第84話 第六章「十一年前の続き」後編

カナタは白旗を振る。

「今いる人の下!」

一歩分の光板。

二枚。

三枚。

落ちる家族を受け止める。

光板は原図機関に引かれ、十一年前の空き地へ戻ろうと曲がる。

「そこじゃない!」

カナタは旗竿を両手で押さえる。

「今はここだ!」

ナギが翼重区の羽鐘を鳴らす。

「現在地、吊り家跡! 人、三十二!」

返事。

ばらばらの声。

光板が一呼吸だけ現在の位置へ止まる。

次に、根重区の新水路が消える。

十一年、毎朝汲み直した三本。

水が行き先を失い、町の外へ落ちる。

炉重区では増設工房が壁へ埋まり始める。

テオの工房艇は、原図にない大きな塊として押し出された。

「俺の船!」

「第一歩号へつなぐ!」

ルゥの声が冠の中から届く。

両手は天衡機の台座へ置かれている。

銀糸だけが町中へ伸びる。

《継ぎ路》! 工房艇と、今の炉重区!」

テオが艇へ飛びつく。

艇は壁から半分抜けたところで止まる。

「助かった!」

「まだ半分!」

「半分なら出られる!」

「船は半分にできない!」

「前にも聞いた!」

暮重区の子どもたちの旗へ、親や祖父母の《継承図》が上から重なる。

歯車。

槌。

丸パン。

今の紋が薄くなる。

三角パンの少年が、手の中の焦げた角を見る。

丸へ戻っていく。

「僕が焼いた」

両手で包む。

銀の光が指の隙間へ入る。

ナギは木の返事板を叩く。

「今の形、返事して!」

「三角!」

少年が叫ぶ。

「角は焦げてる!」

「昨日より少し長い!」

ほかの人々も声を上げる。

「右靴は布二枚!」

「吊索は七指短い!」

「薬雨は三対一!」

今の形を言葉にする。

原図機関の銀線が迷う。

けれど、四つ鐘の力は強い。

町の中心で、天衡機が回り始めた。

支点旗。

解錠旗。

航向旗。

三枚が十一年前の順番で光る。

四つ目の輪へ、ルゥの《継ぎ路》が吸い込まれる。

「やめて……!」

冠の中で、ルゥの指が勝手に動く。

エルナの記憶。

オルドの完成線。

今の銀糸を、まっすぐな一本へ直していく。

「ルゥ!」

ナギが名を呼ぶ。

「返事!」

『第一層、復元完了』

女の声が返る。

「違う!」

『第二層、接続』

「ルゥ!」

ナギは響糸を強く引く。

「現在地!」

ルゥの口が動く。

『天衡機中央』

「目的!」

『都市を完成――』

言葉が止まった。

手首の銀鋲から血が一滴落ちる。

「閉じない……!」

ルゥ自身の声。

「四つ目を、閉じない!」

一本になりかけた銀糸が、何百本へ分かれ直す。

天衡機が激しく揺れた。

オルドは台座の反対側で白銀旗を握る。

「迷うな!」

「迷ってるんじゃない!」

「一つにしなければ、機関が裂ける!」

「今の町を一つの昔へ入れたら、町が裂ける!」

キリとテオが五十三号を運んでくる。

生き枝は、現在重の返事を失い、まっすぐへ戻り始めている。

「鐘を!」

キリがナギへ叫ぶ。

「四区の返事をもう一度!」

ナギは響瓶を開く。

根。

返事あり。

翼。

返事あり。

炉。

返事あり。

暮らし。

何百の返事。

その間へ、原図機関の同じ声が入る。

『標準』

『標準』

『標準』

白銀の作業影が、町中から完成広場へ集まった。

一体ずつではない。

腕を重ね。

脚をそろえ。

閉じた設計図の顔を一枚へ合わせる。

巨大な人型になる。

百本の脚。

百本の腕。

どの指も同じ長さ。

背中には、閉じた銀の輪。

輪の内側へ、ミナモの原図が描かれている。

「標災」

ザンバが灰旗を構える。

《原型獣ヒトカタ》

獣には目らしい器官がなかった。閉じた設計図の顔で、光ではなく力の偏りを読む。左右の違う羽根。長短の杭。破れた穴。最も差の大きい場所へ、頭より先に右側の殻を向けた。

白銀の体は一枚板ではない。薄い殻が何層も重なり、逆光のときだけ、その内側へ閉じ込められた古い傷が見える。消したはずの亀裂。削った歯。埋めた穴。無傷ではなく、履歴を隠した塊だった。

