第90話 第九章「一歩手前の道」後編

以前なら、四つ鐘で一つへ戻していた。

今朝、鐘は鳴らなかった。

原図庫の端では、ヒトカタの殻片が低い一音を返していた。

近くの子どもが、壊れた回転玩具の脚へそっと当てる。殻片は玩具を昔の形へ戻そうとはせず、欠けた一指ぶんだけを仮に支えた。復元命令が途切れた今、平らな面へ寄る性質だけが小さく残っている。

「直った?」と子ども。

「今は支えてる」とキリ。

利用できるから安全とも、獣だったから全部捨てるとも決めない。殻片には《観察中》の札がついた。

代わりに、連鐘が一度ずつ問いかける。

「今、ここ?」

根。

『いる』

翼。

『飛んでる』

炉。

『焦げてる』

暮らし。

『寝てる!』

「返事あり」

ナギが札へ書く。

第一歩号は、外周の新しい銀枝へ横向きに引っかかっていた。

船首は壁。

 船尾は床。

 帆柱だけが天井。

「着港!」

カナタが腕を上げる。

「引っかかってる!」

ルゥは船底から銀板を外す。

原図復元で標準化された部分。

取り戻した古木と青板と黒鉄を、一枚ずつ戻す。

「前と同じ第一歩号になる?」

ナギが訊く。

「ならない」

「何で!」

カナタが船底へ顔を突っ込む。

「銀板も使うから」

「原図の部品だぞ!」

「今、丈夫」

「旅の傷が消える!」

「消さない」

ルゥは滑らかな銀板を、傷のある古木の横へつける。

境目へ、斜めねじの写し。

「戻された跡も、来た道」

カナタは銀板を見る。

好きではない。

けれど、町が十一年前へ戻りかけた日の傷だ。

「じゃあ、残す」

「嫌じゃないの?」

「嫌だ!」

「残す?」

「残す!」

「今の返事」

ルゥは銀鋲を打つ。

第一歩号の船体に、白銀の細い一列が増えた。

町では、人々が自分の家を探していた。

原図復元で消え。

 次稿で戻り。

 落重期で位置を変えた家々。

同じ場所にはない。

北水路区の子どもは、ひびのある窓を抱えて歩く。

「家、どこ?」

カナタが訊く。

「今、探してる」

「作る!」

「待って」

子どもは周囲を見る。

新しい銀枝。

 朝の光。

 ひびの窓へ、小さな虹が出る方向。

「あそこ」

壁と床の間を指す。

「前と違うぞ」

「虹が長い」

「じゃあ、そこ!」

カナタは一歩分の光板を手前へ置く。

子どもが最後を踏み、自分の窓を立てる。

家の最初の一枚。

今度は原図機関が勝手に壁を増やさない。

近くの職人が訊く。

「次は?」

子どもは考える。

「昼になってから」

途中で止める。

それも今の選択。

ただし、町じゅうが好きなところで止まれるわけではなかった。

暮重区の水管は、昼までに一本だけ閉じなければ下の家へ漏れる。根重区の避難橋は、次の重場反転までに人の重さを受けられるところまで仕上げる。止める自由には、止めたあとを引き受ける仕事がついていた。

