第82話 第五章「今の村から四枚目」後編
「原図機関へ、未登録の答えを一度に流した。修正対象が町全体へ広がった」
「町全体が原図と違うから」
「だから、四つ鐘で保っている」
「保ってない。毎日戻して、毎日人が作り直してる」
「その繰り返しで十二年生きた」
「明日は落ちる!」
キリの声が修理床へ響く。
「十一年前と同じ図へ戻したら、今の枝に入らない!」
オルドの銀指が強く閉じる。
「だから、正確な知識が要る」
老人は細長い箱を開いた。
四つ鐘と作業影の足音が重なり、オルドは一瞬だけ片耳を塞いだ。髪の金属輪がまた半指ずれ、銀指で原図位置へ戻す。
「寝れば戻る」
誰も症状を訊いていないのに先回りした。
キリは祖父の最寄りの出口を見る。限界が近いと、オルドは一番近い出口を見なくなる。今も天衡機だけを見ていた。
時間がないという判断と、休まず判断を独占していることは、分けて考えなければならない。
銀色の冠。
細い枝と透明羽根でできた、機巧師の風眼鏡に似た器具。
羽根の一枚一枚に、微細な設計線が走っている。
「《設計冠》」
キリの顔から色が消える。
「持ってきたの」
「時間がない」
冠の中には、エルナが天衡機へ残した技術と記憶が保存されている。
重さを読む手。
銀枝を曲げる角度。
支点旗と解錠旗をつなぐ順番。
十一年前、都市を救った機巧師の答え。
「キリは使った?」
ルゥが訊く。
「三回」
オルドが答える。
「一刻、エルナと同じ手を動かした」
「そのあと?」
「自分の名を忘れた」
ルゥの手が止まる。
「それを使えって?」
「君の《継ぎ路》なら、記憶と自分を分けたままつなげられる」
「たぶん」
「たぶんでは町を預けられん」
「完成図なら預けられる?」
「十一年前、実際に町を救った」
「今の町を?」
「ミナモを」
同じ場所。
違う今日。
アカリの言葉が、ルゥの胸へ戻る。
ナギが設計冠へ耳を近づけた。
「声がする」
「記録だ」とオルド。
「今の返事じゃない」
「知識に現在は要らない」
「使う人にはいる」
冠の奥で、女の声が同じ手順を繰り返している。
『支点、第一層接続』
『解錠、第二層待機』
『航向、北枝へ』
一度。
もう一度。
息継ぎまで同じ。
「エルナの記録」とナギ。
「返事はできない」
キリは冠を見ない。
「母さんは、その中で完成した人になってる」
「何が違う」
オルドの声が低くなる。
「死んだ日までの技術が残っている」
「失敗した声がない」
「不要な試行だ」
「五十三号も?」
「まだ成功していない」
「成功したら、最初から正しかったことにする?」
「記録を整理する」
「失敗した私を消して?」
オルドは答えなかった。
ルゥが冠へ手を伸ばす。
「使う」
カナタが一歩出る。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
「じゃあ外せ」
「でも、中を見たい」
「嫌なんだろ」
「嫌でも、知りたい」
「どっちだ!」
「両方!」
ルゥは設計冠を受け取る。
銀枝が左手首へ触れた瞬間、腱の痛みが跳ねた。指先の微細な裂傷へ透明羽根が入り、手を閉じられない。
「自分の番ではない」
また隠す言葉が出る。
「今、ルゥの番」とナギ。
ルゥは工具箱を三度叩く代わりに、仲間へ左手を見せた。継ぎ路の反動痛。休めば遅れる。隠せば冠の動きと自分の動きを見失う。
「痛い。だから、痛みも現在地にする」
響糸の札へ、ナギが一行を足した。
「誰かの答えを、そのまま使う気はない。でも、知らないまま違うって言うのも嫌」
「戻ってこい、とは言わない」
カナタが言う。
「今は言っていい!」
「どっちだよ!」
「終わったら船へ戻る」
「おう」
「終わらなかったら?」
「迎えに行く」
「それは聞かなくても決めるのね」
「俺の行き先だからな」
ルゥは少し笑った。
ナギが細い響糸を、冠とルゥの手首へ結ぶ。
「何?」
「今の返事を聞く」
「記憶と混ざったら?」
「名前を呼ぶ」
「何回?」
「返るまで」
「多い!」
「大事」
ザンバは灰旗をルゥの足元へ立てた。
「記憶と今が一つになりかけたら分ける」
「切らないでよ」
「今は岐点だ」
テオが冠へ顔を近づける。
「俺も見たい!」
「壊すからだめ」とルゥとキリ。
「二人とも同じ返事!」
「今のはそろっていい」とナギ。
オルドは作業影へ銀指を向けた。
「今夜、天衡機の接続試験を行う」
「明日の四つ鐘じゃないの?」
キリが訊く。
「落重鐘が二度鳴った。次で主枝が離れる」
「現在重の図は、まだ半分」