四つ鐘ごとに、殻を一層閉じる。直しやすいものへ触れると腹の空洞から低い一音。異なる形が抵抗すると、高い音を四度。

制度の意味を理解しているわけではない。滑らかで同じ面へ身を寄せ、凹凸の少ない場所を巣にする殻獣が、ミナモの復元命令を餌場として巨大化した個体だった。

「知ってるのか!」

「古い機巧都で、似たものを見た」

「何をする!」

「現在を、原型の材料にする」

ヒトカタが一歩を踏んだ。

どおん――。

完成広場の床が、十一年前の位置へ戻る。

今そこにあった階段が消え。

カナタたちの足元が壁になる。

「うおっ!」

全員が横へ落ちる。

カナタは白旗を突く。

「今の床!」

一歩分の光板。

ヒトカタが指でなぞる。

板は規格階段の一段へ変わった。

「俺の道まで!」

「原図に近い道へ直す!」

ルゥの声。

ヒトカタの百本腕が、天衡機へ伸びる。

四つ目の空輪を閉じるため。

五十三号を持つキリへ、十本の指。

「逃げろ!」

テオがキリを突き飛ばす。

生き枝だけがヒトカタに掴まれた。

獣は曲がった先端から触れた。左右非対称のものを、最初に確かめる習性らしい。舌も牙もない。右殻で形を測り、左殻で白化を始める。

曲がりが消えるほど、腹の低音は滑らかになる。人間には「正しい」と聞こえる音でも、獣にとっては巣の面が平らになった合図にすぎなかった。

銀の指が曲がった枝をまっすぐにする。

折れる。

一本。

二本。

テオが拾った生き枝の先が砕けた。

「五十三号!」

キリが破片を拾おうとする。

ヒトカタの別の腕が、欠けた歯車の旗へ触れた。

空いた一歯へ、銀色の歯が生まれる。

完全な円。

「完成した……?」

キリの風眼鏡が、仕事中の位置へ落ちた。背筋が過度に伸び、最も近い出口を見なくなる。

右手の小指まで、完全に他の指へ揃った。疲れも迷いも消えたのではない。ヒトカタが、それらを規格外として表面から削った。

人間らしい不揃いがなくなった姿を、オルドは一瞬だけ完成と見誤った。

キリの背筋が伸びる。

目から迷いが消える。

工具を持つ角度。

息の間。

母エルナの記録と同じになる。

「キリ!」

ルゥが叫ぶ。

少女は四つ目の輪へ向き直る。

『天衡機、完成率九十六』

声まで、設計冠の中のエルナだった。

「それ以上、完成するな!」

『四つ目を接続します』

キリが台座へ歩く。

オルドの顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。

「エルナ」

呼びかける。

キリの足が止まる。

『機巧守。原図を確認』

娘ではない。

記録。

完成させられた手順。

オルドの安堵が、すぐに恐怖へ変わる。

「キリ」

今度は孫の名を呼ぶ。

返事はない。

ヒトカタが二歩目を踏んだ。

都市の外周が銀樹から離れる。

解錠旗が起動した。

「町が動く!」

カナタが叫ぶ。

航向旗は、原図の北枝を指している。

十一年前には安全だった枝。

今は細く、暮重区を支えられない。

「そっちは違う!」

ヒトカタの百本脚が、同じ一歩を北枝へ踏む。

ミナモ全体が引かれる。

現在の家も。

人も。

第一歩号も。

完成した道の先に、今の町の終わりが待っていた。

ヒトカタの四歩目が、第一歩号へ下りる。

銀色の脚は、ナギの響路士席を荷台へ戻そうとしていた。

椅子の背に結んだ小鐘が消え。

 現標板の四人目の欄が薄れ。

 船腹へ打ったトマリギ島の青い板まで、均一な銀へ変わっていく。

「そこは荷物じゃない!」

カナタが白旗を振った。

「ナギの場所!」

一歩分の光板が、椅子の下へ生まれる。

ヒトカタの指が触れる。

板は同じ幅の荷台へ直された。

「だから違う!」

「名前だけでは、原図は変わらない!」

ルゥの声が、天衡機から響く。

「今の使い方を返して!」

ナギは椅子の小鐘を五回叩いた。

一。

 二。

 三。

 四。

 五。

「響路士、ナギ。第一歩号、響路台。今、乗船中」

返事は自分の声だけ。

連標網は銀の波に塗られ、遠い標へ届かない。

ヒトカタの脚が、もう一度下りる。

ナギの椅子が半分、床へ沈んだ。

「俺も返す!」

カナタは船腹を五回叩く。

「船長、カナタ! ナギは今ここ!」

「一人の返事を、二人ぶんにしない!」

「でも二人いる!」

「それは大事!」

ルゥの銀糸が、船体の奥から伸びる。

標準船へ戻された三本の骨材の間。

 原図にはなかった細い穴を探し、椅子の脚へつなぐ。

《継ぎ路》! 今の船と、今の四人目!」

銀糸が張る。

椅子は荷台にも座席にもなりきれず、その場で震えた。

ヒトカタの閉じた顔が、第一歩号へ向く。

『分類不能』

「勝った!」

「止まってない!」

百本の腕が、今度は天衡機へ伸びる。

四つ目の輪。

 完成したキリの旗。

少女はエルナと同じ歩幅で進んでいた。

一歩。

右手が工具帯へ。

二歩。

曲がった銀枝を、まっすぐな部品へ直す。

三歩。

四つ目の輪へ差し込む。

「キリ!」

ナギが小鐘を向ける。

「今、ここ?」

『天衡機、第四接続部』

設計冠の記録と同じ声。