第106話 第五章「返事の間」後編

三枚目。

――三番港。返事なし。

「三番港?」

ナギの眠気が消える。

連標網の途中。

ミナモ。

三番港。

トマリギ島。

カゲノハ村。

三番港が返さなければ、後ろの声が前へ来ない。

「もう一度」

鈴を鳴らす。

返事なし。

「風が変わった?」

ルゥが星図を見る。

「夜海と三番港の間は、ミナモの銀枝標を通る。ミナモは?」

四回。

最後だけ高い。

キリの返事。

『聞こえてる』

「三番港!」

『返事なし』

「何があった!」

『分からない』

「行く!」

カナタが白旗を取る。

「遠い!」

「道を作る!」

「星渡り二刻前!」

「返事がない!」

ナギも椅子から立っている。

同じ衝動。

自分が聞かなければ。

自分が行かなければ。

七年前の母を探したときと同じ。

舌先で五拍を数える。一、二、三、四、五。四つ目で金属味が出た。ナギは立ったまま片目を閉じ、響路士席の背を探す。

返事がない場所へ自分の道を全部曲げれば、今いる船の返事を聞く者がいなくなる。それを理解しても、体は先へ出ようとした。

「道具のほうが疲れた」

ルゥは言い訳を受け取らず、椅子をナギの膝裏へ入れた。

「待つ」

言ったのはザンバだった。

「返事がないのに?」

「お前が寝ている間、三度呼んだ」

「三度で?」

「決めない」

男は三枚目の札を示す。

――返事なし。

――消失、未確認。

「ほかの道」

ルゥが星図へ銀鋲を置く。

三番港を通る道。

ミナモから鐘歩島へ回る道。

鐘歩島からトマリギ島。

遠い。

「迂回すれば、今のカゲノハ村へ届く」

「三番港は?」

「別に呼ぶ」

「一つの音路が切れても、全部消えない」

ナギは帳面へ二本の線を書く。

「連標網」

今度は、名前としてはっきり書く。

一つの長い縄ではない。

切れたら、別の標を通る。

返事がない標は、ないことにしない。

そこだけ空白で残す。

「鐘歩島!」

ナギが呼ぶ。

五拍子。

スズの返事。

『三番港、今朝から雨壁』

「見える?」

『旗は見える。人の返事なし』

「ミオは?」

『昨日、森歩島へ荷を取りに』

「港に誰もいない?」

『交代の人がいるはず』

「寝てるかも」

ルクが言った。

「寝てたら、返事しない」

「今まで寝なかった」とナギ。

「だから、今寝てるかも」

言葉が胸へ入る。

待つ人も休む。

返事がないことは、事故だけではない。

眠り。

仕事。

風。

壊れた鐘。

「五呼吸ごとに呼ばない」

ナギは鈴を下ろす。

「何呼吸?」とカナタ。

「百」

「長い!」

「別の道を作る」

ミナモ。

鐘歩島。

トマリギ島。

カゲノハ村。

音は遅れて届く。

途中で、キリが四回。

スズが五拍子。

イオラの対鈴が二回、間、三回。

最後にアカリ。

『聞こえてる』

「三番港の返事がない」

『記録した』

「心配?」

『する』

「行く?」

『今、南橋の薬配達』

「行かない?」

『遠い。代わりに、三番港へ向かう交易船へ札を預けた』

「待つ?」

『待ちながら動く』

「同時?」

『別の人が現標板にいる』

「誰」

『トウヤ』

向こうで、板を叩く音。

『今、ここ!』

アカリだけが待っているのではない。

村全体で返事を回す。

「ナギ」

カナタが言う。

「何」

「三番港が返さなくても、ミオはいるかもしれない」

「うん」

「寝てるかもしれない」

「うん」

「でも、事故かもしれない」

「うん」

「どれだ!」

「まだ分からない」

「面倒!」

「だから札」

百呼吸。

もう一度。

三番港へ呼び声。

返事なし。

さらに百。

三回目。

かすかな銅音。

一度。

間。

五つ。

『聞こえてる!』

ミオの声。

「遅い!」

『雨壁で戻れなかった!』

「交代の人は!」

『寝てた!』

「本当に!」

『四日ぶん!』

「長い!」

『前は私が寝てなかった!』

ミオは息を切らしている。

『返事なし札、残った?』

「残した」

『消して』

「消さない」

「返事来たぞ!」とカナタ。

「返事がなかった時間も、今までの道」

ナギは三枚目へ追記する。

――三番港。

――返事なし、三回。

――原因、雨壁と交代者の睡眠。

――現在返答、あり。

『恥ずかしい!』

「消さない」

『次は起こす!』

「交代で寝て」

『難しい!』

「今、覚えた」

ナギは少し笑う。

返事がない札は、恐怖だけではない。

眠った人が、あとで戻ってこられる空白になった。

カゲノハ村では、その夜、現標板の前に五脚の椅子が並んだ。

一脚目。

アカリ。

二脚目。

トウヤ。

三脚目。

セノ。

四脚目。

ハルガ。

五脚目。

セルク村長。

「村長の椅子だけ大きい」

