第89話 第九章「一歩手前の道」前編

――使用終了。

銀紙が震えた。

『完成品は、終了しない』

「使う者が決める」

『原図は永続』

「記録としてな」

『命令』

「終わりだ」

オルドは旗竿を、最後の一行へ突き立てた。

ザンバが灰旗を振る。

「標術――《岐点》

閉じた設計図の中で、二つの道が分かれる。

一つ。

保管庫へ。

十一年前の図。

 事故後の補完。

 ヒトカタが生まれた経緯。

消さない。

もう一つ。

天衡機へ続く命令線。

《使用終了》の札で止まる。

ヒトカタの体に、細い割れ目が入った。

頭から胸へ。

閉じた図が二枚に開く。

中には、何もない。

完成という言葉だけで立っていた獣。

『次の指示』

声が弱くなる。

「ない」

オルドが答える。

『修正対象』

「保管対象だ」

『原図へ』

「原図庫へ」

最後の言葉が変わった。

ヒトカタは足を止める。

最後の殻が閉じる音は、四つではなく一つだった。

命令線を失った獣は、次に平らな面を探さない。十二枚の銀紙の縁へ身を縮め、白銀の薄殻を一片だけ残した。冬眠前の殻獣が、巣の支えへ残す楔に似ていた。

標災が消えたからといって、個体の生態まで無かったことにはならない。原図庫の職人は銀紙と殻片を別々の袋へ入れた。

一体の獣から、十二枚の銀紙へほどけた。

紙は別々の方向へ飛ぼうとする。

ナギが連鐘を鳴らす。

「受け取り場所!」

原図庫の職人たちが返す。

『こちら!』

カナタが一歩分の光板を、原図庫の手前へ。

最後は職人たちが網を伸ばす。

銀紙を一枚ずつ受け取った。

「全部、残すのか」

カナタが訊く。

「失敗も記録だ」

オルドは答えた。

「次に同じ獣を作らぬための」

「名前はヒトカタ!」

「そこも書くのか」とルゥ。

「顔に書いてあった!」

「正式記録には由来不明とする」とオルド。

「俺がつけた!」

「ザンバよ」とルゥ。

「俺たちが!」

「共同?」

「じゃあ残せ!」

キリが五十四枚目の端へ、小さく書いた。

――標災《ヒトカタ》。命名、だいたい第一歩号。

「だいたい!?」

「今の記録」

ヒトカタは消えた。

町は助かっていない。

星屑帯が、すぐ外まで来ていた。

銀色の石が都市の外周へ当たる。

一つ。

吊り橋が折れる。

二つ。

水路の蓋が飛ぶ。

三つ目を、第一歩号の鍋蓋が受け止めた。

がん――。

「翼が守った!」

「今のは認める!」

ルゥが叫ぶ。

「四つ目を動かす!」

天衡機の空輪。

五十四枚目。

キリの《次稿》

町が、自分の続きを決める番だった。

天衡機の三枚は、すでに働いていた。

《支点旗》

今の町を、今ある杭と橋へ支える。

《解錠旗》

逆さ銀樹から、都市を離す。

《航向旗》

連鐘と観測者の返事から、進める重場を探す。

三枚だけでは、足りない。

町は動くたび変わる。

支点が変わり。

 外す鎖が変わり。

 安全な方向も変わる。

一度決めた図を、次の呼吸へ渡すもの。

四つ目。

キリは灰青色の旗を、空輪へ近づけた。

「私が入る」

「旗だけだな!」

カナタが確かめる。

「旗だけ」

オルドも同じ言葉を繰り返した。

「人は入れるな」

「分かってる」

キリの返事は早い。

早すぎた。

ルゥが目を細める。

「本当に?」

「母さんと同じにしないで」

「同じにしたくないから聞いてる」

「私は戻る」

「いつ?」

「町が安全になったら」

「それ、終わりが決まってない」

キリは旗を握り直す。

「じゃあ、どうするの」

「使って、抜く」

ルゥは五十四枚目を持ち上げた。

「旗で四つ目を起こす。でも、動き方は七つの返事へ写す」

「私の標術を、町へ?」

「同じ力にするんじゃない。作業を分ける」

根重区は支点の次稿。

翼重区は風向の次稿。

炉重区は圧の次稿。

暮重区は人の現在地。

仮工区は変わる誤差。

第一歩号は外から見る町の位置。

連標網は、次の呼吸の返事。

「七つが続けるなら、私の旗を抜ける」

キリは少し考えた。

「途中で誰かが返さなかったら?」

ナギが答える。

「返事なしも書く」

「町が止まる?」

「止める場所を決められる」

ザンバ。

「誰か一人が、全部を背負わなくていい」

オルドが言った。

キリは祖父を見る。

十一年前、その言葉を娘へ言えなかった人。

「今さら」

「ああ」

「遅い」

「ああ」

「でも聞いた」

「返事は」

「保留」

オルドは小さく頷いた。

キリは旗を四つ目の輪へ差し込む。

「標術――《次稿》!」

空輪が回る。

閉じない。

輪の一部が、斜めねじに合わせて開いたまま動く。

