第85話 第七章「名前を返す鐘」前編

「今日、失敗した数!」

『該当項目なし』

「五十四枚目は?」

『原図外』

「着地は?」

返事が途切れる。

キリの指が、ほんの少し止まった。

止まった小指だけが、他の四本よりわずかに上がった。五十三枚の失敗を数えるときの、自分の疲れた手。

風眼鏡の奥で、乾いた目が十度続けて瞬く。完璧なエルナの記録にはない、キリ自身の身体だった。

七枚羽根の滑空具。

 四拍子で一呼吸だけ飛び。

 カナタと一緒に天井の紙束へ突っ込んだ。

帳面へ書いた言葉。

――乗った人、返事あり。

「五十四枚目の着地は!」

ナギがもう一度呼ぶ。

キリの唇が動く。

『事故欄』

小さな声だった。

エルナの記録にはない。

「返事あり!」

ナギが叫ぶ。

「キリ、今ここ!」

『五十四枚目……』

少女の足が止まる。

完成した歯車の旗が、銀色の光を強める。

『修正します』

「何を!」

『事故欄を、飛行記録へ』

「そこ!?」

カナタが叫ぶ。

キリの目が一度閉じた。

開く。

迷いが戻っていた。

「両方って書いた」

自分の声。

旗の完全な歯車へ手を伸ばす。

銀色に生えた一歯を、指で掴む。

引く。

抜けない。

ヒトカタが百本の腕で押さえている。

『欠損を修正』

「欠けたんじゃない」

キリは歯を強く握った。

「ここへ、次を入れるために空いてる!」

旗を床へ打ちつける。

銀の歯に亀裂が入る。

一本。

 二本。

それでも外れない。

「キリ!」

オルドが天衡機の反対側から手を伸ばす。

「エルナ!」

呼んでしまった。

キリの手が止まる。

老人の顔に、十二年ぶんの後悔が浮かぶ。

娘の名を呼べば、失った時間が戻るように思えた。

戻らない。

目の前にいるのは、孫だ。

「……キリ」

オルドは言い直した。

「お前の旗だ」

銀の左手で、完成した歯を掴む。

「自分で、外せ」

オルドは銀の五指で余計な歯を押さえたが、抜く方向は示さなかった。

締具は支える。測針は位置を読む。切刃は使わない。孫の旗へ、自分の正解を刻まないためだ。

生身の右手だけが震えている。守ることを、代わりに終えることへしない。その小さな区別が、老人には十二年遅れて難しかった。

「手伝わないの?」

「支える」

オルドは歯車の反対側を押さえた。

キリが引く。

二人の力は同じ方向ではない。

一人が旗を支え。

 一人が余計な歯を抜く。

銀の歯が外れた。

小さな破片が空へ落ちる。

キリの旗へ、欠けた歯車が戻る。

ただし、前と同じ欠けではなかった。

縁に細い溝ができている。

次の部品を受け取れる形。

ヒトカタの腕が十本、崩れた。

同じ長さだった指が、ばらばらの銀片になる。

「効いた!」

カナタが白旗を構える。

「全部、欠けさせる!」

「壊す方向へまとめないで!」

ルゥが叫ぶ。

「ヒトカタは、完成を一つにした力! 一か所壊しても、別の原型へ戻る!」

崩れた銀片が床へ落ちる。

丸い歯車。

 同じ長さの杭。

 標準窓。

すぐに別の腕へ組み直される。

ヒトカタは北枝へ三歩目を踏む。

ミナモの速度が上がった。

細い枝まで、あと一刻。

「まず、町を引いてる命令を止める!」

キリがオルドを見る。

「じいちゃんの線」

老人は四つ目の輪の奥を見た。

自分が描いた、まっすぐな完成線。

娘の空白を埋め。

 十二年、町を守り。

 今、町を過去へ引いている線。

「私が止める」

「切るの?」

「切れば、エルナの記録まで失う」

ザンバが灰旗を担ぎ、天衡機へ歩いてくる。

「なら、分けろ」

「お前の力でか」

「俺は場所を作る」

黒い点を、完成線の手前へ置く。

「どちらへ進ませるかは、お前が決めろ」

オルドは、長い間閉じていた設計図を開いた。

天衡機の四つ目には、二本の線が重なっていた。

一本は、エルナが残した試行。

曲がり。

 戻り。

 消え。

 別の角度からまた伸びる線。

もう一本は、オルドが事故後に加えた完成線。

迷わず。

 まっすぐ。

 北枝へ。

原図機関は二本を一つとして読んでいる。

娘の途中。

 父の結論。

同じ設計とされ、十二年鳴り続けた。

「どこへ岐点を置く」

ザンバが訊く。

「事故の前とあとだ」

「時間では分けられん」

「なぜ」

「お前の線は、娘の試行を使っている」

ザンバは灰旗の先で、完成線をなぞる。

「支点も。解錠も。航向も。すべてエルナの線から続いている」

「なら、切れない」

「切る話ではない」

「お前が言うのか」

オルドの声に、わずかな棘。

「昔の俺なら、全部を終点へ置いた」

ザンバは答える。

「残したいものと、従わせたいものを分けなかった」

天頂門。

アステルの帰還路。

