第97話 第一章「暗い風路で五つ鳴る」前編
道がないなら、最初の一歩になればいい。
誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。
三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。
四歩目を、自分より先へ行く誰かへ渡せば、まだ会っていない手が続きを作れる。
では、五歩目はどこへ置けばいい。
前でも、後ろでもない。
急いで次を踏む前に、足元へ置く一歩。
今、ここにいる者を数え、返事のない者を、すぐに消えたことにしないための一歩。
カナタは、立ち止まる者を、前へ進めない者だと思っていた。
銀枝都市ミナモを出て、十六日目。
暗い風路へ入って、九日目。
飛空艇《第一歩号》は、順調に音を釣っていた。
「もう少し右!」
九日追った五打音の発信源を確かめるため、カナタは音の来た方向へ縄を投げていた。
船首に腹ばいになったカナタが、長い縄を引く。
冷えた甲板へ右膝をついた瞬間だけ、少年の動きが半拍遅れた。落下と着地を繰り返した古傷である。本人は痛みとは呼ばず、「夜の助走」と呼んでいる。
餌にした干し茸は冷たいのに、投げる前には一度だけ息を吹きかけた。熱くても冷たくてもそうする。誰かへ渡す食べ物は、まず自分の息が届く距離にあると確かめたいらしい。
白旗は中央ではなく端をつまんでいた。同じ五打音を九日追っても正体が分からないことへ、勢いより先に迷いが出ている。
縄の先には干し茸。
その下には、船首の二枚鍋蓋――正式名称《可変重継舵》、カナタの中では《第四翼》――が口を開けている。
周囲は夜だった。
星喰いの夜海へ続く暗い風路。
上も下もなく、風だけが黒い帯になって流れている。灯を強くすれば風路の外へ弾かれ、帆を畳めば今いる場所さえ分からなくなる。
第一歩号の灯りは、甲板の縁へ置いた小さな苔灯り四つだけ。
その中央。
響路士席へ座ったナギが、青い帳面を膝に開いていた。
右耳には欠けた青銅鈴。左耳には、強すぎる音を削る薄い耳栓。呼び声は右手で送り、返った音は左手で書く。問いと答えを同じ手へ持たないという、ナギだけの規則だった。
重要な問いの前には、舌先で前歯の裏を五度押す。一、二、三、四、五。暗い風路の音は五つより多く重なっていたが、金属の味はまだしない。偏頭痛が来る前の、短い猶予である。
椅子の脚には、初めて聞いた声の場所で拾う小石袋も結ばれていた。名を決める前に音の形だけ残すための石だ。
「右じゃない」
「今、右から鳴った!」
「船が回ってる」
「じゃあ船の右!」
「船の右も回ってる」
「音が逃げる!」
「音は逃げない」
「じゃあ、なんで釣れない!」
「音だから」
ナギは腰の鈴を一度鳴らした。
ちりん。
白い旗の開いた輪が淡く光る。
「標術――《響路》」
細い波が暗い風へ入る。
一呼吸。
二呼吸。
返事はない。
カナタは縄をさらに伸ばした。
「干し茸が足りない!」
「音は食べない」
「何かが食べれば、そいつが音の場所を教える!」
「遠回り」
「道がない!」
「聞く道はある」
ナギは帳面の一行を指でなぞる。
――暗い風路、九日目。
――五つの打音、四十三呼吸ごと。
――強さ、毎回違う。
――同じ場所からの返答か、未確認。
「五つ、ってことは今ここだろ!」
カナタが言った。
「トマリギ島で決めた合図と同じ!」
「同じ合図を使う人は、ほかにもいる」
「じゃあ仲間だ!」
「会ってから」
「返事したら仲間!」
「誰への返事か分からない」
操舵輪を握るルゥが、肩越しに叫ぶ。
「二人とも、船首で議論しないで! 暗い風が鍋蓋へ偏ってる!」
「第四翼!」
「舵!」
「今日は釣り具!」
「用途を増やすな!」
船尾の日除けでは、ザンバが椅子へ座っていた。
灰色の旗には、黒い点から四本の線。
四本目の先だけが空白へ開いている。
椅子は帆柱へ背を向けず、逃げ道を一つ残す角度へ半指だけずらしてある。黒い機巧の右腕は船腹の振動を拾い、生身の左手は椅子の縁へ置かれていた。切る、固定する、壊す仕事は右。受け取る仕事だけは左と決めている。
暗い風路へ入ってから、機巧腕の接続部には幻肢痛が続いていた。痛いほどザンバは動かなくなる。今も「風向きのせいだ」と言わないぶん、まだ余裕があるらしい。
「三度言った」
男は片目を閉じたまま言う。
