第103話 第四章「星のない船」前編

こん。

 こん。

 こん。

 こん。

 こん。

長い沈黙。

右から、一つ。

左から、一つ。

遠くから、三つ。

合計五つ。

今度は、さらに別の方向から五つ。

また五つ。

夜海のあちこちで、船腹を叩く音が返ってきた。

一隻ではない。

十隻でもない。

暗闇に、見えない船団がいる。

「生きてる」

リラの声が震える。

ナギは板へ書く。

――複数船。

――中継応答。

――生存者の可能性、極めて高い。

「兄さんは?」

「まだ」

「でも、人がいる」

「うん」

リラは床へ両手をついた。

目から涙が一滴、黒い板へ落ちる。

「みんな、生きてる」

「人数は?」とザンバ。

「分からない」

「船数」

「分からない」

「場所」

「動いてる」

「なら、今数えるものは」

ナギが答える。

「返事」

そのとき。

暗舟の外。

何もないはずの夜が、ゆっくり盛り上がった。

黒い壁。

星喰いネブラの背だった。

いつの間にか、すぐ近くまで来ている。

体内に浮かぶ星々が、ラナ号の下を流れていく。

一つ。

 二つ。

町ほどの星が、黒い皮膚の向こうで燃えている。

「影潮!」

リラが立ち上がる。

「ネブラの重さに巻かれる! 船へ!」

「暗舟は?」

「今引いたら、網が全部切れる!」

「でも!」

「場所は分かった!」

リラは床を五つ叩く。

「今、ここだ!」

遠くから、五つ。

「戻ってくる!」

第一歩号へ飛ぶ。

カナタは暗闇を見る。

見えない船団。

何年も、星のない場所でつながってきた人々。

白旗を握る。

「絶対だぞ!」

五つの音が返る。

第一歩号がラナ号を離れた。

ネブラの尾が、夜海全体を持ち上げた。

影潮には、前も後ろもなかった。

ネブラの重さに引かれた夜が、四方から第一歩号へ流れ込む。

帆を開けば裂ける。

炉を強くすれば、星喰いに気づかれる。

灯をつければ、最初に食われる。

「面白い!」

「どこが!」

ルゥが操舵輪へしがみつく。

「進む方法が全部使えない!」

「それのどこが面白いの!」

「新しい!」

「死ぬ!」

仮留め輪が夜の重さを受ける。

一呼吸だけ、船首が止まる。

船尾だけが流れる。

第一歩号が折れ曲がりそうになる。

「第四翼、右!」

「翼じゃない! 輪を放して!」

「放したら流れる!」

「今、船が半分ずつ別の場所!」

ルゥが銀鋲を帆柱へ打つ。

《継ぎ路》! 船首と船尾!」

光糸が張る。

二つへ離れかけた船体を、今の形へ縫い止める。

ザンバは灰旗を振った。

《岐点》

黒い点が影潮へ入る。

一つの重さが三つへ分かれた。

ネブラの腹へ。

 尾へ。

 ノクティルの灯へ。

「選べ、船長」

「船団!」

「即答するな!」とルゥ。

「暗舟から遠ざかる!」とリラ。

「戻るために帰る!」

「どっち!」

「今は船団!」

カナタは白旗を船首へ突く。

「標術――《未踏路》! ノクティルの手前!」

一歩分の光板。

暗闇に浮かぶ。

第一歩号が乗る。

板はネブラの重さに引かれ、横へ流れる。

「次!」

二枚目。

「ノクティルの手前!」

三枚目。

どれも同じ方向へは並ばない。

「場所が動いてる!」

ナギが小鐘を持ち上げる。

「船団を呼ぶ!」

五つ。

返事が来ない。

炉音が遠い。

「もっと大きく!」

「大きくするとネブラへ届く!」

「じゃあ小さくたくさん!」

「一つずつ聞こえなくなる!」

リラの耳飾りへ、船団外の五つが来る。

リラは黒い輪を五度触った。五度目だけ右手の小指が立つ。影潮の冷えで視界が傾き、自分の薬だけ荷袋へ入れ忘れたことを今さら思い出した。

「手だけ遅い」

いつものごまかしだった。ナギは叱る代わりに、第一歩号の床を一度踏ませる。今いる船の硬さが足裏へ返ってから、リラは暗舟と船団をもう一度、別々の方向として見た。

暗舟。

その反対側から、ノクティルの出航鐘。

前と後ろ。

どちらも動く。

「私、どっちを聞けばいい」

リラの声が震える。

「今の船」

ナギが言う。

「第一歩号」

「兄さんが消えたら」

「記録した」

「船団が行ったら」

「呼ぶ」

「両方」

「一つずつ」

「時間がない!」

「だから今の一つ!」

ナギは第一歩号の船腹を五つ叩く。

「カナタ!」

「船首!」

「ルゥ!」

「操舵輪!」

「ザンバ!」

「船尾!」

「リラ!」

「右舷!」

「ナギ!」

「響路席!」

「船!」

ぎぎ、と帆柱が鳴る。

「まだ一つ!」

「どこが壊れかけ!」とルゥ。

「船尾左!」

「分かった!」

ルゥが銀糸を一本増やす。

現在地を確かめただけで、道は近づかない。

だが、船体がばらばらになる前に直せた。

「今いる場所が分かれば、次を選べる」

ナギは小鐘をノクティル側へ向ける。

「次、船団」

