第102話 第三章「灯を拾う仕事」後編

「機巧へ?」

「船へ。船員へ。今の荷へ」

カナタが胸を張る。

「俺が聞く!」

「まず第一歩号を直せ」

船の山から、嫌な音がした。

仮留め輪を外した船首が、少しずつ下へ沈んでいる。

「第四翼が!」

「支えを外したから!」

全員で走る。

バルドだけが、動く椅子へ座ったまま呟いた。

「止まる前に、壊すな」

リラの兄は、ハルといった。

七年前。

十八歳。

星熱炉の機巧見習い。

リラは八歳だった。

「今と同じ黒い輪?」

第一歩号の炉室で、ナギが訊く。

「うん」

リラは耳飾りを外し、灯りへかざした。

星殻を細く編んだ輪。

内側に、五つの小さな傷がある。

「暗い寝台で、兄さんと合図を作った」

指で船壁を叩く。

こん。

「い」

こん。

「ま」

こん。

「こ」

こん。

「こ」

こん。

「だ」

「五つで《今ここだ》

「暗いと、どっちへ来てって言えない」

「場所だけ知らせる」

「返事も同じ五つ」

リラは輪を耳へ戻す。

「ノイ号の炉が落ちた日、私は寝台船へ移された」

「ハルは?」

「直すって残った」

「マーレは待った」

「二刻」

「そのあと」

「切った」

言葉が短くなる。

切られた灯索。

遠ざかるノイ号。

夜の中で、兄が船腹を叩く。

こん。

 こん。

 こん。

 こん。

 こん。

「三刻聞こえた」

「返した?」

「ずっと」

「届いた?」

「分からない」

「今の音は?」

「兄さん」

同じ答え。

ナギは否定しない。

「七年、鳴り方は変わった?」

「最初は毎日」

「同じ時刻?」

「夜海に時刻はない」

「間」

「最初は五つ。次は一つずつ遠くなった。何か月かすると、右から。次は下。去年は一度だけ、二つと三つに分かれた」

ナギは現標板へ線を引く。

「動いてる」

「だから生きてる」

「音路が動いてる」

「同じ!」

「違う」

リラの目が尖る。

ナギは続ける。

「生きた人が動かしてるか。船が流されてるか。切れた灯索が夜潮へ回ってるか」

「どれがいいの」

「決めない」

「何も言わないのと同じ」

「全部、探し方が違う」

ナギは三本の線を描く。

一つ目。

声へ返す。

二つ目。

船の動きを追う。

三つ目。

灯索の残響を切り分ける。

「一つに決めたら、一つしか探せない」

リラは板を見る。

「母さんのときも?」

「全部やった」

ナギは欠けた鈴へ触れた。母の音を最初に聞いた夜、一度だけ、風鈴三つと自分の鼓動を五打へ数えたことがある。希望が強ければ、耳は数まで作る。

「私も間違えた。だから、問いを変えた。音だけじゃなく、風と船と、聞いた人も分けた」

判定が厳しいのは希望が薄いからではない。希望を、自分の聞きたい形へ潰さないためだった。

「怖くなかった?」

「怖かった」

「残響だったら」

「怖かった」

「死んでたら」

「怖かった」

「見つけても、違う人だったら」

「怖かった」

「よく進めたね」

「一人じゃなかった」

カナタとルゥとザンバ。

トマリギ島の人々。

母イオラの鈴。

呼び声と、返事。

「今は私がいる」

ナギが言う。

言いながら、ナギは初めて聞くリラの笑い声の場所から拾った小石へ、五本の細い傷を刻んだ。名ではなく、今日の音を残す。

リラはそれを見て、「兄さんの石と一緒にしないで」と言った。

「まだ兄さんの石はない」

「見つけたら?」

「別に拾う」

同じ五つでも、同じ石へ入れない。

リラは少し驚いた。

「兄さんを信じる?」

「リラが待ったことを信じる」

「兄さんは」

「見つける」

「死んでたら?」

「見つける」

「いなかったら?」

「返事のない場所を見つける」

「それで終わり?」

「終わりかは、リラが決める」

炉室の外で、カナタが叫ぶ。

「出航準備、終わったぞ!」

ルゥの声。

「終わってない!」

「炉に火がついた!」

「帆が半分!」

「半分あれば飛べる!」

「どっちへ曲がるの!」

「行き先へ!」

「方向を聞いてる!」

リラは黒い輪を握り直した。

「変な人たち」

「今の船」

「ナギも?」

「乗ってる」

「降りないの?」

「いつか」

「今は?」

「行く」

二人は炉室を出る。

第一歩号の現標板には、五つの欄がある。

カナタ。

 ルゥ。

 ナギ。

 ザンバ。

 リラ。

その下に、別の欄。

ホシマル。

「魚まで!」

「案内役」とカナタ。

「今は乗る」とナギ。

「私が決める!」

リラは魚の欄へ自分で書き足す。

――同行、リラ管理。

「字、書けるのか!」

「普通はね」

「俺もカナタと帰るは書ける!」

「二つだけ?」

「世界の果てへ行くのに十分!」

「今の場所は?」

「船!」

「字」

「……ルゥ!」

「自分で覚えて!」

第一歩号が灯を消す。

星のない場所へ向けて、静かに船団を離れた。

暗舟へ向かうとき、灯りをつけてはいけない。

「なんでだ?」

カナタが訊く。

「星熱を失った船の近くで灯をつけると、残った重さが明かりへ流れる」

