第83話 第六章「十一年前の続き」前編

それでも手を動かす。

『支点、今の枝へ。解錠、第三区画だけ。航向、帰れる重場へ』

『四つ目は!』

『空ける!』

『何を言っている!』

『私のあとに触る人が、今を見て描く!』

曲がる銀枝が、都市中の重さを読んで形を変える。

天衡機が動く。

散りかけた区画が、残った枝へ戻る。

その代わり、機関室の重さが一か所へ集まった。

エルナの足元が崩れる。

『エルナ!』

『父さん、原図は残して』

『なら戻れ!』

『でも――』

映像が白く途切れた。

冠の完成線が上から閉じる。

「続き!」

キリが叫ぶ。

「母さん、何て!」

ルゥは銀糸を引く。

消された記録は細い。

原図機関が何度も上書きしている。

『でも、命令に――』

その語尾は現在の問いへ返ったものではない。十一年前にそこで切れた記録だ。

キリが「続き」を求めても、エルナは新しい言葉を作らない。冠の白い雑音だけが同じ位置へ戻る。

ルゥは失われた部分を想像で補わなかった。聞こえたところまでを聞こえたとし、聞こえなかった先を空白として残す。

そこまで。

冠が強く光った。

ルゥの両手が勝手に動く。

エルナの正しい手順。

オルドが補った完成線。

四つ目を閉じるため、指が銀枝をまっすぐにし始める。

「ルゥ!」

ナギが名を呼ぶ。

「返事!」

「いる!」

「現在地!」

「冠の中!」

「違う!」

「第一歩号!」

手首の響糸が鳴る。

ザンバが灰旗を振る。

《岐点》!」

ルゥの今の動きと、記憶の動きの間へ黒い点。

二つに分ける。

ルゥは自分の手を引き戻した。

冠が外れる。

透明羽根が床へ散った。

「見えた」

息を切らしながら言う。

「エルナは、四つ目を完成させなかった」

「できなかったのではなく?」とキリ。

「空けた」

「続きは?」

「消されてる」

全員がオルドを見る。

老人は十一年前の設計図を見ていた。

「事故の衝撃で失われた」

「完成線は残った」

「私が描いたからだ」

「なら、最後の言葉も覚えてる」

ルゥの問い。

オルドは答えない。

外で、落重鐘が三度目を鳴らした。

ごおおん――。

銀枝都市全体が大きく沈む。

天衡機の四つの輪が一斉に光った。

四つ目だけ、空白のまま。

オルドは設計冠を拾い上げる。

「接続試験を前倒しする」

「待って!」

キリが五十三号を抱える。

「現在重は集まった!」

「作業影が混入した」

「分ければいい!」

「試作を使う時間はない」

「冠の完成線は、母さんの答えじゃない!」

「町を救う答えだ」

オルドは天衡機へ向かう。

「今夜、ミナモを完成させる」

キリはその背中を追おうとした。

足元で、白銀の作業影が立ち上がる。

閉じた顔。

同じ腕。

同じ声。

『接続試験、開始』

町中の影が、一斉に天衡機へ歩き始めた。

完成広場に、ミナモの旗が集められた。

根重区の水路旗。

翼重区の空船旗。

炉重区の歯車旗。

暮重区の家旗。

すべての旗から銀線が伸び、天衡機へつながっている。

広場の四方向に、人々が立つ。

床も壁も天井も、それぞれの足元。

中央だけが空いていた。

オルドがそこへ立つ。

「落重期は、次の四つ鐘を待たない」

声が町中の復元鐘から流れる。

「主枝の離脱まで、五刻」

人々がざわめく。

「天衡機を起動する。支点旗、解錠旗、航向旗。四つ目には、《継ぎ路》を接続する」

ルゥへ視線が集まる。

「私は、まだ使うって言ってない」

ルゥが答える。

「冠を読んだ」

「読むことと、従うことは違う」

「ほかに完成可能な手段はない」

キリが五十三号を掲げた。

「ある!」

曲がる銀枝。

テオが拾った生き枝。

四区の現在重。

違う返事を違うまま受け取る機関。

「試作です」とリクサが言う。

誤差簿を両腕に抱えている。

帳面には、四区、橋、炉、吊り家、第一歩号まで、今そこにある重さが記されていた。人物欄もある。子ども。職人。作業影。

ただ一行、《重場師リクサ》だけが空白だった。

「あなたは、どこへ残るの」

キリに訊かれ、リクサは初めて自分が測定へ入っていないことへ気づいた。

「それは、今の決定に不要な誤差」

「町の人でしょ」

水準管をキリの目の高さへ合わせる手が揺れる。

「……仮工区。測定継続」

自分の欄へ、左手で書いた。

「でも、十二年分の現在が入っています」

オルドの原図台。

十一年前の完成図。

キリの五十三号。

今日の町。

二つの案が、広場の中央へ並ぶ。

