第87話 第八章「五十四枚目」前編
『町が動いてる!』
――値を固定しない。
「第一歩号!」
ナギが船へ呼ぶ。
返事。
往還翼の鍋蓋。
三路舵。
朝火炉。
終路鐘。
響瓶。
現標板。
響路台。
どれも別の町でもらった部品。
どれがなくても、同じ第一歩号ではない。
「今の形!」
カナタが叫ぶ。
「つぎはぎ!」
「設計名にしないで!」
キリは笑いながら書く。
――来た道を消さない。
「連標網!」
最後。
アカリ。
『今の図は、一枚で終わらない』
「続きは?」
『受け取った人が書く』
――次の欄を空ける。
七つの返事が、五十四枚目へ並ぶ。
完成図ではない。
部品の寸法も。
正しい角度も。
最終形もない。
代わりに、守る条件と、次に決める場所がある。
「設計図じゃない」
オルドが言った。
「作業の渡し書き」
「だから、四つ目」
キリは答える。
「機関を完成させる図じゃない。完成しないまま、今の人へ渡す図」
キリは風眼鏡を下ろした。仕事の顔へ戻る。
「ただし、危ないまま渡すって意味じゃない」
五十四枚目の下端へ、三本の横線を引いた。
――落重期までに、避難路を支える強度へする。
――異音が三度続いたら、設計者を待たず止める。
――止めた理由と、次に試してよい条件を残す。
「未完成なら、期限も責任もなくなると思ってた?」
カナタが目をそらす。
「少し!」
「かなりでしょ」
マロが三角型を抱え直した。古い肩が痛むため、胸より上へは持ち上げない。
『角は、ずっと残す?』
「今の圧を逃がすあいだだけ。もっと安全な出口ができたら閉じる。そのときは、角が要らなくなった理由も残す」
『三角が負けたことになる?』
「役目を終えたことになる。型まで捨てるかは、マロが決める」
返事の向こうで、少年が鼻の頭を掻いた。笑いを隠すときの癖だった。
リクサは透明な水準管をキリの目線へ合わせる。三つの重りのうち、一つだけ低い。
「町の値は入れた。第一歩号も、連標網も。あなた自身の重さは?」
「機関に乗らない」
「判断へ乗ってる」
キリの右手の小指は立ったままだった。乾いた目。聞こえにくい高音。怖さを隠す決まり文句まで、今の条件に含まれる。
五十四枚目の余白へ書く。
――キリ。高音警報のみでは停止を判断しない。低振動確認者を一人置く。右手小指が戻らない時点で交代。
「自分まで部品にした」とカナタ。
「部品じゃない。交代できる人」
オルドは紙を腕いっぱい離して読んだ。
「完成図ではない」
「うん」
「だが、放置図でもない」
「今日の止まり方まで書いた、渡し書き」
老人は新しい言葉を古い定義へ置き換えかけ、やめた。今はまだ、その名のまま紙へ残した。
「機巧は、曖昧では動かん」
「曖昧な場所を、動く部品にする」
斜めねじを指す。
「揺れが来たら、その揺れで締まる」
「方向を誤れば、逆に外れる」
「外れたら、次のねじへ」
「町で試すのか」
キリはオルドを見る。
「町は、もう試されてる」
老人は反論しなかった。
外で、ヒトカタが四歩目を踏む。
銀の獣が行き先を失った町へ、自分の原型を置き始める。
根重区の杭が同じ長さへ。
翼重区の羽根が同じ形へ。
炉重区の出口が一つへ。
七本の銀枝が、同じ幅へ直されかける。
「今、つなぐ!」
キリは五十四枚目を四つ目の輪へ差し込む。
紙が銀の光を受ける。
原図機関が読む。
『不完全』
「うん」
『寸法不足』
「次の人が測る」
『終端なし』
「終わったら書く」
『原図名』
キリは止まる。
五十三号。
母の続き。
自分の最初。
セノのねじ。
町じゅうの返事。
「《次稿》」
灰青色の旗が光った。
欠けた歯車の空きへ、銀色の歯は戻らない。
代わりに、空白の縁から細い線が何本も伸びる。
線は五十四枚目へ。
そこから七つの返事へ。
「標術――《次稿》!」
キリが旗を振る。
五十四枚目の紙に、今の天衡機が浮かんだ。
亀裂。
曲がり。
間に合わせの杭。
斜めねじ。
どれも消さない。
その上へ、空の線が一層だけ加わる。
次に変えられる場所。
七本の銀枝が、違う形のまま四つ目へつながった。
天衡機が一度、深く鳴る。
ごうん――。
四つ鐘ではない。
町の今を受け取った音。
ヒトカタの閉じた顔へ、初めて空白ができた。
天衡機は今の町を受け取った。
ただし、行き先はまだなかった。
「安全重場は!」
ルゥが連鐘へ叫ぶ。
外周の観測者が別々に答える。
『青流れ、右上!』
『今は左!』
『銀樹が回ってる!』
『星屑帯、近い!』
「一つにして!」
カナタが叫ぶ。
「一つにできない!」
ルゥとナギとキリが同時に返した。
「行き先なのに!?」
「町の場所ごとに安全な方向が違う!」
根重区は重い。
下の青流れへ。
