第86話 第七章「名前を返す鐘」後編
今の返事として、連鐘へ残った。
カゲノハ村では、朝葉機関の鐘が鳴り続けていた。
ミナモから来る音は、途中で銀色の雑音へ変わる。
一度。
古い村の鐘。
二度。
第一歩号が出航した日の音。
三度。
今の連鐘。
どれも同じ道へ重なろうとしている。
「分けて!」
アカリが現標板の前で叫ぶ。
フィオとトウヤが、三本の響索を別々の杭へ巻く。
「十年前!」
「こっち!」
「出航の日!」
「二本目!」
「今日!」
「どれ!」
「変わってる音!」
「全部変!」
銀の雑音の中から、五回の小さな打音。
ナギ。
今の呼び声。
アカリはへこんだ薬箱を、朝葉機関の受け板へ置いた。
箱の角が鳴る。
一。
二。
三。
四。
五。
「カゲノハ村。今、ここ!」
返事を送る。
届いたか分からない。
もう一度。
「今、変わった場所!」
南橋。
旅人宿。
朝見台。
天頂門。
最後に。
「ルゥの机!」
作業小屋から、金属音がした。
がん。
「壊した?」
アカリが走る。
「直してる!」
机の下から、セノの声。
ルゥが出航前に使っていた作業机。
右半分には、今はセノの工具が並んでいる。
工具は音の静かな順に並べられていた。槌より測針。測針より布。感覚が過負荷になる日のため、セノが自分で作った順番だ。
耳鳴りが強くなると、髪の銅杭を一本ずつ抜く。今は二本が机へ置かれている。飾りの一本を抜いたつもりだったが、どれか分からない。
ルゥが帰ったら、右側の穴も棚も「元の机」へ戻されるのではないか。その恐れを隠すほど、工具を持つ手が速くなった。
仮棚。
新しい穴。
高さの違う引き出し。
そして、斜めのねじ。
「また曲がった!」
セノが工具を放る。
机を揺らす。
ねじは抜けるどころか、振動に合わせて奥へ締まった。
「曲がってない」
アカリが覗く。
「斜めに作った」
「まっすぐ入らない!」
「揺れると締まる」
「机は揺れない!」
朝葉機関が大きく震えた。
机の右脚が浮く。
斜めねじだけが、仮棚と脚を強く結んだ。
ほかのまっすぐなねじが一本外れる。
からん。
セノが止まる。
「揺れた」
「今は」
「ミナモ、ずっと揺れてる?」
「重さが変わる町」
アカリは連鐘へ走って戻る。
「ナギ!」
五回。
「斜めねじ! 揺れると締まる!」
返事なし。
「それだけじゃ分からない!」とフィオ。
「図!」
セノが紙へ描く。
ねじ山は均等ではない。
一つ目は浅く。
二つ目は深く。
三つ目は反対向き。
揺れる方向が変わると、別の山が噛む。
「最初のは?」
アカリが訊く。
「ルゥに渡した」
最初の旅立ちの日。
第一歩号の出航前。
失敗作として工具帯へ入れられた斜めねじ。
今、遠いミナモで、キリの廃図庫を開ける鍵になっている。
「向こうにある」
「じゃあ、使える!」
「一本だけ」
「次を作る図は送れる」
アカリは紙を響板へ置く。
紙そのものは飛ばない。
セノがねじ山を工具で叩く。
浅い。
深い。
逆。
三つの音。
トウヤが別の板へ写す。
天頂門。
トマリギ島。
三番港。
雨風路。
受け取るたび、同じねじにはならない。
使う道具も。
揺れも。
金属も違う。
それでも、考え方が渡る。
――一つの向きへ固定しない。
――揺れた方向を使って締める。
――外すときは、揺れを止める。
ミナモ。
ナギの小鐘へ、三つの不揃いな音が届いた。
「カゲノハ村!」
ナギが叫ぶ。
「今の返事?」
『今!』
アカリの声。
『セノの斜めねじ!』
「何で鍵がしゃべるんだ!」
カナタが叫ぶ。
「鍵じゃない!」
ルゥの声が天衡機から返る。
工具帯を探る。
四本の違うねじ。
廃図庫を開いたあと、キリから返された一本。
斜めの溝。
ルゥは指で回す。
今までは、まっすぐな穴へ入らない失敗作だった。
天衡機の四つ目へ近づける。
輪は、都市の揺れに合わせて形を変えている。
まっすぐな銀枝は、向きが変わるたび外れる。
斜めねじは、揺れるたび別の山が噛んだ。
「これ」
ルゥの目が変わる。
「固定しないで、外れない」
「矛盾!」とカナタ。
「動く場所へ、動くつなぎ方!」
キリが五十三号を抱えてくる。
曲がる銀枝の根元。
何度も折れた場所へ、斜めねじを当てる。
ぴたりとはまらない。
「少し太い」
「削る!」
「待って」
ルゥは連鐘へ呼ぶ。
「セノ。今の穴、何指?」
遠い返事。
『机の?』
「最初に渡したねじ!」
『失敗一号!』
「名前をつけないで!」
『ルゥが持ってるなら、根元を半指残して!』
「なんで?」
『次の人が削るぶん!』
ルゥの手が止まる。
自分の机。
自分の穴。
