第104話 第四章「星のない船」後編
木片が落ちる。
鐘の舌を、一呼吸だけ止める。
その間。
遠い場所から返事が来る。
ミナモ。
今、ここ。
次の一呼吸。
三番港。
今、ここ。
「返事の間」
アカリが言う。
「止まるためじゃない」
「聞くため」
セノは止まり輪の内側へ、同じ木片を入れる。
回す。
一周。
二周。
三周。
五周目で、一呼吸止まる。
そのあと、別の力が加わればまた回る。
「失敗三号」
「まだ失敗?」
「船につけてない」
「第一歩号へ送る」
「遠い」
「連標網」
「物は通らない」
「図」
アカリは輪を紙へ写す。
線は曲がる。
数字は合っているか分からない。
端へ書く。
――五回動いたら、一呼吸、返事を待つ。
宛先。
ルゥ。
その下。
ナギ。
最後に。
カナタへ。
――止まっている間に触るな。
「一番大きく書く?」
「読めない」
「絵」
アカリは、輪へ手を伸ばすカナタを描く。
その手を工具で叩くルゥ。
セノが笑う。
朝葉機関の奥で、白い帰還路が光った。
木片が作った一呼吸の間へ、別の声が先に入る。
『たまには帰れ』
昨日と同じ高さ。
同じ息の長さ。
五つの合図も、返事の間も待たない。
「今の、どこから?」
セノが止まり輪を押さえた。
「帰還路」
「返事?」
アカリはすぐに頷かなかった。
現標板の返事欄ではなく、横の比較欄へ灰色の札を置く。
――帰還路音。
――文言、前日と同じ。
――発信時刻、未確認。
その下へ、今日届いたミナモと三番港の音を別々に写した。
片方は、問いのあとに遅れて返った。
片方は、昨日と違う工具音を混ぜた。
白い帰還路の声だけは、何も変わらない。
「分けるの?」
「まだ決めないため」
「何を」
「今の返事か、残ってる音か」
アカリは二つの波形を同じ紙へ描き、間に太い線を一本引いた。
「ナギに聞く」
「アカリは分からない?」
「分からない」
答えは早かった。
「だから、分かった欄へ入れない」
紙の端へ宛先を書く。
――響路士ナギ。
その下へ、ルゥ。
最後に、カナタ。
――五回動いたら、一呼吸、返事を待つ。
――灰色の声は、同じ間へ入れない。
――船長は止まっている間に輪へ触らない。
「最後だけ大きい」
「読めないから絵も」
アカリは、輪へ手を伸ばすカナタを描く。
その手を工具で叩くルゥ。
セノが笑った。
白い道の奥で、声がもう一度だけ同じ形を繰り返す。
『たまには帰れ』
アカリは声へ答えず、朝葉機関の小鐘を五回鳴らした。
今ここにいる者へ、返事を渡すために。
「アカリ!」
カナタが対鈴へ顔を近づける。
『近い』
「遠いぞ!」
『声が』
「聞こえる!」
『だから近い』
「どっちだ!」
『場所は遠い。返事は近い』
「ナギみたい!」
「響路の話だから」
ナギは響路士席の小鐘へ指を置いた。
「今日は、五つを一つにしないで聞く」
対鈴の向こう。
カゲノハ村の現標板には、五本の白杭が立っていた。
一つ目。
現標板。
アカリが、へこんだ薬箱の底を五つ叩く。
『アカリ。現標板。今、ここ』
二つ目。
南橋。
トウヤの声。
『南橋、外側手すり三本。今日は一本増やす!』
「前は二本だった!」
『昨日は四本!』
「減ってる!」
『荷車が通れなかった!』
「村、難しい!」
三つ目。
ルゥの作業机。
セノが工具箱を五回叩く。
『作業小屋。机の左側、今ここ!』
ルゥの左手が、髪の銀鋲を一本抜いた。遠い机は顔よりぼやけても、引き出しの位置だけは図面のように浮かぶ。
怒りに任せて「戻せ」と言えば、自分が嫌った原図復元と同じになる。腫れた手首を袖で隠し、工具箱の蓋を三度叩いてから、ようやく響瓶へ顔を寄せた。
「左は私!」
ルゥが響瓶へ飛びついた。
『今は僕!』
「右を使って!」
『右は新しい炉図!』
「どかして!」
『帰ってきたら相談!』
「いつよ!」
ルゥは髪の銀鋲を一本抜き、工具箱の蓋を三度叩いた。戻って机を取り返したい気持ちと、自分の仕事が誰かに改造される未来を受け入れたい気持ちが、同じ左手でぶつかる。
遠景用の薄い片眼鏡を掛け、届いた図を初めて最後まで見る。怒鳴る前に、セノが増やした脚の負荷線を指で追った。
『そっちが決めて!』
四つ目。
朝見台。
ハルガの金槌。
『朝見台。今月、太陽七分』
「一日に三分だったぞ!」
『枝を二本、剪定した』
「朝が増えた!」
『影も増えた』
「難しい!」
五つ目。
新しい発着場。
セルクの杖。
『発着場。外海交易船、一隻停泊中』
「カゲノハ村に船!?」
『第一歩号より静かだ』
「負けた!」
『壊していない』
「そこまで!」
『港代を払った』
