第101話 第三章「灯を拾う仕事」前編

ナギの耳が動く。

「今どこへ、全部」

「風。星の重さ。船の傾き。乗っている者」

ドウマは船腹を叩く。

「一つでも分からなければ、止まったつもりで落ちる」

「止まるの、難しい!」

「だから、この船団はやめた」

老人は遠くの停泊船を見る。

「昔は休泊日があった」

「止まった?」

「泊星の影で炉を落とし、帆を畳み、壊れる前に直した」

「今は?」

「ネブラが速くなった。休んだ船が追いつけず、停泊庫へ積まれた」

「休むと捨てられる」

リラの言葉と同じ。

ナギは帳面へ書く。

――止まることと、外すことが同じ扱い。

「また書いた」とドウマ。

「返事」

「誰への」

「あとで読む人」

「四番目の旗か」

「今の記録」

修理の外では、星渡りの準備が進んでいた。

先星号から金色の灯索が伸びる。

畑船。

工房船。

寝台船。

外周の小舟。

すべてを一つの追星へつなぐ。

マーレは一隻ずつ確認していない。

船種ごと。

区画ごと。

名簿の数で灯索を張る。

「速いな!」

カナタが感心する。

「七千人を一人で聞いてたら、明朝になる」とルゥ。

「明朝に出る!」

「だから今、数で進めてる」

「合ってる!」

「今の人と一致してるかは別」

ナギが言った。

先星号の脇を、空の寝台が一つ流れる。

札には名前がある。

人はいない。

逆に、橋の下で眠る子どもには札がない。

ルクが一人ずつ移している途中だった。

「名簿は、昨日の形」

ナギは椅子の対鈴を鳴らす。

ルクが同じ回数を返した。

今の返事。

「一刻まで、あと半刻」

リラが黒い小舟の帆をたたむ。

「行くなら灯を全部消す」

「真っ暗!」

「暗舟へ灯を持っていくと、残った重さが明かりへ流れる。船が崩れる」

「俺の声は?」

「消せない?」

「無理!」

「小さく」

「難しい!」

マーレが先星号から見下ろしている。

許可した一刻。

けれど、戻ることを期待していない目。

「灯主!」

カナタが叫ぶ。

「何だ」

「暗舟を見つけたら、待つか!」

「位置と人数を送れ」

「待つ?」

「状況で決める」

「誰が!」

「私が」

「船団の人は?」

「出航準備中だ」

「聞かない?」

「時間がない」

カナタは反論しようとする。

ナギが先に言った。

「返事を送る」

「全船へ?」とマーレ。

「今の状況」

「混乱する」

「選ぶのはあとでも、知るのは今」

「責任を負えるか」

「記録の責任は負う」

「判断は」

「一人ぶん」

ナギは自分を指した。

「私がどうしたいかだけ」

マーレは長く少女を見る。

「一刻後、戻れ」

「返事」

「命令だ」

「記録した」

カナタが笑う。

「行くぞ!」

「待って」

ナギ。

「何だ!」

「点呼」

「さっきした!」

「今」

第一歩号へ乗る前。

四人が一人ずつ答える。

「カナタ」

「ここ!」

「ルゥ」

「操舵輪」

「ザンバ」

「船尾」

「ナギ」

「響路士席」

リラが最後に残る。

「リラ」

「船首」

「第一歩号」

五人で船腹を叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

船そのものの返事。

「ホシマル!」

カナタが呼ぶ。

干し茸袋から青白い尾。

「置いていく!」

リラが抱える。

「仲間が減った!」

「船団へ戻す!」

「返事しろ!」

ホシマルが尾で船縁を一度叩いた。

「一つ!」

「餌の催促!」

第一歩号は灯を落とし、暗い風路へ出た。

明るいノクティルが後ろへ流れる。

前には、何もない。

五つの音だけが、遠い夜で待っていた。

ノクティルの《灯拾い》は、消えかけた星灯を見つける仕事だった。

少なくとも、昔は。

リラは第一歩号の修理を待つ間、カナタたちを外周の灯索路へ案内した。

道の両側へ、小さな灯が何百個も吊られている。

白。

 青。

 赤。

 緑。

船の炉が生きている印。

 寝台区に人がいる印。

 治療船が受け入れられる印。

一つの船に、いくつもの灯。

「消えたら拾う?」

カナタが青い灯へ手を伸ばす。

「触らないで」

「拾うんだろ」

「落ちた灯索を結び直す。炉を直す。人を隣の船へ移す」

「全部!」

「昔は」

リラは言い直した。

道の先。

一つだけ灯のない船が、外周へ押し出されていく。

船員たちはすでに移ったらしい。

帆柱から船名板が外される。

灯索の留め金が切られる。

暗い船は、ノクティルの輪から離れた。

夜海へ流れる。

「今は?」

「消えたと確認して、切る」

「拾ってない」

「船団を軽くする」

「言い方を変えただけだろ」

カナタの声が低くなる。

リラは答えない。

灯索路の下には、古い留め金が何百個も積まれていた。

焼けたもの。

 曲がったもの。

 まだ使えそうなもの。

一人の老人が、その山から金具を分けている。

黒い作業着。

 白い髭。