今はセノが使い、勝手に棚を増やし、次のねじを作っている。
以前のルゥなら、図どおりに直せと言ったかもしれない。
「机、元へ戻してほしい?」
アカリが響路の向こうで訊く。
「出航した日の形へ?」
『うん』
「勝手に元へ戻さないで」
答えは早かった。
ルゥは遠い響路の向こうで、工具箱を三度叩いた。
「右はセノが使った場所。私の机だった記録も消さない。今の穴も消さない」
『両方?』
「同じ机へ、別の時刻」
セノの呼吸が少し遅くなる。
「でも、戻った私の場所は私に聞いて。隣へ空の台を作るか、別の工房へするか、まだ決めない」
保存されたいのではない。帰った自分の場所を、帰った日の自分で決めたかった。
今も、自分の机だと思う。
同時に、セノが失敗し、直し、次のねじを作っている場所でもある。
『右の棚は?』
「今の形って記録して」
『残す?』
「勝手に完成させないで」
『使っていい?』
ルゥは斜めねじを見る。
この一本も、失敗として持ち出したから、ここへ来た。
「今は使ってていい」
『いつまで?』
「決めない」
『帰ったあと?』
ルゥは少し黙った。
机も。
村も。
自分も、その日まで変わる。
「帰ったら、私も見る」
『見るだけ?』
「見てから言う!」
アカリが笑う音。
『返事、あり』
最終形の欄は空白のまま残った。
ルゥはねじの根元を半指残した。
キリへ工具を渡す。
「最後は?」
「あなたが削って」
「形は?」
「今の五十三号に合う形」
「失敗したら?」
「五十四枚目」
キリは斜めねじを受け取った。
初めて、母の原図でも。
ルゥの答えでもない。
自分の手で、次の寸法を決める。
五十三号を、天衡機の四つ目へ置く。
置いた瞬間、曲がる銀枝は七方向へ折れた。
「壊れた!」
カナタが叫ぶ。
「読んでる!」
キリは銀枝の先を一本ずつ追う。
根重区。
翼重区。
炉重区。
暮重区。
さらに、仮工区。
第一歩号。
連標網。
「七つ?」
キリの右手の小指が上がったまま戻らない。乾いた目も、風眼鏡の奥で何度も瞬いている。
「今止まるほうが危ない」
決まり文句が出た。
「だから、止める人を別にする」とルゥ。
キリ自身が判断できなくなる前に、ナギが応答の欠けを数え、リクサが揺れを測り、ルゥが銀枝を切る。次稿は、設計者が倒れるまで続ける力ではない。止める権限も次へ渡す仕組みだった。
「今、つながってる重さ」
「四つ目なのに!」
「数は役目じゃない!」
斜めねじを、銀枝の根元へ差す。
都市が横へ落ちる。
ねじは一山目で止まる。
次に、上へ引かれる。
二山目が噛む。
炉の重さで回転すると、反対向きの三山目が締まる。
「外れない」
ルゥが息を呑む。
「でも、同じ場所へ固定されてない」
「セノの失敗一号」
キリが言う。
「名前は変えて!」
遠い響路から、セノの声。
『二号もある!』
「今は一号!」
『使えた?』
「まだ途中!」
『じゃあ成功じゃない!』
キリは笑った。
「気が合いそう」
「会ったら机を壊す!」
「主にカナタが」とナギ。
「俺は関係ない!」
天衡機の周囲で、七本の銀枝が揺れる。
枝の先に、まだ何もつながっていない。
「今の重さを、ここへ入れる」
ルゥが言う。
「全部?」とカナタ。
「全部を一つにしない」
キリは五十四枚目の紙を広げた。
中央に、空の輪。
周囲に七つの欄。
欄の形は、どれも違う。
「根重区」
ナギが連鐘を鳴らす。
「今、支えてる形!」
ガドの返事。
『長杭、三。短杭、二。曲杭、一。人の脚、一』
「最後は何!」
カナタが訊く。
『俺』
「部品に数えるな!」
『今、支えてる』
キリは紙へ書く。
――長さをそろえない。
「翼重区!」
テオの四拍子。
『三枚羽根! 一枚目、雷! 二枚目、雨! 三枚目、今は破れてる!』
「直せ!」
『破れてるから横風を逃がせる!』
ルゥが顔を上げる。
「残して!」
『どっち!』
「今は破れ!」
キリが二つ目の欄へ。
――塞がない穴。
「炉重区!」
マロの声。
『三角型、九! 丸炉、一! 角から蒸気が逃げる!』
「パンは?」
カナタ。
『今焼いてる!』
「持ってこい!」
「設計の返事を先に!」とルゥ。
『角が三つあると、圧が三方向へ分かれる!』
――一つの出口へ集めない。
「暮重区!」
リネの歌鐘。
一拍目は短く。
二拍目は長く。
三拍目は一度止まり。
四拍目は隣の鐘が受け取る。
「言葉は?」
『歌は、途中で次の人へ渡す』
――同じ拍子にしない。
「仮工区!」
リクサが誤差簿を叩く。
『現在重、四百二十七通り!』
「多い!」
『一呼吸前は四百十九!』
「増えてる!」