五十四枚目の七本線が光る。

「根!」

ナギ。

『支点、下青流れへ!』

ガドの杭が鳴る。

「翼!」

『上風、四拍ごと!』

テオ。

「炉!」

『横風、三方向!』

マロ。

「暮らし!」

リネの歌鐘。

人々の現在地が一音ずつ渡る。

「仮工区!」

『現在重、四百五十一!』

リクサ。

「増えすぎ!」

『今は四百五十二!』

「書き続けて!」

「第一歩号!」

カナタが船腹を叩く。

「外から見た町、右へ半歩! 下へ一歩! 星屑いっぱい!」

「単位!」とルゥ。

「船一隻ぶん!」

「最初からそう言って!」

「連標網!」

アカリの声。

『次の呼吸、逆雨が一度弱まる!』

三番港を通り、雨風路の観測が届く。

「航向、今の青流れへ!」

ルゥが三枚目の旗を回す。

ミナモが動く。

一つの塊ではない。

根重区が先に下へ。

翼重区が半呼吸遅れて上へ。

炉重区が横風を受け。

暮重区は歌鐘の順に吊索を緩める。

町が、柔らかく曲がった。

「都市が曲がる!」

カナタの目が輝く。

「壊れてるんじゃないよね!?」

「今は曲げてる!」

キリの額に汗が浮かぶ。

次稿の旗から、七本の線が腕へ入っている。

自分の力で全部を読もうとしている。

「キリ、抜いて!」

ルゥが叫ぶ。

「まだ!」

「七つは動いてる!」

「最後の方向が!」

「町が答えてる!」

「私が見ないと!」

「それ、オルドと同じ!」

キリの手が止まる。

自分がいなければ続かない機巧。

それは、次の手へ渡していない。

旗を抜こうとする。

空輪が強く引く。

今度は機関が、キリを正しい部品として固定しようとした。

「抜けない!」

オルドが駆け寄る。

銀指で旗竿を掴む。

「手を放せ」

「町が!」

「町は返している」

「途中で変わったら!」

「次の稿を、次の者が書く」

「誰が!」

オルドは連鐘を見る。

七つの場所。

「今いる者だ」

キリの手へ、自分の右手を重ねる。

十一年前とは逆。

娘を機関へ押し込むのではない。

孫を引き戻す。

「抜け!」

キリが両足で台座を蹴る。

ルゥが銀糸で旗と手をつなぎ。

ザンバが、機関の命令とキリの意志の間へ岐点を置く。

カナタが一歩分の光板を、キリの背中へ。

「最後は自分で!」

「押してる!」

「一歩手前!」

「近すぎる!」

キリは笑いながら光板を蹴った。

旗が空輪から抜ける。

四つ目の輪は止まらない。

七本の現在稿が、順番に仕事を渡している。

「動いてる」

キリは自分の旗を抱えた。

「私が抜けても」

「それが四つ目」

ルゥが答える。

ミナモは青流れへ入る。

しかし、流れの先には星屑帯の壁。

銀色の岩が無数に回っている。

都市が柔らかく曲がっても、通れる隙間はない。

「道!」

人々がカナタを見る。

カナタは白旗を構えた。

星屑帯の向こう。

逆さ銀樹の外周に、太い銀枝が一本ある。

今の町を支えられる新しい重場。

間には、船十隻ぶんの空白。

「俺が全部つなぐ!」

言いかけて止まる。

キリ。

 ガド。

 テオ。

 リネ。

 マロ。

 リクサ。

今の町。

「どこまで作ればいい!」

初めて訊いた。

キリは星屑帯を測る。

「最後の一歩手前!」

「それ、俺の得意!」

「今覚えたでしょ!」

カナタは白旗を空へ突く。

「標術――《未踏路》!」

一枚目。

星屑の間。

二枚目。

回る岩の手前。

三枚目。

銀枝の、一歩手前。

そこで止める。

「届いてない!」

町の人々が声を上げる。

「届かせろ!」

カナタが叫び返す。

ガドの違う杭が、光板の端へ伸びる。

テオの四枚羽根が、星屑を一拍ずつ逸らす。

マロの三角型が、流れを三つへ分ける。

リネの歌鐘が、作業の拍子を隣へ渡す。

リクサが現在重を読み続ける。

キリの《次稿》が、今できた形を一層ずつ記す。

最後に、ミナモの銀枝職人たちが、新しい短い枝を伸ばした。

一本ではない。

長さも角度も違う枝を、必要な場所ごとに。

光板の先へ。

一歩。

銀枝へ届く。

ミナモ自身が、最後の一歩を踏んだ。

大きな音はしなかった。

何百もの小さな継ぎ目が、順番に鳴る。

からん。

 きん。

 ごん。

 ちりん。

町じゅうの返事。

天衡機が安定する。

落重期の反転が、都市を通り過ぎた。

ミナモは散らなかった。

十一年前へも戻らなかった。

今日の続きへ、着いた。

朝が来た。

ミナモでは、朝の重さが四方向に分かれていた。

根重区では、床へ。

翼重区では、壁へ。

炉重区では、斜めへ。

暮重区では、家ごとに少しずつ違う。