第99話 第二章「止まれない船団」前編
星航船団ノクティルには、地面がなかった。
代わりに、道が動いていた。
数百隻の大型船を骨組みにし、その間へ回転橋と灯索を渡して町を作っている。
橋は常に流れ。
船も常に進み。
店の床さえ、ゆっくり回っていた。
立ち止まって品物を見ると、入口から出口へ運ばれる。
「焼き星芋、一つ!」
カナタが流れる屋台へ手を伸ばす。
「二枝銭!」
店主が芋を投げる。
カナタが受け取る。
代金を投げ返す。
銭は後ろの客の額へ当たった。
「すまん!」
「止まって謝れ!」
「止まるなって書いてある!」
「そこだけ守るな!」
ルゥが襟を掴み、脇の整備床へ引き上げる。
整備床も、微かに前へ進んでいた。
ナギは響路士席を背負っている。
「なんで椅子まで」
リラが訊いた。
「第一歩号の現在地」
「船に置けばいい」
「船が停泊庫で動かされる」
「椅子が人?」
「私の場所」
「歩けるのに?」
「戻る場所」
椅子の脚には、トマリギ島との対鈴。
背板には、カゲノハ村の現標札。
座面の裏に、三番港とミナモの小さな響板。
船へ乗ってから増えた、ナギの仕事場だった。
「持ち歩く帰る場所?」
リラが言う。
「帰る場所は持ち歩かない」
「じゃあ」
「今いる場所」
ナギは椅子を床へ下ろした。
回転床が椅子だけ先へ運ぶ。
「待って!」
「場所が逃げた」とカナタ。
「椅子!」
ナギが追う。
「今いる場所、動いてる!」
「ノクティルでは普通」とリラ。
「普通が速い!」
カナタは光板を一枚出し、椅子の前へ置いた。
椅子が止まる。
後ろから来た荷車がカナタへぶつかる。
「痛っ!」
「止まらないで!」
「今のは道が悪い!」
「船長が悪い」と三人。
町のあちこちに、星形の標柱が立っていた。
すべて同じ方向。
船団中央の白金星とは反対。
遠い夜に浮かぶ、薄青い星。
「次の泊星《アウラ》」
リラが言う。
「ノクティルは明朝、あそこへ渡る」
「引っ越し?」
「星渡り」
「今の星は?」
「ネブラに食べられる」
声に驚きも悲しみもない。
決められた天気のように言う。
町の人々も同じだった。
家財を箱へ詰め。
帆を縫い。
炉へ星炭を入れ。
次の星だけを見る。
ナギが一人の店主へ訊く。
「今、どこ?」
「アウラへの途中」
「まだ出てない」
「出る準備中」
「今いる船は?」
「第五市場船」
「名前は?」
店主が口を止める。
「忙しい。次へ行ってくれ」
品物を渡し、床に運ばれていく。
次に、寝台を押す少年。
十二歳ほど。
背中の旗には、目を閉じた鳥。
少年は寝台を押しながら、三十二人の名を小声の歌にしていた。順番を忘れないためだ。片耳は高い音を拾いにくく、相手の口元と寝台の低い振動で補っている。
札の結び目は必ず三重。二重で足りると教えられても、三つ目を結ぶ。自分の確認漏れで眠る人が名簿から落ちることを、十二歳の体で恐れている。
眠る前には自分の札まで枕へ結ぶため、朝になると毎回、髪か寝台のどちらかが一緒に引かれた。
「今、どこ?」
「第七寝台船」
「名前は?」
「ルク」
「何人運んでる?」
「三十二」
「全員、返事できる?」
「寝てる人は無理」
「数える?」
「寝台札」
「札が落ちたら?」
ルクは寝台の一つを見る。
金色の札が半分外れている。
「落ちないように結ぶ」
「今、落ちかけてる」
「えっ」
ナギが指さす。
ルクは慌てて結び直した。
「見えてた?」
「音が二つ。寝台と札が別の場所にいた」
「響路士?」
「うん」
「灯拾いみたい」
リラの肩が動く。
「違う」
「何が?」とナギ。
「灯拾いは、消えた灯を探す」
「消えたって決めてから?」
リラは答えない。
ルクがナギの椅子を見る。
「四人なのに、返事は五つ?」
「船も数える」
「ホシマルも!」とカナタ。
「魚は別」
「鍋蓋も!」
「道具」
「俺の仲間だけ減らされる!」
ナギは現標板を開く。
――カナタ。船長。
――ルゥ。航路機巧師。
――ザンバ。監視役。
――ナギ。響路士。
その下。
――第一歩号。船。
「五つ」
ルクが頷く。
「船団は何番目?」
「何が?」
「ノクティル自身の札」
リラが足を止めた。
床が彼女だけ先へ運ぶ。
「船団は、船の集まり」
「全体の返事は?」
「灯主がする」
「一人で?」
「そう」
「七千人ぶん?」
「灯主だから」
ナギは青い帳面へ書く。
――ノクティル。
――全体の返事、灯主一人。
――個別点呼、札。
――返事なしの扱い、未確認。
「それ、見せるの?」
リラが訊く。