「弁償まで先に!」
五つの場所。
同じ村。
違う音。
ナギは一つずつ青い帳面へ記す。
――カゲノハ村、今日の現在返答、五。
――現標板、南橋、作業机、朝見台、発着場。
――発信者、別。
――時刻差、あり。
「村が五つに分かれた?」
カナタが訊く。
『広がった』
アカリが答える。
「同じ場所だろ!」
『同じ村。今いる場所は違う』
「俺の家は?」
『配達棚が二つ』
「増えた!」
『一つは旅人用』
「俺の家なのに!」
『空いてるから』
「帰ったら使う!」
『いつ』
「いつか!」
『じゃあ、今は旅人用』
「厳しい!」
カナタは村を思い浮かべる。
薄暗い広場。
青白い苔灯り。
南橋の古い手すり。
ルゥの机。
思い出すたび、今日の返事が別の形を重ねる。
茶色へ塗り替えられた屋根。
増減する手すり。
セノの工具。
七分の太陽。
外海の船。
「変わりすぎだ!」
『毎日じゃない』
「じゃあ待て!」
『何を』
「俺が戻るまで!」
声が低くなった。恐怖が強いほど、カナタは怒鳴らず地面へ沈む。右足が半歩先へ出て、白旗の中央ではなく端を握る。
帰ったとき、村が自分なしで進んでいたと言われたい。そのうえで席を一つ空けてほしい。少年自身もまだ言葉にできない二つの望みが、今は「待て」という一語へ潰れていた。
響路の向こうが静かになった。
ルゥがカナタを見る。
ザンバも。
ナギは書かない。
今の言葉を、本人が聞くまで待つ。
『カナタ』
「何だ」
『村は待つ。でも、止まらない』
対鈴の向こうで、アカリは左手の筆を置き、古い誤線を消さず赤糸で囲った。人の名を書いた札だけは、角を丸く切る。今日のカナタの札も、帰還日未定のまま丸い。
待っていることと、暮らしを止めることを同じ線へ書かない。その正確さは冷静さではなく、病床で待つしかなかった十三歳の怒りから来ていた。
「同じじゃないのか」
『待つ人も暮らす』
「俺の知ってる村だぞ」
『知ってる村も残ってる』
「どこに」
『記録。家。人の話。帰還路』
「じゃあ同じだ!」
『同じじゃなくても、なくならない』
カナタは白旗を見た。
無数の道が手を取り合う紋。
中央の空白。
『次に話せる日に、村の話を先に聞いて』
「先に?」
『自分の話を三つする前に』
「二つに減った!」
「昨日は四つ」とルゥ。
「周回ごと!」
アカリの笑い声へ、別の声が重なった。
『たまには帰れ』
カナタの体が止まる。
「父ちゃん」
天頂門の《帰還路》へ、アステルが生前に残した固定記録。
温かく。
近く。
何度聞いても同じ高さ。
「今、返事した!」
カナタが響瓶へ手を伸ばす。
「待って」
ナギが止めた。
鈴を一度鳴らす。
「今日の南橋は?」
『たまには帰れ』
もう一度。
「第一歩号は、今どこ?」
『たまには帰れ』
言葉は変わらない。
その間に、南橋からトウヤが工具を落とした音が入った。
『手すり、一本外れた!』
「四本から三本、また二本!?」
『今は二本半!』
「半分って何だ!」
今の返事は、今の出来事で形を変える。
アステルの声は、問いにも事故にも変わらない。
ナギは帳面へ二つの欄を作った。
――今日の現在返答。
――帰還路の固定記録。
「父ちゃんを消すのか」
「消さない」
「数えないって顔だ」
「数える場所を分ける」
ナギは言った。右手の鈴は現在の返事へ。左手の筆は固定記録へ。父の声を消さず、生きている村の声へ混ぜない。
カナタはすぐには反論しなかった。白旗の端をつまんだまま、今の村の五つをもう一度聞く。自分の話を始める前に、初めて最後まで。
「今いる人の点呼には入れない」
「人だった!」
「うん」
ナギは否定しない。
「だから、人だった記録の欄へ残す」
「面倒!」
「大事だから」
ルゥが横へ来る。
「同じ欄へ入れたら、今返してる人の場所が消える」
「父ちゃんの声も見たい!」
「別々に見る」
「両方!」
「両方」
カナタは少しだけ考え、響路台を指す。
「今の村の五つを、父ちゃんの声と同じ札にするな」
「しない」
ナギが答える。
アカリも。
『こっちでも分けてる』
白い帰還路がもう一度、同じ言葉を繰り返す。
『たまには帰れ』
カナタはすぐには返さなかった。
代わりに、船腹を五つ叩く。
「第一歩号。ノクティル第六外周、静重整備床。今、ここ」
『聞こえた』
アカリが現標板へ書く。
――第一歩号。
――乗員四。
――同行、リラ。
――次、星渡り準備。
帰るかどうかの欄は作らない。
今いる者の返事だけを、今日の場所へ残した。
その三日後。
カゲノハ村では、一つ鐘より先に人が集まっていた。
アカリの十四歳の授旗式だった。