「冠で補う」
「五十三号は」
「判断保留だ」
ナギの現標板へ同じ札。
けれど、今度の声は前より硬い。
作業影が一斉に向きを変え、天衡機へ戻り始める。
同じ歩幅。
同じ腕。
同じ閉じた顔。
一体だけ、ルゥの銀糸で今の床へつながれている。
歩けない。
『床面、誤差』
繰り返す。
キリはその影の前へしゃがんだ。
「違う」
今の床を叩く。
「ここが、今日の足元」
影の閉じた顔に、細い亀裂が入った。
設計冠をかぶると、町の表面が消えた。
ルゥの目に見えるのは、銀枝の中を流れる重さ。
家の下にある支点。
橋の奥の継ぎ目。
人々の道標旗から伸びる細い設計線。
第一歩号も、船ではなく線の集まりになる。
カゲノハ村の古木。
青板。
黒鉄。
木羽。
音板。
鍋蓋だけ、設計線がない。
「やっぱり原図がない!」
カナタが喜ぶ。
「今、それが一番見やすい!」
「翼だから!」
「黙って!」
知らない手順が、ルゥの指へ流れ込む。
右の輪を三度。
銀枝を七度折る。
支点旗を二指だけ傾ける。
エルナの声。
『第一層、今の重さを捨てて標準へ』
「捨てない」
ルゥは自分の手首へ銀鋲を打つ。
「《継ぎ路》」
今の自分と、冠の記憶を一本の糸でつなぐ。
重ねない。
離れたまま、必要な知識だけ渡す。
痛みが、今の自分を知らせる。
「ルゥ」
ナギが名を呼ぶ。
「返事」
「いる」
「現在地」
「第一歩号、外周修理床」
「目的」
「冠を読む。従わない」
「返事あり」
響糸が手首で鳴る。
ルゥは天衡機の設計線を追う。
三つの旗。
支点。
解錠。
航向。
四つ目の空白。
冠の記憶は、空白の手前で一度途切れた。
次の瞬間、別の線が現れる。
まっすぐな銀枝。
閉じた輪。
完成形。
「これ、エルナの線じゃない」
「何?」
キリが覗き込む。
「筆圧が違う」
「線に筆圧?」とカナタ。
「設計冠では、考えた順番が太さになる」
エルナの線は、何度も迷い。
戻り。
途中で消え。
また違う角度から伸びている。
空白の先へ追加された完成線だけ、迷いなく太い。
「誰かがあとから描いた」
全員の視線がオルドへ向く。
「事故後、原図を補完した」
「エルナの設計として?」
「意図を完成させた」
「聞いたの?」
ナギが訊く。
「最後の言葉を」
「返事は?」
「記録にない」
「じゃあ、聞いてない」
「私はその場にいた」
「覚えてることと、記録へ書いたことは同じ?」
オルドの銀の顔に、冠の光が反射する。
「町を残す必要があった」
「だから、言葉を完成させた?」
「未完の命令では、誰も動けん」
ザンバが灰旗へ手を置いた。
「命令にしたのは、お前だ」
「責任を持った」
「娘の続きへ、自分の終点を置いた」
オルドの銀指が音を立てる。
「お前に何が分かる」
「よく分かる」
かつて黒旗だった男。
アステルの選んだ道を、敗北と決め。
不要な道として切ろうとした。
「他人の途中は、外から見ると不完全に見える」
「町を落とさぬためだ」
「俺も世界を迷わせぬためと言った」
「同じにするな」
「同じではない」
ザンバは答える。
「だから、今言う」
ルゥは冠の中で、完成線の裏を探る。
銀鋲を一本、空白へ近づける。
原図機関が反応し、正しい線を上へ重ねようとする。
「裏へつなぐ」
「何をする!」
オルドが止める。
「消された試行を読む」
「不要な線だ」
「だから見る」
「時間がない!」
「一呼吸!」
ルゥは銀鋲を冠へ打ち込んだ。
「《継ぎ路》! 完成図の裏!」
表の設計線と、その下に残る薄い傷をつなぐ。
銀色の壁が裂けた。
十一年前の機関室が現れる。
警鐘。
崩れる都市。
折れた銀枝。
若いオルドが、血まみれの左腕を押さえている。
記録の端で、エルナは右袖を肘までまくっていた。怖いときの癖。
機関室は高く開け、足元の下には上下のない空。高所が苦手だった人は、床の縁を一度も見ず、壁の小さな魚の落書きへ視線を戻している。
『簡単。四つ目を空けるだけ』
声が少し早い。怖いときほど「簡単」と言う。
英雄の記録には要らない癖が、消された層の中に残っていた。
中央にエルナ。
短い銀髪。
四角い風眼鏡。
キリより少し年上に見える顔。
『四つ目を閉じろ!』
若いオルドが叫ぶ。
『閉じたら、今の重さへ合わせられない!』
エルナは四つ目の輪へ、曲がる銀枝を入れている。
五十三号とよく似ていた。
ただし、もっと粗い。
何度も折れた跡。
『試作だぞ!』
『だから、今に合わせられる!』
『壊れる!』
『完成図どおりなら、もう壊れてる!』
エルナは笑った。
怖くないはずがない。