翼重区は軽い。
上の風へ。
炉重区は熱を逃がせる横風。
暮重区は揺れの少ない内側。
都市全体を一つの点へ運べば、どこかが壊れる。
「なら、道を広げる!」
カナタは白旗を両手で構えた。
「町全部が通れる未踏路!」
白旗を振る直前、カナタの右膝が一歩遅れた。寒い重液の風で古傷が疼いている。本人なら「助走」と呼ぶ痛み。
怖いと声が低くなり、右足だけが先へ出る。誰かの道を奪う恐れへ触れながら、今も大きな一枚で全部を救おうとしていた。
旗の中央ではなく端を握る。自分でも気づかない不安の位置だった。
「待って!」
旗を振る。
巨大な光板が、ミナモの前へ生まれた。
根重区から翼重区まで届く幅。
青流れへ。
一枚。
ヒトカタが振り向く。
閉じた顔の空白へ、カナタの大きな道が映る。
百本の脚が光板へ乗る。
「また!」
板の幅が均一になる。
都市の違う重さまで、同じ道へ押し込まれる。
「切って!」
ルゥが叫ぶ。
「今切ったら町が!」
「まだ乗ってない!」
カナタは旗を引く。
巨大な光板が砕ける。
ヒトカタの前脚も空へ落ちる。
「道を作れって言ったり、作るなって言ったり!」
「全部作るなって言ってる!」
キリは次稿の七本線を指す。
「根重区の行き先は、根重区が決めた!」
「翼重区も!」とナギ。
「俺は何をする!」
「手前!」
「どこの!」
「それぞれの!」
カナタは白旗を見た。
一歩しか作れない力。
今まで、何枚もつなげて道にしてきた。
最後まで。
届くまで。
それが自分の役目だと思っていた。
「根重区!」
ナギが呼ぶ。
『下青流れへ!』
ガドの声。
「カナタ、杭台の手前!」
カナタは白旗を突く。
「標術――《未踏路》! 杭台の一歩前!」
一枚。
根重区と、移動用の杭台の間。
最後の一歩は空いている。
「届いてない!」
カナタが叫ぶ。
「届かせる!」
ガドが長い杭を光板へ置く。
短い杭を隣へ。
違う長さの二本が、最後の空白へ橋を作る。
人々が踏む。
杭台が下青流れへ向く。
「根、行き先あり!」
ナギが札へ書く。
「翼重区!」
『上風! ただし四拍ごと!』
テオの声。
「工房艇の手前!」
カナタが一歩。
光板の先へ、テオの三枚羽根が開く。
一拍。
雷羽。
二拍。
雨羽。
三拍。
破れた羽根から風を逃がす。
四拍。
工房艇が自分で踏み出す。
「翼、行き先あり!」
「炉重区!」
『横風! 圧を三つへ!』
マロが三角型を持って走る。
カナタの一歩は、炉の手前。
最後の空白へ、三角型を三つ並べる。
蒸気が角から別々に逃げる。
炉重区が横風へ向く。
「パン型で町が動く!」
「パンも焼ける!」
「今焼くな!」
「もう入れた!」
暮重区。
リネの歌鐘。
カナタは一歩を、次の鐘台の手前へ。
最後は音で渡す。
一人が鳴らし。
隣が受け。
別の家が次へ。
暮重区の吊索が、同じ拍子ではなく順番に張る。
「暮らし、行き先あり!」
仮工区。
リクサの誤差簿。
安全重場は一呼吸ごとに変わる。
カナタは道を一枚置く。
リクサが測る。
「半歩、右!」
「もう出した!」
「次稿!」
キリの旗が光る。
光板の上に新しい線を一層。
元の一歩を消さず、右へ半歩ぶん修正する。
「俺の道が曲がった!」
「続きを書いた!」
「勝手に!」
「渡したでしょ!」
カナタの口が止まる。
自分が置いた一歩。
次の人が、必要な形へ変える。
消えていない。
自分の足跡の上に、別の足跡が重なる。
「……もう一枚!」
「どこへ?」
「聞いてから!」
言い直したあと、カナタは右足を一度戻した。相手が踏む場所へ、自分の爪先を出さない位置まで。
道を作る前に「どこへ」と聞く。答えを聞いたあとも、一歩手前で止める。頭で覚えただけではなく、身体の順番が変わり始めていた。
ナギが笑う。
第一歩号。
原図復元で標準船へ戻りかけ、今は半分だけ銀色。
三路舵は一枚になり。
響路士席は足場だけ。
現標板は白紙。
「船の行き先!」
カナタが叫ぶ。
「修理床!」とルゥ。
「連鐘が届く場所!」とナギ。
「ヒトカタの横」とザンバ。
「三つ!」
「船は一つ!」
「今の優先!」
ルゥ。
「ナギの場所を戻す!」
カナタは即座に白旗を突いた。
「第一歩号、響路台の手前!」
「船の中!」
一歩分の光板が甲板へ生まれる。
椅子そのものはない。
ナギがトマリギ島の青板を置く。
ルゥが三番港の音板を脚へ。
ザンバが灰旗の石突を背にする。
三人が、最後の一歩を組む。
響路台が戻った。
以前と同じ形ではない。
座面は青板。
背は音板。
片脚だけ灰色。
「格好悪い!」
カナタが言う。
「船長が言う?」
「格好いい格好悪さ!」
ナギが座る。
小鐘を五回。
「第一歩号、四人。返事あり」
ヒトカタが五歩目を踏む。