リラは第一歩号の灯を一つずつ覆う。

「船が崩れる」

「暗いぞ」

「夜海だから」

「さっきまで星があった」

「目を慣らして」

「気合い?」

「時間」

最後の灯が消えた。

リラの両目は別々の方向へ動き、右でホシマルの尾、左で船縁の銀糸を追った。昼光では見失う糸も、この暗さなら一本ずつ見える。

ナギは左耳の栓を浅くし、代わりに片目を閉じた。暗闇の奥行きを視覚で取れないぶん、ルゥの工具音を船体の基準へ借りる。

ザンバの機巧腕には冷えが入り、ないはずの指が五本とも痛んだ。右手で椅子を固定し、生身の左手を甲板へ置く。船がここにあると、触覚で返事を取った。

第一歩号は夜と同じ色になる。

白い帆も。

 ミナモの銀板も。

 船首の仮留め輪も。

何も見えない。

「点呼」

ナギの声だけがする。

「カナタ」

「船首!」

「ルゥ」

「操舵輪」

「ザンバ」

「船尾」

「リラ」

「右舷」

「ホシマル」

ちりん。

「第一歩号」

船腹が低く軋む。

「返事あり」

「船まで数えるのか」とザンバ。

「壊れたら分かる」

「今から壊れない!」とカナタ。

「暗いと船長がどこへ触るか分からない」

「俺を数えろ!」

「最初に数えた」

ルゥが船体へ銀鋲を四本打つ。

細い糸が甲板の縁を淡く光らせる。

「これ以上は明るくできない。糸を踏まないで」

「見えない」

「だから踏まないで」

「難しい!」

カナタが一歩動く。

銀糸が足へ絡む。

「もう!」

「見えないって言った!」

「動かないで!」

「止まっていいのか?」

「今は!」

カナタは甲板へ座る。

三呼吸後、立ち上がる。

「長い!」

「三呼吸!」

「世界の果てが遠ざかる!」

ザンバの旗竿が頭へ当たった。

「座れ」

「暴力!」

「休息だ」

第一歩号は帆を畳み、星錨だけでゆっくり進んだ。

ノクティルの灯が遠ざかる。

夜の静けさが近づく。

船団は巨大な生き物のように音を立て続けていた。

炉の唸り。

 橋の回転。

 七千人の足音。

そこから一枝里離れただけで、夜海には何もなくなった。

風すらない。

自分の呼吸だけが、他人のもののように聞こえる。

「五つ」

リラが耳飾りを押さえる。

「左前」

「左前ってどっち!」

「船首から左!」

「俺の左?」

「船の!」

「暗い!」

「操舵は私!」

ルゥが舵を切る。

ナギは小鐘へ耳を当てた。

「少し下」

「下は?」

「ホシマルが向くほう」

星灯魚は灯を消し、尾の銀糸だけを震わせている。

第一歩号が進路を変える。

船底が、何かへ触れた。

ご、と低い音。

ルゥが操舵輪を止める。

「船」

銀鋲を投げる。

糸の先に、黒い輪郭が浮かんだ。

長い船体。

帆柱は折れ、炉の煙突は冷えている。

船名板の文字は半分消えていた。

――ラナ号。

「ノイ号じゃない」

リラの声に、落胆と安堵が同時にある。

「七日前に切られた船」

「人は?」

カナタが飛び移ろうとする。

「待って」

リラが腕を掴む。

「床が残ってるか分からない」

「道を作る」

「明るくしたら崩れる」

「一歩だけ」

カナタは白旗を暗闇へ突いた。

「標術――《未踏路》。甲板の手前」

一歩分の光板が生まれる。

暗舟の縁までは届かない。

最後の一歩を、カナタが自分で跳ぶ。

右膝が一度だけ遅れた。以前なら遅れを勢いで隠し、相手の甲板まで光板を伸ばしていた。

今は、白旗を口へくわえて利き手を空ける。自分が救うためではなく、暗舟の床を左手で確かめるためだった。

「覚えてた」とルゥ。

「何を?」

「最後を空けること」

「忘れると思った?」

「六割」

「減った!」

暗舟の甲板は冷たかった。

だが、崩れてはいない。

ルゥ。

 リラ。

 ナギ。

 ザンバが続く。

船室の扉は内側から開いていた。

中に人はいない。

食器。

 寝台。

 工具。

すべて残っている。

逃げる時間がなかったのではない。

持って出た跡がある。

「水袋がない」

ルゥが棚を調べる。

「保存食も半分。毛布も」

「どこかへ移った?」

「夜海を歩いて?」

カナタは床へ顔を近づける。

「跡がある」

船室の床を、太い縄が擦った跡。

外へ続いている。

船尾から夜の中へ。

ルゥが銀鋲を縄跡へ当てる。

《継ぎ路》

光糸が、切れた縄の先を探る。

一度消える。

遠くで、別の何かへつながった。

「向こう側がある」

「何が?」とリラ。

「縄。一本じゃない」

光糸が枝分かれする。

右へ。

 左へ。

 上へ。

暗闇の中に、見えない網が広がっている。

「暗舟同士で?」

ナギが床へ膝をつく。

小鐘の底を船腹へ当てる。

こん。

一つ。

返事ではない。

次。

こん。

違う方向。

さらに。

こん。

 こん。

 こん。

五つが、一隻から来ていない。

「分かれてる」

ナギが言う。

「一つ目は近い船。二つ目はその隣。最後の三つは、もっと先」

「合図を渡してる」

リラが息を呑む。

「船から船へ」

カナタは船腹を五つ叩いた。