五つ。

今度は返事が来た。

遠い。

途中で三つに分かれ。

最後に一つへ重なる。

「外周標!」

「どこ!」

「左下!」

「下は!」

「今、影潮が薄いほう!」

「分かりにくい!」

「聞こえてるぞ!」

遠くから、カゲノハ村の返事が混じった。

『カナタみたい!』

「今じゃない!」

『今の声』

アカリの笑い声。

連標網が夜海まで細く伸びている。

「村まで聞こえるの!?」とリラ。

「全部じゃない」

ナギは返事を分ける。

ノクティル。

今の外周標。

カゲノハ村。

遅れて届いた前の呼び声。

同じ小鐘へ重なる。

「一つずつ返す」

ナギは外周標へ五つ。

村へ五つ。

暗舟の記録は板へ残す。

全部へ同時に答えない。

返事の間を作る。

第一歩号は外周標の音へ向かう。

影潮が強くなる。

ネブラの背が、すぐ下を通る。

体内の星が第一歩号を照らした。

カナタが巨大な黒い皮膚へ手を振る。

「ネブラ!」

「呼ばないで!」

「今、ここだ!」

「教えないで!」

星喰いの目らしい白い穴が、一度だけ開いた。

カナタたちを見る。

口は開かない。

体内の星をゆっくり流しながら、泊星リュミナへ向かう。

「聞こえた?」

「返事なし」とナギ。

「友達はあとだな!」

「候補にも入ってない!」

外周標の音が近づく。

第一歩号は最後の光板を蹴、船団の影へ飛び込んだ。

着地した場所は、第三寝台船の屋根だった。

キトが毛布に包まれて眠っている。

第一歩号の船首が、屋根の手前で仮留め輪を下ろした。

一呼吸。

止まった。

船体がゆっくり横へ流れ、寝台船と並ぶ。

「第四翼が止めた!」

「仮留め輪!」

「初めて用途内!」

ルゥが輪を見る。

キリの違うねじ。

セノの転がる模型。

バルドの古い図。

一呼吸だけ、正しく止まった。

「次稿、成功?」

「まだ」

「止まったぞ」

「一隻だけ」

ルゥはノクティル全体を見る。

何千もの船。

どれも、止まる場所が違う。

「全部へ、同じ輪はつけられない」

「じゃあ大きくする!」

「今聞いた話を忘れた!?」

「船ごとに大きく!」

「数が増えただけ!」

ナギが現標板へ書く。

――暗舟。複数応答。

――第一歩号。帰還。

――ノクティル。現在、出航準備継続。

最後。

――ネブラ。返事なし。

「そこも書くの?」

「呼んだ」

「いつか返る!」

「今はなし」

夜の向こうで、星喰いが泊星を一つ呑み始めた。

ノクティルの朝鐘が鳴る。

星渡りまで、あと三刻。

カゲノハ村では、五つの音が一度に届きすぎていた。

「今のはノクティル?」

アカリが現標板へ筆を置く。

「ミナモ」

セノがルゥの机の下から答える。

「違う。斜めねじを落とした音」

「じゃあ三番港?」

「ミオは銅鐘」

「トマリギ島」

「鈴」

「第一歩号」

「鍋蓋」

「鍋蓋は返事しない」

「カナタならする」

朝葉機関の周囲で、何十本もの音糸が震えている。

トマリギ島。

 三番港。

 ミナモ。

 星喰いの夜海。

各地が返事を次へ渡すようになり、カゲノハ村は天樹の下枝にある小さな村ではなくなりつつあった。

旅人宿には三組。

南橋の先へ、新しい荷物置き場。

朝見台には、外の風を読む見習いが二人。

ルゥの机には、セノの道具が半分以上。

「左はルゥの場所」

アカリが言う。

「今、使ってない」

「帰る」

「いつ」

「未定」

「じゃあ、今は空いてる」

「空いてる場所と、なくなった場所は違う」

アカリは机の左半分へ白い線を引いてある。

使ってはいけない線ではない。

使ったら、何を置いたか書く線。

帰ったルゥが、今の机を見つけられるように。

「それより、音が混ざる」

セノが机の下から丸い輪を出す。

木と銅で作った模型。

回すと、いつまでも止まらない。

「止まり輪?」

「失敗一号」

「止まらない」

「名前が分かりやすい」

「失敗二号は?」

セノが別の輪を出す。

回らない。

「止まりすぎ」

「成功じゃない?」

「進まない」

「止まるためなら」

「止まる場所へ行けない」

アカリは二つの輪を見る。

左手の筆先が一度、紙の外へ滑った。夜冷えと働き過ぎで立ちくらみが来ると、自分の体だけ現標板から外す癖がある。

アカリは誤線を消さず赤糸で囲い、余白へ書いた。

――アカリ。一呼吸、着席。

待つ仕組みを作る者まで休めなければ、返事の間は飾りになる。セノは何も言わず、失敗一号を椅子の脚へ噛ませて揺れを止めた。

一つは、返事を待たず回り続ける連標網。

一つは、最初から何も通さない閉じた道。

「間がいる」

「間?」

「五つ鳴らしたあと、次を鳴らさない時間」

「何の役に立つ」

「返事が入る」

アカリは朝葉機関の小鐘へ、細い木片を挟む。

五回鳴らす。

一。

 二。

 三。

 四。

 五。