 左脚は木と星殻で作った機巧脚。

背中の旗には、大きな錨が一つ。

ただし、錨の爪は地面ではなく、四方へ開いていた。

バルドは六十九歳。椅子を持たず、何度もほどいた縄束へ座る。眠気が来ると結び目を増やすため、夜が長い日は縄の端が拳ほどの塊になった。

時計は逆さに吊るしてある。針が下へ落ちるたび、休む時間が近づくように見えるからだ。もっとも本人は「止まれ」と言いながら歩いて説明し、自分だけは休まない。

左手で機巧を扱い、右手は人へ触れるときにしか使わない。今も仮留め輪へ伸びたのは左だった。

「バルド」

リラが呼ぶ。

「外来船の仮留め輪、見てもらえる?」

「壊したか」

「釣りに使った」とルゥ。

「壊したな」

「働いた!」とカナタ。

「用途外で働く機巧は、次に用途内で壊れる」

バルドは仮留め輪を受け取る。

銀枝の曲がり。

 キリの違う長さのねじ。

 セノが村で作った止まり輪の写し。

端に、小さな文字がある。

――停止位置、次の手で決めること。

「ミナモの次稿か」

「知ってるの?」

「昔、銀枝都市の機巧師が船団へ来た」

バルドは輪を回した。

一回目。

 滑らか。

二回目。

 途中で少し止まる。

三回目。

 別の角度へ曲がる。

「止まる形が決まっていない」

「未完成」とルゥ。

「だから船ごとに合わせられる」

「完成させられる?」

「止める船があれば」

周囲の船はすべて動いている。

修理床も。

 留め金の山も。

 バルドの椅子さえ、細い輪路の上をゆっくり移動していた。

「昔はあった」

老人は外周の暗がりを指す。

《休泊肋》。船団を輪ではなく網へ広げ、船ごとに重さを預ける仕組みだ」

「止まれた?」

「一日」

「一日だけ?」とカナタ。

「一日も」

バルドの機巧脚が、床を一度叩く。

「泊星を補修し。炉を冷まし。船名簿を今の人数へ直し。死者の名を読む」

「今は?」

「七年前に外した」

リラの顔が固くなる。

「ノイ号のとき?」

「ああ」

バルドは留め金を一つ拾う。

半分焼けた星印。

「二刻止まり、百三十六隻を失った。人々は言った。止まったから落ちた、と」

「本当に?」

ナギが訊く。

「止まり方を一つにしたからだ」

老人は短く答える。

「軽い小舟も。重い畑船も。同じ場所へ同じ強さで留めた。最初に小舟の肋が切れ、次に重船が引いた」

「形が違うのに、同じ止め方」

ルゥの指が仮留め輪へ触れる。

「三脚群島と同じ」

「止まることが悪かったわけじゃない?」

リラが訊く。

「止まったあと、誰を待つか決めていなかった」

バルドは言葉を切り、縄束の結び目を一つ増やした。自分が眠ると、待てずに死んだ船員へ追いつく気がする。だから休泊を教える老人ほど、休むことが下手だった。

「止まる技術だけでは足りん。待つ役を渡し、待つ者も交代させる。それを図へ入れなかったのが、俺の失敗だ」

達観ではなく、まだ修正中の告白だった。

バルドは少女を見る。

「二刻。誰の二刻だった」

「兄さんの炉を直す時間」

「船団の人は?」

「待った」

「選んだか」

リラは答えられない。

マーレが全船へ停止を命じた。

理由を知った者も。

 知らない者も。

 自分の船でできることを訊かれた者も、訊かれなかった者も。

同じ二刻を待った。

「灯主は責任を取った」とリラ。

「取ろうとした」

「違う?」

「一人で全部を持った」

バルドは火傷した留め金を箱へ戻す。

「それから、誰にも止まる役を渡さなかった」

カナタが先星号を見る。

一つの金星。

その後ろへ、何千の灯。

「先頭なら、全部持つだろ」

「重すぎると落とす」

ザンバが言った。

カナタは反論しない。

三脚群島で、同じ先頭へ三つの島を重ねたことを思い出している。

「休泊肋、作れる?」

ルゥがもう一度訊く。

「図は残っている」

「見せて」

「灯主の許可が要る」

「今は修理用」

「お前の顔は、修理だけを見る顔ではない」

ルゥは反射的に否定しかけ、空中へ休泊肋の断面図を描いた。人の話を聞きながら見えない線を引く癖だ。

「修理だけじゃない。直して、試して、壊れた理由を次の港へ渡す」

カナタの停止係ではなく、自分の名で残す機巧史。その望みを、初めて職人へ隠さなかった。バルドは褒めず、古図の受取人欄へ「ルゥ」と書いた。

ルゥは少しだけ笑う。

「次稿だから」

バルドはしばらく見つめた。

やがて、留め金の山の一番下から、薄い黒板を引き出す。

何十本もの船。

中心はない。

船ごとに違う長さの肋が、夜の重さへ伸びている。

「止まる機巧は、進む機巧より難しい」

「どうして」

「進むときは、前を一つ決めればいい」

老人は図の空白を指す。

「止まるときは、今いる場所が船ごとに違う」

ナギが小さく頷いた。

「返事と同じ」

「機巧と音を一緒にするな」とルゥ。

「違う形で同じ仕事」

「……それは合ってる」

バルドは仮留め輪をルゥへ返した。

「完成させるな」

「え?」

「船団全部へ同じ輪をつけるな。止まり方を聞け」