第100話 第二章「止まれない船団」後編
「世界の果て!」
「かもしれない」とルゥ。
「行く!」
「だから、かもしれない!」
リラが星図の端へ、切れた細縄を置いた。
「その前に暗舟」
「リラ」
マーレの声が硬くなる。
「今朝、五つ鳴った」
「灯索の夜鳴りだ」
「響路士も聞いた」
「外来者の判断だ」
「今いる人の返事!」
リラの黒い耳飾りが震える。
「七年前と同じ」
リラの指が黒い耳飾りを五度触る。靴紐の片方が、いつの間にか緩んでいた。兄の話をすると、結び直したはずの紐までほどける。
喉が一度鳴る。返事が残響なら、兄を二度失う。その恐怖が強いほど、リラは「兄さん」と呼ぶ声だけを大きくした。
マーレの顔から、僅かな柔らかさが消えた。
「お前の兄の船は、七年前に消えた」
「消えてない」
「星熱は二夜で尽きる」
「星のない場所で生きる人もいる」
「噂だ」
「無灯泊」
リラが言った。
ナギが顔を上げる。
「名前がある?」
「星を持たない船が、音と縄でつながって生きる場所。兄さんが小さいころ話してた」
「子どもの話だ」
「マーレも知ってる」
女は答えない。
沈黙が答えになった。
「知ってたの?」
「噂だけだ」
「七年前から?」
「無灯泊は遅い。泊星を持たず、ネブラの尾で星殻を拾う。ノクティルへ戻れる速度ではない」
「兄さんもいるかもしれない」
「生きている証にはならない」
「死んでる証にもならない!」
リラの拳が星図を叩く。
白い点が揺れた。
カナタはマーレを見る。
「迎えに戻ろう」
「今戻れば、アウラへ間に合わない」
「両方やる!」
「方法は」
「道を二本!」
「標力は」とルゥ。
「できるまで――」
言葉が途中で止まる。
天攫潮ではない。
三針峡でもない。
ネブラは、できるまで待たない。
カナタの右膝が、船首板の上でわずかに折れた。勢いの言葉を続ければ、痛みも時間も無視できる。けれど今は、暗舟と船団の両方へ人がいる。
白旗の端をつまみ直す。助ける才能があるからこそ、全部の最初の一歩を奪ってしまう自分を、初めて時間の側から見た。
カナタは星図を見る。
船団。
暗舟。
アウラ。
全部、本当にいる。
「今、何人いる」
ナギがマーレへ訊いた。
「ノクティルに?」
「うん」
「七千二百四十一」
「返事をした人?」
「乗船名簿」
「今も?」
「出航時点」
「停泊庫は?」
「修理員、百八。休養者、四十三」
「その人たちは七千に入ってる?」
「入っている」
「暗舟は?」
「入っていない」
「さっきまで灯索につながってた船は?」
マーレの声が止まる。
「切れた時点で外周名簿へ移す」
「外周名簿は、出航点呼に入る?」
「入らない」
「返事があっても?」
「船団を動かす境界が要る」
「境界から出たら、今いなくなる?」
「ノクティルにはいない」
ナギは帳面へ書く。
――返事あり。
――船団の外。
――名簿から外れる。
――存在は消えない。
マーレが眉を寄せる。
「何を書いた」
「今の答え」
「命令ではない」
「記録も」
「何のために」
「あとで、今を変えないため」
ミナモで、過去の設計記録が今の命令へ変わった。
ナギは同じにしない。
マーレの言葉も。
リラの返事も。
今聞こえた形で残す。
「一刻」
ルゥが言った。
「第一歩号を直しながら、暗舟の音路を調べる。一刻後、星渡りの接続試験」
「一刻で何が分かる」とマーレ。
「生きた返事が続くか。位置が変わるか。暗舟が一隻か、複数か」
「分からなければ」
「分からなかったと残す」
「迎えには行かない?」とリラ。
「行く」
カナタが言う。
「一刻で戻る!」
「根拠は?」
「七年より短い!」
「どこかで聞いた計算」とルゥ。
「一刻後に戻れなければ、星渡りを遅らせる判断が要る」
ザンバが初めて口を挟む。
「誰が決める」
「灯主が」とマーレ。
「一人で?」とカナタ。
「責任を持つ者が」
「返事を聞いてから決めろ」
ザンバは灰旗の黒い点へ触れた。
「分岐を見ずに一本を選べば、後ろの道を消す」
「お前に言われたくはない」
「だから言う」
マーレとザンバの視線がぶつかる。
どちらも、かつて一つの道へすべてを置いた人の目だった。
「一刻」
マーレは認めた。
「その間、第一歩号の修理と星渡りの準備を並行する。リラは同行を許可しない」
「行く」
「命令だ」
「兄さんの音」
「灯拾いは船団に要る」
「灯を拾うために行く!」
二人の声がぶつかる。
ナギはリラを見た。
「私は行く」