父が残した選択を、敗北という命令へ変えた。

「記録は残せ」

灰旗の黒い点が、二本の線の重なる場所へ入る。

「命令だけ、ここで終えろ」

「私が終えれば、十二年の判断が誤りになる」

「誤りでなければ、今も続けるか」

北枝が窓の外で大きくなる。

細い。

都市の三分の一も支えられない。

「続けられない」

「なら、今の返事だ」

オルドは白銀旗を広げる。

閉じた設計図の紋。

その中央に、自分で一本の線を引いた。

娘の試行へではない。

自分が加えた完成線へ。

「事故後補完線、機巧守オルド」

町中の復元鐘が、記録を読み上げる。

「目的。第三大枝への復帰」

続ける。

「現況。第三大枝、消失。現在の町と不適合」

銀の指が震える。

「判断」

言葉が出ない。

十一年前。

エルナが空白を残した。

オルドは、それを恐れた。

未完成のままでは、娘の死に意味がなくなると思った。

だから、完成させた。

「じいちゃん」

キリが呼ぶ。

急かさない。

答えを代わりに言わない。

オルドは旗竿を、自分の完成線へ置いた。

「判断。ここまで」

署名欄へ、銀の記録筆ではなく生身の右手を使った。

筆は持てる。けれど震え、最初の一画が少し曲がる。原図へ直そうとする銀指を、オルド自身が止めた。

――オルド。

事故後補完線を加えた者の名。娘の意図ではなく、自分の判断だったと、曲がった字のまま残す。

白銀旗の閉じた設計図に、細い切れ目が入る。

ザンバが黒い点を打つ。

「標術――《岐点》

二本の線が分かれた。

一方。

エルナの試行。

 設計冠へ戻る。

 読める。

 学べる。

 ただし、命令しない。

もう一方。

オルドの完成線。

 北枝へ伸びる。

その先に、小さな終止札が立った。

――事故後補完、終了。

航向旗が激しく揺れる。

北枝を指していた銀の針が止まった。

ミナモの前進も、一瞬だけ止まる。

「止まった!」

カナタの歓声。

直後、都市全体が横へ落ちた。

「止まり方!」

「行き先を失った!」

ルゥが叫ぶ。

三枚の旗は動いている。

支点旗は、十一年前の支点と今の杭の両方を掴み。

 解錠旗は、銀樹から都市を離し。

 航向旗だけが、空白になった。

町は上下のない空へ漂い始める。

家々が別々の重さへ引かれる。

水路は上へ。

 炉は横へ。

 吊り家は外へ。

ヒトカタも、北枝への道を失った。

百本の脚が一斉に別の足場を探す。

一歩目は原図の床。

 二歩目は原図の壁。

 三歩目は原図の天井。

全部、十一年前。

今の町には届かない。

脚同士がぶつかる。

巨大な体がよろめいた。

「今なら倒せる!」

カナタが白旗を振り上げる。

「頭まで!」

光板が何枚も生まれる。

一枚。

 二枚。

 三枚。

ヒトカタの頭へ、まっすぐ。

銀の獣はその道を見た。

閉じた設計図の顔が開く。

カナタの光板を、同じ幅へそろえる。

四枚目。

 五枚目。

道を伸ばすほど、獣の新しい背骨になる。

「カナタ、止めて!」

ルゥが叫ぶ。

「もう少しで届く!」

「届いた道を使われる!」

ヒトカタの百本脚が、未踏路へ乗った。

獣が再び形を取り戻す。

「俺の道だぞ!」

「誰でも踏めるから道なの!」

カナタの腕が止まる。

自分が作った一歩。

誰かが二歩目を踏む。

今、踏んだのはヒトカタ。

「じゃあ、最後まで俺が――」

「それが同じ!」

キリが叫ぶ。

「全部作ったら、私たちは乗るだけになる!」

カナタは白旗を引いた。

光路は三枚目で途切れる。

ヒトカタの前脚が空を掻いた。

「届かないぞ!」

「それでいい!」

ルゥが言う。

「今度は、今の町が行き先を作る!」

「どうやって!」

「まだ考えてない!」

「俺みたいだ!」

「今だけ!」

天衡機の空白へ、町中の連鐘が鳴る。

根。

 翼。

 炉。

 暮らし。

返事はある。

形がない。

オルドは、設計冠を台座から外した。

「記録は、保管庫へ移す」

オルドは透明棚へ冠を置いたあと、いつもの金属輪を原図位置へ直しかけた。

半指ずれたまま、手を下ろす。

何もかも変えることはできない。けれど、一つのずれを例外として残すことはできる。本人は制度改定とは呼ばず、「今日だけ」と言った。

キリは訂正しなかった。明日も同じ位置なら、そのとき次の稿にすればよい。

「今?」

キリが訊く。

「今、命令に戻さぬためだ」

冠を、閉じた箱へ入れない。

透明な棚へ置く。

誰でも読める。

ただし、天衡機へ直結しない。

エルナの声が一度だけ流れる。

『四枚目は――』

その先は、空白。

オルドは続きを言わなかった。

「次の人へ」

キリが、小さく答えた。

その言葉は記録へ加えられない。