す。響路士がすべてを受ける必要はなかった。
修復鐘。
重場鐘。
工区鐘。
始業鐘。
継承鐘。
四つ鐘。
どれも、中央塔から鳴る。
町の人々は聞く。
返す仕組みはない。
「一方通行」
ナギは中央塔の鐘索を見上げる。
「命令だからな」
ガドが言う。
「返事は、作業板へ書く」
「届くのはいつ?」
「四つ鐘のあと」
「今の返事が、次の原図になる?」
「原図審査を通れば」
「三十日」
「早くて」
「明日、町が落ちる」
「知ってる」
ナギは鐘索を切った。
「何してる!」
塔守が叫ぶ。
「分ける」
一本だった索を、六本へ。
仮工区。
水路区。
原図工区。
天衡機。
第一歩号。
外の連標網。
ルゥが銀鋲を打つ。
「《継ぎ路》!」
六本を同じ鐘へ重ねない。
鐘の内側に、小さな打ち子を六つ。
「一つずつ鳴らす」
「時間がかかる」と塔守。
「返事を聞くから」
ナギは仮工区へ呼ぶ。
「今、ここ?」
ガドが長短の杭を叩く。
四回。
同じ間隔ではない。
「仮工区、返事あり」
水路区。
三回。
最後が長い。
「返事あり」
原図工区。
四つ鐘と同じ音。
「これは?」と塔守。
「質問を変える」
ナギは小鐘を鳴らす。
「今日、壊れた場所」
返事がばらける。
北橋。
第三炉。
子どもの机。
完成門。
「今の声」
札へ書く。
天衡機。
呼ぶ。
設計冠から、エルナの記録。
『支点、第三大枝』
その奥。
オルドの銀指が台座を叩く音。
一回。
間。
二回。
「今の人、一人」
ナギは別の札へ。
第一歩号。
カナタが船腹を五回。
「俺!」
「大声はいらない」
「音だけだと俺か分からない!」
「鍋蓋も一緒に鳴ってる」
「翼!」
「分かる」
最後。
外の連標網。
カゲノハ村を呼ぶ。
返事まで長い。
天頂門。
トマリギ島。
三番港。
雨風路中継。
途中で誰かが聞き、返す。
一つの場所が壊れても、別の道を探す。
やがて。
朝葉機関。
からん。
ころん。
長い音。
最後まで鳴る音。
五回。
『カゲノハ村。今、ここ』
「今の村で、変わった場所」
『ルゥの机』
「ほか」
『南橋。朝見台。旅人宿。中継小屋。天頂門の保守所』
「変わってない場所」
間。
『名前』
「形は?」
『毎日少し』
「返事、あり」
ナギは六枚の札を、中央塔の現標板へ並べる。
同じ町。
違う場所。
違う時。
違う声。
「これを、天衡機へ送る」
「何の役に立つ」と塔守。
「原図復元が、今を消す前に」
「鐘で機関は止まらない」
「機関を止めるのは、ルゥとキリ」
「では、これは」
「誰が消えるか、分かる」
ナギの声が低くなる。
「分からないまま戻すよりいい」
塔守は返事をしなかった。
自分の旗を見る。
鐘の紋。
原図では、命令を鳴らす鐘。
「返事を聞く鐘も、鐘か」
「聞かなかったら、ただの音」
塔守は六つ目の打ち子へ手を伸ばす。
「名は?」
「まだ」
「《次鐘》」
「誰の次?」
「鳴らした者の」
「返す人の名前がない」
「では、《応鐘》」
「返事を一つにしそう」
「面倒だな」
「今の返事」
塔守は笑った。
「《連鐘》でどうだ」
ナギは考える。
「仮」
「厳しい」
「ザンバみたい?」
「誰だ」
塔の下。
ザンバが灰旗を地面へつく。
「聞こえている」
「やっぱり」
黒い点から、六本の細線。
同じ鐘へ集めず、それぞれの返事を別の位置へ置く。
「標術――《岐点》」
過去の記録。
今の返事。
届かなかった声。
三つを分ける。
中央塔の空気が軽くなる。
エルナの声は残る。
オルドの今の打音も。
どちらも消えない。
ただ、同じ命令として鳴らなくなる。
「町全部へ広げる」
ナギは札を持つ。
「一人では無理」
塔守が言う。
ナギはすぐ頷いた。以前なら、聞き分けられる自分が最後まで抱えたかもしれない。
「私の鈴を増やすんじゃない。聞く人を増やす」
六本の鐘索へ、違う高さの目印を結ぶ。塔守は高音。ガドは杭の低音。リネは余韻。キリは振動。ナギ自身は、返事が変わったかどうかだけを見る。
同じ響路士を六人作らない。違う感覚を持つ六人へ、必要な一部分だけ渡した。
「次の人へ渡す」
仮工区のガド。
水路の見習い。
原図工区の職人。
第一歩号のルゥ。
カゲノハ村のアカリ。
一つずつ、聞き方を渡す。
今、ここ。
今、変わった場所。
今、残したい形。
返事が来たら、次へ。
連鐘は、町の道より先に人から人へ広がった。