マロは新しい家の低い棚へ、三角型を三つ並べていた。

一つはパン。

 一つは蒸気抜き。

 一つは、ひびの窓を仮に支える楔。

「それ、焼き型じゃない使い方」と見習いの子が言う。

マロの耳たぶが赤くなる。自分の型が別の用途へ使われるのは嬉しい。けれど、パンを作る自分が要らなくなったようにも見える。

「角の厚さが違う。窓へ使うなら、煤を落としてから」

止める代わりに、使う条件を教えた。

高い棚へ四つ目を置こうとして、古い肩が止まる。

「次の鐘まで持つ」

言いかけたところで、本人が口を閉じた。

「上だけ、頼む」

見習いの子が受け取る。マロは役目を失わず、腕も壊さなかった。

その隣では、ガドが歌鐘の台座鍵を握っていた。

「暮重区の中央へ置けば、全部の家に聞こえる」

制度上は正しい場所だった。

リネは、冷えると痛む手の甲を反対の掌で包む。背が伸びて合わなくなった上着の肩を直し、急に公的な声になった。

「全戸へ同一音を配布することは、避難効率上――」

「怖い?」

ガドが言葉を途中で止める。

妹の望みを代わりに決めないため、出口側の足へかけていた体重を戻した。小鍵を二度鳴らし、三度目を手で止める。

「どこへ置きたい」

リネは近くの子どもの指の形を一度まねてから、自分の指で暮重区の端を示した。

「家ごとに返す音が違う場所。全部へ聞かせるんじゃなく、次の家が受け取れるところ」

「中央じゃない」

「うん」

「僕は台を作る。場所はリネが札へ書いて」

空白の札を、ガドは初めて自分で埋めなかった。

リクサは二人の足元へ水準管を置き、傾きを測る。報告帳には町の全重量が書かれていたのに、最後の欄だけ空いていた。

――測定者。

「誤差だから」と言いかける。

ナギが何も言わず待つ。

リクサは三つの重りを外し、自分の足元へ一つずつ置いた。左へ偏っていた体重が、中央へ戻る。

――リクサ。連続測定、六刻。片耳高音低下。次の一刻は交代。

「町の重さが増える」とカナタ。

「最初からいた重さを、やっと書いただけ」

冷静な一音のあと、親しいキリへ向ける笑いだけ二音になった。

完成広場には、回収した銀紙が並べられていた。

ヒトカタの十二枚。

オルドの事故後補完図。

エルナの設計冠。

五十三枚の失敗図。

五十四枚目の現在稿。

どれも別の棚。

「母さんの冠は?」

キリが訊く。

「原図庫の中央」

オルドが答える。

「鍵は?」

「つけない」

代わりに、冠を読むたび二人の名を札へ書く。記録を読む者と、現在地を呼ぶ者。どちらか一人が「簡単」と言い始めたら作業を止める。

エルナが恐怖を隠した言葉まで、次の人を働かせる美談にはしない。

「誰でも使う?」

「一人では使わせない」

冠の横へ、二つの札。

――記録を読む者。

――現在地を呼ぶ者。

「ナギの役?」

「響路士でなくてもよい」

「誰でも?」

「二人以上」

「じいちゃんにしては、雑」

「空けた」

キリは老人を見る。

「母さんの最後の言葉」

「覚えている」

「何て」

オルドは長く黙った。

今度は、空白を自分の答えで埋めないためではない。

自分が隠した言葉を、今いる相手へ返すため。

「『命令にしないで』」

キリの顔が動かない。

「それだけ?」

「そのあと、枝が折れた」

「十二年、消したの」

「ああ」

「謝る?」

「許されるためには言わん」

「じゃあ」

「隠した。すまなかった」

キリは返事をしない。

灰青色の旗を抱え、冠の棚へ五十四枚目を置く。

「許すかは、次の稿」

「保留か」

「今は」

オルドは頷いた。

返事なしを、拒絶と決めない。

待つ場所が一つ、棚の前へ残った。

落重期から、二十九日後。

銀枝都市ミナモには、入口が四つできた。

一つ目。

《完成品搬入口》

以前からある銀の門。

寸法が合い。

 用途が決まり。

 検査を通ったものだけが入れる。

二つ目。

《修理品搬入口》

壊れた場所と、残したい傷を書いてから入る。

三つ目。

《試作品搬入口》

爆発の可能性。

 落下の方向。

 試す人の名前。

分かる範囲だけ札へ書く。

四つ目。

看板は、まだなかった。

《未完成品搬入口》!」

カナタが銀板へ大きく書く。

「それだと、試作品と同じ」とキリ。

《何でも入口》!」

「完成品も入る」

《第一歩号入口》!」

「一隻専用にしない」

《よく分からないもの入口》

テオが言った。

キリが止まる。

「長い」

「でも合ってる」

ルゥも銀板を見る。

「用途も、完成度も、今は決められないもの」

「廃図じゃない」

マロが三角の焼き型を持ってくる。

「パンかもしれないし、圧抜きかもしれない」

「食べ物を機関へ入れないで」とルゥ。

「型!」

「中身がある!」

「焼けた!」

ガドは長さの違う杭を肩へ担ぎ。

リネは歌鐘の試作を腰へ下げ。

リクサは今朝だけで増えた誤差簿を十冊抱えている。

「全部、四つ目」

キリが言った。

銀板へ、正式な名を書く。

――《未定入口》

「地味!」

「今の名前」

「あとで変える?」

「必要なら」

看板を固定するねじは、一本だけ最後まで締めなかった。

次の名へ替えられるように。

第一歩号は、当然のように四つ目へ並んだ。

「完成してるぞ!」

カナタが抗議する。

受付の女は船を見る。

カゲノハ村の古木。

 トマリギ島の青板。

 三脚群島の三路舵。

 ミナモの銀板。

 船首の鍋蓋。

ナギの響路士席。

「用途」

「世界の果てへ行く!」

「現在の行き先」

「星喰いの夜海!」

「航路」

「これから聞く!」

「完成度」

「全部飛ぶ!」

受付の女が銀帳面へ書く。

――未定。

「どこが!」

「今の返事」

首へ札をかけられる。

《外来未定航路艇》

「物が増えた!」

「前は未分類だった」とルゥ。

「進歩!」

第一歩号の横。

テオの工房艇も、未定入口へ並ぶ。

羽根は四枚に増えていた。

一枚目、雷。

 二枚目、雨。

 三枚目、破れた風逃がし。

 四枚目、ヒトカタの銀腕を曲げた試作。

「飛ぶのか?」

カナタが訊く。

「三拍!」

「四枚なのに!」

「四拍目で落ちる!」

「飛ばない!」