第105話 第五章「返事の間」前編

「まだ朝じゃない」

アカリは広場の鐘を見上げる。

「授旗の日は、鐘より先に起きてよい」

セルクが言った。

「誰が決めたの」

「今、村長が」

「記録する?」

「しなくていい」

「本人応答あり」

「そういう日ではない」

広場には、マツバ婆。

ハルガ。

トウヤ。

フィオ。

セノ。

朝見台の見習い二人。

旅人宿の客まで並んでいる。

授旗台の上には、黄緑色の布が一枚。

ミナモから「途中の稿」が届いた夜に、アカリが自分で選んだ色だった。

若い葉の色。

薬箱へ結ばれた古い紐より少し明るい。

「紋、何だと思う?」

トウヤが訊く。

「橋」とセノ。

「薬箱」とマツバ婆。

「五つの鐘」とフィオ。

「配達先」

アカリは言った。

「形は?」

「まだない」

セルクが旗竿を渡す。

布へ、その日の最初の光が細く落ちた。

最初は何もない。

白くもない。

黄緑のまま。

次に、中央へ細い線が浮かんだ。

四角。

右上だけが斜めに切れ。

端へ、小さな穴が一つ。

「札」

アカリが呟く。

「宛名札みたいだねえ」

マツバ婆が目を細める。

文字はない。

矢印も。

道も。

宛名を書く前の、空いた輪郭だけだった。

「標術は?」

トウヤが期待を込めて訊く。

アカリは旗を振る。

何も起きない。

もう一度。

黄緑の布が、風のない広場で少しだけ揺れた。

「出ろ!」

カナタなら言いそうな声を、トウヤが代わりに上げる。

「静かに」

アカリが睨む。

「似てた?」

「うるさいところだけ」

ハルガが薄い紙札を一枚出した。

「試すなら、名前を書け」

「どうして」

「紋が札だからだ」

「意味を勝手につなげない」

「なら、仮説と書け」

アカリは紙の上へ、覚えたばかりの整った字を書く。

――セノ。

札を現標板の縁へ挟む。

黄緑の旗が、ほんの少し左へ傾いた。

作業小屋の方角。

「動いた!」

セノが喜ぶ。

「本人はここ」

アカリが隣を見る。

セノは授旗台の前にいる。

旗は、誰もいない作業小屋を指していた。

「外れた」

「僕の机?」

「さっき返事をした場所」

現標板のセノ札には、昨日の位置が残っている。

――作業小屋、机の左側。

アカリは紙札を抜く。

旗は元へ戻った。

今度は、セノに薬箱を五回叩かせる。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「セノ。授旗台前。今、ここ」