「響路士まで?」とマーレ。
「返事の場所を聞く」
「船団の連絡は」
「対鈴を置く」
響路士席から、トマリギ島の小さな対鈴を外す。
星図の横へ置く。
「返事が来たら、誰か鳴らして」
「誰か、で仕事を渡すな」とマーレ。
「決める」
ナギは周囲を見る。
寝台を押していた少年ルクが、橋の端にいる。
「ルク」
「僕?」
「五つ鳴ったら、五つ返す。違う回数なら、同じ回数を返す。時間と音を板へ書く」
「字、遅い」
「線でいい」
「寝台は?」
「交代できる人」
ルクは近くの女へ声をかけた。
女が寝台を受け取る。
「できる」
「役目、渡った」
ナギはマーレを見る。
「船団は、一人がいなくても返事できる」
マーレは何も言わない。
リラが小さく笑った。
「響路士って、面倒」
「灯拾いも」
「私のほうが速い」
「聞くのは私」
「見つけるのは私」
「二人で行けば早い!」
カナタが喜ぶ。
「競争じゃない!」
二人の声が重なった。
第一歩号の修理は、止まらない床の上で行われた。
「工具が逃げる!」
ルゥが銀鋲を床へ打つ。
「《継ぎ路》!」
銀鋲は危険度の低い順に右、高いものほど左へ髪に挿してある。怒るほど一本ずつ抜く癖があり、今は左側から三本が指の間にあった。
《継ぎ路》の反動で左手首が腫れ、親指が完全には閉じない。痛い日は髪を左手で結べず、金髪の片側だけがほどける。それでも工具箱を閉める前には、蓋を三度叩いた。閉じた。持った。次へ渡せる。
「自分の番ではない」
そう言って痛みを後回しにしたため、ドウマは返事の代わりに作業床へ椅子を一脚置いた。
工具箱と作業床を光糸でつなぐ。
金槌。
鋸。
銀枝。
全部が流れる床に逆らい、その場へ震えた。
「俺もつないで!」
カナタが作業床を三周して戻ってくる。
「自分で歩いて!」
「床が速い!」
「止まらないで!」
「修理なのに!」
停泊庫の整備長は、ドウマという老人だった。
背は低く、両腕だけが太い。
旗には、錆びた錨と折れた帆。
六十四歳。左足首の靱帯が緩く、傾く床では布を三重に巻く。白い帆布と白い札の境が見えにくいため、修理箇所の輪郭へ炭線を引いてから触る。
左利きだが、槌のような反復道具だけは右で扱う。左右の音が揃いすぎると、傷の違いを聞き落とすからだ。
紙や布の端を直角へ合わせるまで話を始められない。今も、流れる床の上で設計布の角を三度直し、四度目でようやくカナタを見た。
「止まらない床で直せない船は、夜海でも直せん」
「止めれば直せる!」
「止める場所がない」
「作る!」
「作っている間に船団が行く」
「待たせる!」
「ネブラも?」
カナタの口が止まる。
ドウマは第一歩号の船底へ潜る。
「船は悪くない」
左利きのドウマは、怒ると右手だけが先走る。船底へ置いた板も、一枚だけ向きが反転していた。
「船は、持ち主が休ませなかったことを隠せん」
ぶっきらぼうな声の底に、停泊船を直している間に船団から切り離された昔の仲間がいた。彼は約束を守れなかった理由を、まだ誰にも言い訳せず聞いてもらえていない。
「俺の船!」
「船長が悪い」
「初対面で!?」
「帆の裂け方が、船長を示している」
「分かる人!」
「褒めていない」
ルゥとドウマは、可変重継舵の四枠目から黒帆を外す。
ミナモで空けた枠。
何を取りつけるか、まだ決めていない場所。
「夜海用の《静重板》を入れれば、灯を消しても船の向きを保てる」
ドウマが黒い薄板を見せる。
「停泊船から外した」
「持ち主は?」とナギ。
「《ミオリ号》」
「人は?」
「寝台船へ移った」
「板を渡すって決めた?」
「規則だ」
「本人は?」
「返事できなかった」
「なぜ」
「星熱病」
「今も?」
「昨日死んだ」
ナギは黒板を見た。
「名前を残す」
「船体へ?」
「今の持ち主と、前の持ち主」
「機巧は重くなる」とドウマ。
「文字だけ」
「軽い」
ルゥが白い帳面へ書く。
――静重板。
――前、ミオリ号。
――次、第一歩号。
――用途、暗い風路の停船補助。
「停船?」
カナタが食いつく。
「飛ぶためじゃないのか!」
「向きを保つため」
「第五翼!」
「板!」
「五番目の場所に入る!」
「旗の数と船の部品を合わせないで!」
ドウマが黒板を四枠目へ差し込む。
「止まるための機巧を笑うな」
「笑ってない! 飛ばないのが不満!」
「飛ぶ機巧は、止める機巧より簡単だ」
「本当?」
「進みたい方向へ力を出せばいい。止まるには、今どこへ流されているか、全部知らなければならん」