「投票!」

カナタが叫ぶ。

「今いる人に聞け!」

「機巧の設計を多数決では決められん」とオルド。

「町の行き先だ!」

「構造を理解しない者の願いで、重さは変わらない」

「願いにも体がある!」

「言いたいことは分かるけど、言い方が雑!」とルゥ。

リクサは四区の代表へ札を配った。

「答えを一つにしない方法で聞きます」

根重区。

原図案。

「水路が外れたら、町が干上がる。確実なほうを」

翼重区。

五十三号。

「原図の枝には、私たちの家がない」

炉重区。

返事は二つに割れた。

「試作を使うなら、炉を切り離せ」

「切り離したら、移動後に修理できない」

暮重区。

声が多すぎて、木板が震える。

「子どもを原図へ入れて」

「原図のほうが安全」

「今の家を消さないで」

「十一年前と同じ事故は嫌だ」

同じ答えにはならない。

誰も間違っていない。

時間だけが減る。

オルドは白銀旗を掲げる。

「責任は、機巧守が持つ」

オルドの声量が落ちた。

「責任は、機巧守が持つ」

語順まで同じ言葉を二度繰り返す。現在を採用すれば、娘の仕事と犠牲が無意味になる。その恐れへ触れたときの身体反応だった。

キリは気づいたが、答えを代わりに言わない。ルゥはオルドの銀指ではなく、震える右手を見る。

責任を持つことと、全員の選択を一人の恐怖へ入れることは同じではない。

「責任を持つって、ほかの返事を消すことか!」

カナタの白旗が揺れる。

「全部を聞いて、最後は決めなければならん」

「決めるのは分かる! 最初から一つだったことにするな!」

広場が静かになった。

ザンバがカナタを見る。

「少しは言葉になったな」

「今褒めるな!」

ナギは四つの現標板を中央へ置く。

「原図案を選んでも、今の返事は残す」

「必要ない」とオルド。

「選ばなかった道」

「混乱を招く」

「あとで、違うって分かるかもしれない」

「そのときは遅い」

「だから今残す」

カゲノハ村から届いた写し図も並べる。

昔の村。

出航の日の村。

今の村。

三枚を重ねると、同じ道は半分しかない。

「帰る場所でさえ、原図と違う」

ナギが言う。

「それでも、同じ場所」

オルドは地図を見ない。

「外の村とミナモは違う」

「全部、違う」とカナタ。

「だから同じ図に戻せない」

落重鐘の亀裂音。

銀枝の外から、巨大な破断音が響く。

根重区が半歩沈んだ。

水路が空へ持ち上がる。

翼重区の吊り家が一斉に揺れる。

「主枝、第一層離脱!」

作業員が叫ぶ。

「残り三刻!」

オルドは決断した。

「原図案で起動する」

「待って!」

「機巧守命令。全区、復元接続」

白銀旗を台座へ突き立てる。

町中の四つ鐘が、一つ目を鳴らした。

ごおん――。

今壊れたものが浮く。

二つ目。

ごおん――。

今日変えたものが、朝へ戻る。

三つ目。

ごおん――。

十二年ぶんの誤差簿が銀色に燃え始める。

「四つ目を鳴らさせるな!」

キリが五十三号を抱え、天衡機へ走る。

白銀の作業影が道を塞ぐ。

「ルゥ!」

カナタが振り向く。

ルゥは設計冠を握っている。

使えば、原図案を動かせる。

使わなければ、三枚の旗だけでは町を離せない。

「どうする!」

「四つ目へ入る」

「原図に?」

「中から止める」

「戻ってこい!」

「今は言っていいって言ったでしょ!」

「帰ってこい!」

「終わったら!」

ルゥは自分で冠をかぶった。

透明羽根が開く。

エルナの記憶と、オルドの完成線が両手へ流れ込む。

ナギが響糸を結ぶ。

「名前」

「ルゥ」

「現在地」

「完成広場」

「目的」

「四つ目を閉じない」

「返事あり」

ザンバが灰旗を抜く。

「俺は作業影を分ける」

テオは生き枝を肩へ担ぐ。

「俺は五十三号を運ぶ!」

「工房艇は?」

「まだ塔!」

「あとで降ろして!」

「町が先!」

キリは欠けた歯車の旗を握る。

「私は、母さんの続きへ行く」

「お前の最初じゃないのか」

カナタが訊く。

キリは一瞬止まる。

「両方」

「嫌な答えだな!」

「今はいい両方!」

四つ鐘の最後の綱が引かれる。

カナタは白旗を掲げた。

「四つ目が鳴る前に、天衡機へ!」

町中で、同じ歩幅の足音が始まった。

四つ目の鐘が鳴った。

ごおおおん――。

銀枝都市ミナモが、十一年前へ戻り始めた。

最初に消えたのは、翼重区の吊り家だった。

空船民の家々が銀色の線へほどける。

中にいた人々は消えない。

けれど、足元だけがなくなる。

「家!」