「縄を放せ」
「俺には?」
「主にお前へ」
「聞いてない!」
「知っている」
そのとき。
縄が張った。
「かかったぁぁぁ!」
カナタが両足を甲板へ踏ん張る。
暗闇の中で、青白い光が跳ねた。
人の頭ほどの小さな星。
尾のような銀糸を引き、黒い風を泳いでいる。
干し茸をくわえていた。
「星!」
「魚」
ザンバが即座に訂正した。
「星灯魚だ」
「星みたいな魚なら、半分星!」
「港の星錨に使う魚」とナギ。
「知ってるのか!」
「さっき、向こうから三回鳴った」
「教えろ!」
「聞いてなかった」
「今、聞いた!」
「遅い」
星灯魚の尾をよく見ると、銀糸の先に細い鎖がつながっている。
暗い風の奥へ。
鎖がもう一度張った。
第一歩号の船首が、がくんと沈む。
「重い!」
「放して!」
「せっかく釣ったのに!」
「向こうも同じこと思ってる!」
夜の向こうから、別の声が飛んできた。
「放してぇぇぇーっ!」
小さな舟が、猛烈な速度で近づいてくる。
黒い船体。
畳んだ帆。
船首には星灯魚の鎖を巻く大きな輪。
輪へ両足を踏ん張り、一人の少女が鎖を引いていた。
十五歳ほど。
濃い藍色の髪を首の後ろで短く結び、片耳に黒い輪の耳飾り。
背中の旗も夜色。
中央に五つの白い点が浮かんでいる。
点は星座にならず、真ん中を空けてばらばらに並んでいた。
少女は右目でホシマルを、左目で迫る第一歩号を追った。
黒い耳飾りへ、指が五度触れる。一、二、三、四、五。五度目だけ、鎖を握る手がわずかに遅れた。
「私のホシマル!」
「俺が釣った!」
「私が育てた!」
「名前はホシマルなのか!」
「今、言った!」
「魚なのに!」
「そっちの船首は鍋なのに翼って呼んでるでしょ!」
「分かってる人だ!」
「褒めてない!」
星灯魚ホシマルは、二隻の間で干し茸を食べ続けていた。
鎖が右へ。
縄が左へ。
ホシマルが中央で回る。
右の頬袋だけが、干し茸で丸く膨らんでいた。知らない声が近づくと、口から泡を三つ吐く。人の言葉を理解しているのではなく、音の高低と餌の回数を別々に覚えているらしい。
五つの打音では四つ目に尾を振る。今も、こん、こん、こん、こん、のあとで青白い尾が一度だけ強く光った。二枚の鍋蓋へ映る自分の光には、求愛するように鼻先を寄せる。
「第四翼が好かれた!」
「反射に寄ってるだけ!」
「機巧にも人気がある!」
「魚に理由を足さないで!」
ナギの鈴が鳴った。
ちりん。
続いて、暗い風のさらに奥。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
先ほどより低い。
近づいてくる小舟とは別の場所。
「二つある」
ナギが立ち上がった。
「何が!」
「返事。あの子の船と、その向こう」
「両方取る!」
「取らない!」
ルゥと少女の声が重なる。
ザンバだけが、別の方向を見た。
「夜が来る」
「もう夜だぞ!」
「もっと大きい夜だ」
遠くの星が一つ、消えた。
瞬きではない。
青白い光が、下から持ち上がった黒い何かへ呑まれる。
二つ目。
三つ目。
星々の間を、山より大きな影が泳いでいた。
長い背。
雲海ほどの尾。
体は夜より黒く、その内側に呑み込んだ星だけが透けて見える。
体内の光は星座を作らず、空腹なときほどばらばらに速く動く。巨大な尾が夜潮を一度、二度、三度、四度、五度と打った。休眠へ入る前の周期に似ているが、今は腹の光が多すぎる。
星喰いネブラは船を憎んで追うのではない。数日前にそこにあった星熱を、遅い体で追い続ける。進路変更は尾から始まり、頭へ届くまで長い。その遅さが、人間には執念深さに見える。
弱い無灯の打音は避け、強い星熱へ口縁を向ける。夜海の生き物としての摂食だった。だからこそ、人の都合では止まらない。
巨大な鯨。
口を開くと、暗い風路の半分が消えた。
「ネブラ……!」
藍髪の少女の顔から血の気が引く。
「星喰いが、もうここまで!」
ホシマルが暴れた。
鎖の向こうへ帰ろうとする。
少女の小舟。
第一歩号。
二隻が一緒に引かれる。
暗闇の奥で、無数の灯が一斉に動いた。
船だった。
一隻や十隻ではない。
何百。
何千。
小舟。
家を載せた丸船。
畑を引く長船。
塔を立てた旗艦。
それらが一本の巨大な輪となり、中央の白金色の星を回っている。
船と船は金色の灯索でつながれ、人々が町の道のように渡っていた。