アカリが新しい位置を書き、名前の札をもう一度挟む。

黄緑の布が、今度は隣へ傾いた。

セノの肩へ触れそうなほど弱く。

「人を見つけた!」

トウヤが叫ぶ。

「まだ」

アカリはセノへ言う。

「南橋まで走って」

「試験?」

「配達」

「何を?」

「自分を」

セノは走った。

授旗台を下り。

旅人宿の角を曲がり。

南橋へ向かう。

黄緑の旗は、しばらく授旗台の脇へ傾いたままだった。

「動かない」

フィオが言う。

「相手は動いた」

アカリは答える。

旗が指したのは、セノそのものではない。

名前と、最後に返された場所が重なっていたところ。

南橋から五つの音が来る。

『セノ。南橋。今、ここ!』

現標板を書き換える。

旗は遅れて南へ傾いた。

「道を作る旗ではないな」

ハルガが言った。

「うん」

「人を追う旗でもない」

「うん」

「何だ」

アカリは黄緑の布を見る。

宛名札の空いた輪郭。

「場所じゃなく、受け取る人を確かめる旗かもしれない」

「でも、人が動くと外す」

トウヤ。

「返事が古いと外す」

アカリ。

「名前を知らなければ?」

フィオ。

「書けない」

「同じ名前が二人なら?」

セノが南橋から戻りながら訊く。

「まだ分からない」

「標術名は?」

セルクが授旗記録板を構える。

アカリは首を振った。

「決めない」

「空欄になる」

「空欄も記録」

セルクはため息をつき、書いた。

――道標旗、黄緑。

――紋、宛名札の輪郭。

――標術名、未定。

――確認済み、名札と最後の現在地へ弱く傾く。

――対象移動後、誤方向。

「失敗まで書くの?」

トウヤが訊く。

「次に同じ人が迷わないため」

アカリは旗を薬箱の横へ結ぶ。

大きな旗ではない。

まだ、橋の向こうへ道を伸ばさない。

帰還路を現在の村へ曲げることもできない。

名前を書いた札へ、ほんの少し傾くだけ。

授旗式のあと、アカリは最初の便りを書いた。

――十四歳。

――旗、黄緑。

――宛名札の輪郭。

――道は作れない。

――相手が動くと外す。

宛先は、カナタ、ルゥ、ザンバ。

その下へ、リラ。

最後に、ナギ。

「最初にナギじゃないの?」

セノが覗く。

「五人へ同じ紙を送る」

「まとめた」

「宛先は別々に書いた」

アカリは五つの名前の横へ、小さな空欄を残した。

誰がいつ受け取るかは、まだ分からない。

だから、受け取った人が自分の欄へ印をつける。

黄緑の旗が、便りの上へ弱く傾いた。

道ではない。

配達を終わらせる力でもない。

それでも、誰へ渡すのかを曖昧にしないための、最初の小さな動きだった。

ノクティルの朝鐘は、眠る時間を終わらせる音ではなかった。

眠らず進む時間を始める音だった。

ごおん――。

寝台船から人々が飛び起きる。

縄を外し。

歩きながらパンを食べ。

片手で帆を縫い。

次の寝台へ別の人を放り込む。

「休んでる!」

カナタが感心する。

「縛られてる」とルゥ。

吊り寝台の人々は、体を五本の縄で固定されている。

眠っても道から落ちないため。

寝返りはできない。

夢を見て飛び起きれば、橋の柱へ頭を打つ。

ルクが寝台札を一枚ずつ確認していた。

目の下に濃い影。

札を確かめるたび、三重結びの最後を指で引く。高い警鐘は片耳へ届かないため、寝台の脚を足裏で踏み、低い振動から人の動きを読む。

「三十二、三十一、三十……」

名前歌を逆から歌い始めた。疲労が強いときの癖だった。順番を守ることへ集中するほど、眠っている本人まで起こしてしまう。すでに二人が「寝かせて」と毛布の中から抗議していた。

「お前、寝た?」

カナタが訊く。

「昨日」

「何呼吸!」

「百二十」

「短い!」

「船団では普通」

「俺、三百!」

「三呼吸で寝るから」とルゥ。

「才能!」

「起きてる時間を競わないで」

リラは対鈴の横へ座り、外周の音を聞き続けている。

ナギも隣。

二人とも一刻、動いていない。

カナタが喜ぶ。

「止まってる!」

「聞いてる」と二人。

「動いてない!」

「仕事」

「止まる仕事!」

ザンバが椅子を二つ運んでくる。

一つをリラへ。

一つをナギへ。

「交代しろ」

「今、外周が」とリラ。

「返事なし」とナギ。

「だから待つ」

「待つ者が倒れれば、次の返事を聞けん」

ザンバはルクを見る。

「お前も寝ろ」

「寝台札が」

「誰かへ渡せ」

「僕の仕事」

「お前が消えたら、札だけ残る」

ルクの口が止まる。

ナギは対鈴へ手を置いたまま言う。

「母さんを待ってたとき、毎晩起きてた」

ナギは笑わなかった。片耳に鈴、片耳に栓をつけたまま食事も眠りもしていた十日間。最後は音のない床まで返事に聞こえ、祖父に鈴を取り上げられた。

だから今、リラへ「一人で聞くな」と言える。自分ができたからではなく、できなかった記録があるからだった。

「七年?」とリラ。

「最初の十日」

「短い」

「十日で倒れた」

「そのあと?」

「じいちゃんとコヨリが交代した」

「返事を聞き逃したら」

「帳面に、誰が聞いたか残した」

「兄さんの音は、私しか分からない」

「だから、音の特徴を教えて」

「私がいなくても?」

「私が聞く」

「間違えたら」

「分からないって残す」

「またそれ」

「必要」

リラは黒い耳飾りを外す。

ナギへ渡す。

「右手。胸の高さ。最後の一つだけ少し強い」

「声は」

「今は低いかもしれない」

「知らない?」

「七年」

「写真は」

「ハルが持ってる」

「本人が?」

「私の」

「じゃあ、リラの目印」

「兄さんの目印じゃない」

「両方」

「同じにしないで」

二人が少し笑う。

「一刻」

ザンバが言う。

「寝ろ」

「半刻」とリラ。

「一刻」

「外周が」

「俺が聞く」

「分かる?」

「五つなら」

「兄さんは」

「分からん」

「じゃあ」

「分からんと残す」

ナギの言葉を、ザンバが使う。

リラは不満そうに椅子へ座る。

五呼吸後、眠った。

ナギは驚く。

「早い」

「七年ぶん疲れている」とザンバ。

「返事が来たら起こす?」

「特徴が合えば」

「合わなければ」

「起こさない」

「本人が怒る」

「起きてから聞かせる」

「記録は?」

「お前が書け」

「私も寝る」

「俺が書く」

「字、読める?」

「読める」

カナタが顔を出す。

「俺も!」

「お前は寝ろ」と三人。

「さっき三百呼吸!」

「今、うるさい」とルゥ。

ナギも椅子へ座る。

対鈴の細い振動をザンバへ渡す。

「一刻」

「分かっている」

「返事が来たら」

「呼ぶ」

「返事なしも」

「残す」

少女は目を閉じた。

すぐには眠れない。

待つことを誰かへ渡すのが、怖い。

それでも、十呼吸。

二十。

船団の音が遠くなる。

ザンバの椅子が隣にある。

返事を一人で持たなくていい。

やがて眠った。

世界の果ては、一刻ぶんも逃げなかった。

ナギが目を覚ましたとき、対鈴の前に三枚の札があった。

一枚目。

――外周。五つ。特徴、違う。

二枚目。

――無灯泊。移動開始。三、間、一。