第81話 第五章「今の村から四枚目」前編
カゲノハ村の現標板には、三枚の村図が並んでいた。
十年前。
第一歩号が出航した日。
今日の朝。
アカリは、その横へ四枚目を置いた。
左手で地図を書く。右手は薬箱と札を受取人へ渡すために空ける。「書く手」と「渡す手」を混ぜないのが、アカリの私的な決まりだった。
間違えた線は消さない。赤糸で囲い、その横へ今日の線を足す。人名のある札だけ角を丸く切る。
朝から立ち続けたせいで、視界が一度白くなった。初登場の日の高熱以来、冷えと過労で立ちくらみが出る。それでも自分の体調欄だけ空白にしようとし、マツバ婆に薬湯を押しつけられた。
「配達人も、今ここ」
祖母の一言で、アカリは自分の欄へ《眩暈、一回》と書いた。
「未来?」
トウヤが訊く。
「違う」
「帰ってくる日?」
「まだ描けない」
「じゃあ何」
「今日の途中」
三枚目の《今日》は、一つ鐘のあとに描いた村だった。
四枚目は、夕方までに変わった村。
南橋の手すりが一本外れ。
旅人宿へ新しい家族が入り。
朝葉機関の鏡が一枚曇り。
ルゥの机に仮の棚がついた。
「同じ日なのに二枚?」
「朝と今」
「夜も?」
「変わったら」
「終わらない!」
「今日が終わるまで」
「明日になったら?」
「記録箱へ」
「また今日を描く?」
「うん」
トウヤは嫌そうな顔をする。
「面倒」
「今の村は一枚じゃない」
アカリは鼻の頭を掻いた。笑いを隠せない癖。
「同じ日でも、受取人が変われば地図は変わる。朝は空き家だった旅人宿に、今は五人いる。手すりが外れた南橋も、壊れただけじゃなく修理の人がいる場所になった」
正確さは冷たさではない。誰かを、もういない場所へ誤配しないための執念だった。
アカリは四枚目へ、仮棚の位置を書く。
セノが机の下で補強板を削っている。
十三歳の髪には、ルゥを真似た銅杭が六本。一本は飾りだったが、本人もどれか分からなくなっている。
朝葉機関の音が重なると耳鳴りが強くなり、手順を飛ばす。それでも「手順の中に休憩はない」と言って止まろうとしない。
机の右側は、自分が使って変えた場所だ。ルゥが帰れば、全部元へ戻されるのではないか。その恐れへ触れるほど、セノの説明は早くなる。
「仮棚は三回直した。右の穴は僕の寸法で、斜めねじは失敗一号だけど、失敗って言ったのはルゥで、今は――」
「まだ誰も消さない」とアカリ。
セノはようやく削る手を止めた。
「一指残して!」
「残した!」
「二指ある!」
「ルゥの図が来たら切る!」
「勝手に完成させない!」
「残すほう!」
「それなら、今の形って書いて!」
セノは棚の横へ、小さく日付を刻んだ。
響瓶が鳴る。
ナギの呼び声。
『カゲノハ村。今、変わった場所』
アカリは四枚目を見る。
「南橋。旅人宿。朝葉機関。ルゥの机」
『残したい形』
「全部」
『一つにできない』
「一つにしない」
『原図復元が、町へ広がるかもしれない』
アカリの手が止まる。
「ミナモから?」
『連標網を通る可能性。今の記録を多く送る』
「分かった」
フィオが現標板へ新しい紙を足す。
「村中?」
「一人ずつ」
「時間かかる」
「今の人の返事だから」
村人が集まる。
朝見台の鏡師。
南橋の補修役。
旅人宿の家族。
天頂門の保守隊。
薬師。
子ども。
一人ずつ、今の場所を言う。
「朝見台。鏡、一枚曇り」
「南橋。手すり、一本外した」
「旅人宿。客、五人。昨日は三人」
「天頂門。古い旗竿、今の風へ向いてる」
「薬庫。熱冷まし、残り七本」
アカリはへこんだ薬箱を見る。
自分が熱を出していた頃。
カナタが道を作り、薬を届けた。
あの日の村も残っている。
今は、自分が記録を届ける。
「アカリ」
フィオが訊く。
「残したい形」
アカリは考える。
薬箱のへこみ。
南橋の外れた手すり。
ルゥの机の新しい穴。
「傷も?」
「必要なら」
「どれが必要?」
「今使ってる人に聞く」
「全部聞くの?」
「戻す前に」
村長が現標板へ、自分の札を置く。
「カゲノハ村は、昔の形へ戻せば安全になるかもしれん」
「戻したい?」
「朝火を失う前なら、と思う者はいる」
「今いる人は?」
「捨てたくない」
「両方を一枚に重ねたら?」
「道が裂けるかもしれん」
出航前の試航で、それだけは分かっていた。
帰還路は、三人へ違う帰着像を出した。
カナタには、父のいる古い発着場。
ルゥには、自分の机がそのまま残る作業小屋。
ザンバには、アステルと別れる前の野営地。