「灯主へ」
「怒る」
「返事」
「怒るのも?」
「今の」
カナタが笑う。
「ナギは全部聞くぞ!」
「船長の話は途中で止める」とルゥ。
「なんで!」
「同じ話を四回するから」
「周回ごと!」
船団中央へ近づくほど、道は速くなった。
旗艦の周囲を、何本もの回転橋が輪になって走る。
リラが一番速い橋へ飛び乗る。
カナタ。
ルゥ。
ナギは椅子を抱えたまま跳ぶ。
ザンバは橋へ足を置いただけ。
道のほうが運ぶ。
「楽してる!」
「道が働いている」
「俺も!」
カナタが立ち止まる。
後ろから荷車に轢かれた。
「痛っ!」
「学ばない!」
「止まる練習!」
「場所を選んで!」
旗艦《先星号》は、町の中心を走る巨大船だった。
細く長い船首。
夜を切る刃の形。
帆柱の頂には金色の旗。
前を走る一つ星。
その後ろへ、無数の小さな光が続く紋章。
甲板に、一人の女が立っていた。
四十歳ほど。
長い黒髪を一本に結び、金の外套。
左手には古い火傷。
右手で金旗を握っている。
金旗を高く掲げる肩が、ときおりわずかに落ちる。白い星図の端には、自分で足したらしい炭線が引かれていた。
怒ると金旗の握り位置が一指ぶん上がるらしい。今は、まだ元の位置だった。
「灯主マーレ」
リラが頭を下げた。
「外来船を連れてきました」
「見れば分かる」
マーレは停泊庫の方向を見る。
黒い帆布がまだ舞っている。
「星灯魚を釣り、寝台船を巻き、停止看板を割り、停泊船を二十六隻組み替えた船だ」
「噂になるの早くない?」
ルゥが顔を覆う。
「船団は止まらない。話も止まらない」
マーレの視線が白旗へ。
「空白旗の《未踏路士》カナタ。航路機巧師ルゥ。灰旗のザンバ」
一度、ナギで止まる。
「響路士ナギ」
「知ってる?」
「ミナモから伝星が届いた」
「俺は有名?」
「主に壊した港の数で」とザンバ。
「またそれ!」
マーレの口元が、ほんの少し動いた。
すぐ消える。
愛想笑いに見えたものは、三呼吸後に本当の笑いへ変わりかけた。けれど停泊庫の帆布を見た瞬間、口元より先に金旗が一指上がる。
ナギは理由を決めず、その変化だけを青い帳面へ記した。
「力を借りたい」
「いいぞ!」
カナタが即答する。
ルゥが後頭部を叩いた。
「話を聞いて!」
「困ってるだろ!」
「条件くらい!」
「条件は?」
「順番が逆!」
ナギは響路士席を甲板へ置く。
「その前に、返事」
マーレを見る。
「何だ」
「外周の暗舟から、生きた返事がある」
金旗を握る手が、わずかに強くなった。
「その話は終わった」
マーレは言った。
「返事が来た」とナギ。
「七日前、灯索が切れた船は星熱を失った」
「問いを変えた。音も変わった」
「夜潮は古い打音を折り返す」
「同じ問いを返した」
「残響が似ただけだ」
「もう一度、違う問いを送る」
ナギは鈴へ手を伸ばす。
マーレが金旗を横へ振った。
古い脱臼の肩が一度落ちた。それでも旗を持ち替えず、両手で別々の仕事を続ける。右で《追星》の角度を変え、左で出航札をめくる。判断を一人で抱えた者の速さだった。
マーレが安全確認を口にしなくなるとき、判断はもう一人ぶん狭くなっている。今も出航札をめくっただけで、周囲の名を呼ばなかった。
「《追星》」
甲板の標柱が一斉に薄青いアウラを指す。
ナギの響路まで前へ引かれた。
鈴の音が届く前に、船団の炉音へ呑まれる。
「今は星渡りの準備を優先する」
「返事を聞いてからでも」
「明朝までだ」
マーレは夜の遠くを示す。
薄青い泊星アウラ。
白金色の今の泊星《リュミナ》から三百枝里。
「二日後の予定だったが、ネブラが速い。明朝、全船で渡る」
「今の星は?」とカナタ。
「食われる」
「助けない?」
「重さを溜めた泊星は、星喰いの糧になる」
「友達にできる!」
「最初にそれ?」とリラ。
「食われたら?」とルゥ。
「腹の中から返してもらう!」
「先に船団を助ける!」
マーレは星図を広げた。
黒い布。
白い点が何百。
泊星。
流星。
ネブラの古い通り道。
船団が渡ってきた航路。
中央からアウラへ、金色の針。
「通常なら三日。未踏路があれば一夜」
「一歩ずつ作る!」
「最後の一歩は船団に踏ませる」とルゥ。
「分かってる!」
「昨日、暗い風路の出口まで九枚出した」
「暗かった!」
「今も夜!」
「違う夜!」
マーレは続ける。
「成功すれば、第一歩号の修理。食料。空の岸へ至る星図を渡す」
「空の岸?」
カナタの目がさらに光る。
「世界の空が折れる場所と聞く。確かな地図ではない」