トウヤが言う。

「腰だ」

「役職じゃない?」

「腰だ」

アカリは当番板を立てる。

第一刻。

アカリ。

第二刻。

トウヤ。

第三刻。

セノ。

第四刻。

ハルガ。

第五刻。

セルク。

「五刻で足りる?」

セノが訊く。

「足りなければ、次の五刻」

「寝る?」

「当番じゃない人」

「カナタなら寝ない」

「三呼吸で寝る」

「同じじゃない?」

「寝たことに気づかないだけ」

現標板には、遠い夜の札が増えていた。

第一歩号。

ノクティル。

無灯泊。

返事なしの外周十二。

ミナモ。

三番港。

トマリギ島。

同じ大きさの札ではない。

返事の時刻も違う。

使う鐘も違う。

それでも、一本の線へ並べず、網のように置く。

《連標網》

アカリが新しい板へ名前を書く。

「ナギが決めた?」

「うん」

「字、きれい?」

「聞こえたのはルゥ」

「じゃあ、ナギの字は?」

「青い帳面」

「見たい」

「帰ってきたら」

「いつ?」

「本人たちが決める」

アカリは黄緑の旗を薬箱の横へ結び、背負う。

「どこ行くの」

トウヤが訊く。

「南橋。熱冷まし」

「待たないの?」

「第一刻、終わり」

「返事が来たら?」

「トウヤが聞く」

「間違えたら?」

「分からなかったって書く」

「怒らない?」

「心配はする」

「戻る?」

「配達のあと」

立ち上がった瞬間、アカリの視界が一度だけ暗くなった。黄緑旗の石突を杖代わりにせず、南橋の手すりへ右手を置く。左手は薬箱を渡すために空けておく。

「眩暈、一。歩行、可」

自分の症状を札へ書くのは嫌いだった。それでも今夜は、待つ側にも現在地が要ると知っている。トウヤは冗談を挟まず、その一行も当番板へ写した。

アカリは現標板から離れる。

待つ場所へ背を向けても、待つことをやめたわけではない。

誰かへ渡した。

南橋へ向かう道。

出航の日より広い。

手すりは三本。

明日は二本になるかもしれない。

橋の途中で、帰還路の風が吹く。

『たまには帰れ』

アステルの古い声。

アカリは足を止めない。

「今、配達中」

返事をする。

記録は答えない。

それでも、声へ今を重ねる。

現標板では、トウヤが五つ叩いた。

遠いノクティルから返事。

ナギではない。

ザンバの低い音。

『響路士、睡眠中。第一歩号、星渡り準備。今、ここ』

トウヤは板へ書く。

字を一つ間違える。

消さない。

横へ正しい字を書く。

「返事あり!」

村中へ叫ぶ。

セノが作業机から五つ。

ハルガが朝見台から。

セルクが発着場から。

最後に、南橋のアカリ。

薬箱の底を五回。

「カゲノハ村、今、ここ」

五つの場所から、同じではない音が返る。

連標網の最初の網目が、遠い夜へ張られた。

先星号の甲板には、船団の代表が集められた。

畑船。

 寝台船。

 工房船。

 治療船。

 外周小舟。

全員、歩きながら会議をする。

甲板の床がゆっくり回っているため、立ち止まると発言者の前を通り過ぎるのだ。

「暗舟は生きています」

リラは星図の端へ、ラナ号から持ち帰った縄の切れ端を置く。

「食料を持ち出した跡。船をつないだ跡。五つの返事」

ルゥが銀鋲を添える。

「この糸は、ラナ号の先で二十七本に分かれた。さらに先がある」

ナギは現標板を広げる。

「少なくとも六方向。返事は中継されている。同じ残響ではない」

「人数は」

畑船の代表が訊く。

「未確認」

「船数」

「二十七以上」

「位置」

「移動中」

「兄は」

マーレが訊いた。

リラが顔を上げる。

灯主は星図を見たまま。

「未確認」

ナギが答える。

「でも、五つの合図を知る者がいる」

「無灯泊」

マーレが言った。

誰も教えていない名だった。

リラの拳が止まる。

「知ってたの」

「噂だけだ」

「いつから」

「七年前から」

甲板の回転音が大きく聞こえる。

「星を持たぬ船が、ネブラの影で生き延びる。灯を消し、音で互いをつなぐ」

「じゃあ、兄さんも」

「生きている証にはならない」

「死んでる証にもならない!」

マーレの金旗が揺れた。

星図の針はアウラを指したまま、僅かに震えている。

「無灯泊は、泊星を持たない。速度はノクティルの五分の一以下。今から迎えに戻れば、アウラへ着く前にリュミナが食われる」

「リュミナは残しても食われる」

「船団は次へ渡る」

「暗舟は?」

「自分たちの道を選んだ」

「選んでない!」

リラの拳が星図を叩いた。

「灯索を切られたの!」

白い点が揺れる。

何人かの航路士が顔を伏せる。

マーレは目を逸らさない。

「切らなければ、船団全体が止まった」

「止まればよかった!」

「七年前、止まった」

声が低くなる。

「ノイ号の炉が落ちたとき、私は全船へ減速を命じた。二刻、修理を待った」