アカリの五回の合図は届いた。
朝葉機関の音も、一瞬だけ混じった。
けれど、道を現在の村へ切り替えることはできなかった。
ルゥが帰還路を止め。
第一歩号は、目で見える通常航路を使って戻った。
試験結果。
失敗。
「昔の村は記録」
アカリは一枚目を指す。
「今日の村は返事」
三枚目と四枚目。
「帰ってくる人が、どちらを足場にするかは?」
村長が訊く。
アカリは、空いている欄を見る。
「まだ決めない」
「分からないから?」
「本人が帰ってから聞く」
「聞けば、道になるか」
「それも分からない」
アカリは空欄へ、《未確認》と書いた。
分からない場所を、昔の答えで埋めない。
四枚目の村図へ名をつける。
――《現在稿》。
「今の図じゃない?」
トウヤが訊く。
「図だと、一枚で終わる」
「稿なら?」
「次がある」
アカリは響路へ呼ぶ。
「ナギ」
『聞こえる』
「四枚目を送る。ミナモで図を直してる人へ」
『名前は』
「まだ知らない」
『宛先が弱い』
「ルゥにも」
『二人へ別々?』
「同じにしないで」
『分かった』
紙そのものは送れない。
朝葉機関の音。
橋板の振動。
人々の声。
一つずつ、途中の標へ渡す。
天頂門。
トマリギ島。
三番港。
雨風路。
受け取った人が、同じ紙へ写すのではない。
自分の場所で聞こえた形を書く。
少しずつ違う。
だから、原図にはならない。
けれど、今の返事として届く。
最後に、アカリは設計用の短い札を二枚つけた。
一枚は、ミナモの機巧師へ。
――帰る日を先に完成図へしない。
もう一枚は、ルゥへ。
――使う日が来たら、その日の人と次の稿にする。
「カナタには?」
トウヤが訊く。
「現在地の札」
「それだけ?」
「今は」
連標網は、宛先を二度間違えた。
一枚目は三番港のミオへ届き。
二枚目はトマリギ島の鐘守へ回った。
ミナモへ着いたころには、文の端が少し欠けていた。
それでも、二つの言葉はカナタの手元へ行かなかった。
船長へ届いたのは、南橋の手すりが一本外れたという札だけだった。
『直せ!』
遠い空から返事が来る。
「今、直してる!」
アカリは笑い、四枚目へ新しい一行を足した。
――夕方。船長、返事あり。内容、手すり。
同じ日の村に、また一つ続きを置く。
帰る道は、まだ描かない。
今の形と、変わった理由だけを、次の手へ渡した。
第一歩号は、原図機関にとって一番苦手な場所だった。
船体のどこまでが原型で。
どこからが修理で。
どこが旅先でもらった部品で。
どこが船長の思いつきなのか、誰にも分からない。
白銀の作業影は外周修理床まで追ってきた。
けれど、船首の鍋蓋を前にすると動きを止めた。
『調理器具』
一体が言う。
『操舵部品』
別の一体。
『廃棄物』
三体目。
「翼だ!」
カナタが船上から叫ぶ。
作業影の閉じた顔に、四本目の線が増える。
『分類不能』
「勝った!」
「町の機関へ勝つ方法が鍋蓋なの?」
ルゥは五十三号を船倉へ押し込みながら顔を覆った。
「だから翼!」
「今だけ、どっちでもいい!」
ナギは船縁へ四つの小鐘を並べ、作業影がどの返事へ反応するか試していた。
根。
翼。
炉。
暮らし。
違う音を鳴らすと、影は迷う。
同じ音へそろえると、一斉に歩き出す。
「一つの返事を、命令だと思ってる」
「原図機関だから」とキリ。
「違う返事は?」
「誤差」
「誤差が多いと?」
「修正対象」
船外では、作業影が互いを修正し始めた。
一体の右腕が一指長い。
隣が短くする。
短くしすぎる。
三体目が伸ばす。
同じ形へ戻ろうとして、白銀の腕が何度も伸び縮みする。
「自分たちも合ってない」
ナギが言った。
「今の町を見て作られてないから」
ルゥは作業影の足元へ銀鋲を投げる。
「《継ぎ路》!」
一体の右足と、今の床をつなぐ。
影はその場へ固定された。
原図の歩幅で次の一歩を出そうとする。
届かない。
『床面、誤差』
「床が悪いことにした!」
「原図に合わないものを、全部外側のせいにする」
ザンバが灰旗を持ち上げた。
「人間にもいる」
「お前の昔?」とカナタ。
「主に今のお前だ」
「俺は道が合わなければ作る!」
「船が壊れれば船のせいにする」
「船長のせいって言われてる!」
「合っている」
外周の銀枝から、オルドが歩いてきた。
作業影は機巧守を見ると、一斉に道を空ける。
「作業影を戻せ!」
キリが船首へ出る。
「現在重を測っただけ!」
「測定そのものが問題ではない」
オルドは五十三号を隠した船倉を見る。