第107話 第六章「今の村から五つ」前編
リラが黙る。
初めて聞く話らしい。
「その二刻で、ネブラは一つ先の泊星を食べた。航路を失った外周船が百三十六隻、影潮へ流された」
「兄さんの船は、そのあと切った」
「ああ」
「二刻待ったから?」
「二刻しか待てなかったからだ」
マーレの左手の火傷が、星図の端へ触れた。
白い星図の境目を見失わないよう、火傷した指で炭線をなぞる。古い脱臼の肩はもう上がり切らず、金旗の石突を甲板へ預けていた。
止まれば大量死を招く。判断を渡せば船団が崩れる。二つの恐怖に触れると、マーレの視線は必ず出口へ固定される。今も、リラではなく退路を一度見た。
それでも七年前の人数を「損失」ではなく、一隻ずつ船名で言い直した。自分の正しさを守るための数字にはしなかった。
「私はノイ号へ戻った。炉は直っていなかった。だが、ハルは灯索を握っていた」
「何て言ったの」
「切れ、と」
「嘘」
「『リラを先へ』と言った」
「嘘!」
「最後に五つ、叩いた」
マーレの声が掠れた。
「聞こえていた」
リラの目から、涙が一粒落ちる。
「じゃあ、なんで夜鳴りって」
「そう呼ばなければ、進めなかった」
「進むために、兄さんの声を消したの?」
「消えてはいない」
「返事しなかった!」
「灯主は全船へ答える」
「一人には?」
マーレは答えない。
会議の輪が回る。
代表者たちは同じ場所を何度も通る。
「船団を止める案はない」
工房船の代表が言った。
「休泊肋は七年前に撤去した」
「図は残ってる」とルゥ。
全員が見る。
「バルドから借りた」
「古い失敗図だ」
「失敗した場所が分かる図」
「明朝までに作り直せるか」
「全船同じなら無理」
「違えば?」
「もっと時間が要る」
「では使えん」
マーレが結論を出す。
カナタが星図へ飛び乗った。
「船団のみんなに聞けばいい!」
「降りろ」
「高いほうが聞こえる!」
「それは星図だ」
「船団のみんなーっ!」
「声の道を使わないで!」
ルゥが止める前に、カナタは白旗を振った。
「標術――《未踏路》! 声の道!」
一歩分の光板が口元へ生まれる。
声が板を蹴るように跳ね、灯索へ乗った。
『暗舟に、生きてる人がいる!』
橋を走る人々が顔を上げる。
工房。
寝台船。
畑船。
子どもたち。
『今迎えに戻れば星渡りが遅れる! 先にアウラへ行けば、暗舟を見失うかもしれない!』
「何を訊く気?」
ルゥが額を押さえる。
「分からない!」
「決めてから叫びなさい!」
『どうしたい!』
船団中に、問いだけが響いた。
長い沈黙。
最初に答えたのは、寝台船の老人だった。
『戻れ』
別の船から、若い母親。
『子どもを先へ!』
『暗舟に父がいる!』
『アウラを逃したら全員死ぬ!』
『置いていくな!』
『今は渡れ!』
『一隻ずつ拾え!』
『そんな時間はない!』
声が重なる。
同じ答えにはならない。
誰も間違っていない。
誰も、全部を見てはいない。
「ばらばらだ」
カナタが呟く。
白旗の端をつまむ。いつものカナタなら、ばらばらな返事を全部自分の「行く」へ重ねていた。
今は、声の向こうへ別々の寝台、子ども、父、炉があると聞こえた。救助の才能が本物でも、七千人の一歩を先に踏めるわけではない。
「当たり前」とルゥ。
「みんなの今が違う」
「じゃあ、どうやって決める」
「叫ぶだけじゃ決まらない」
ナギが灯索の音へ耳を澄ませる。
「返事が重なりすぎて、誰がどこから言ったか分からない」
「もっと大きく聞く!」
「聞こえなくなる」
「じゃあ一人ずつ!」
「七千人」
「七千回!」
「明朝」
カナタの口が止まる。
時間がない。
できるまでやる、と言えば、時間が増えるわけではない。
「今決められる人だけで決める」
マーレが言った。
金旗の握り位置が一指上がる。怒りではなく、権限を手放す怖さが出た。
全船を一人で答える制度をやめたい。その望みはある。けれど、今ここで権限を分けて事故が起きれば、自分が七年前の失敗をもう一度作る。マーレはその矛盾を隠さず、代表者の顔を一人ずつ見た。
「灯主と各船代表。星渡りを先に行う。アウラ到着後、無灯泊を探す」
「見失ったら?」
リラの問い。
「探す」
「七年かかっても?」
「探す」
「今の返事?」
ナギが訊く。
マーレは一度、目を閉じる。
「ああ」
現標板へ書かれる。
――暗舟捜索。アウラ到着後。
――灯主、返答あり。
リラは納得していない。
それでも、消すなとは言わなかった。
会議が終わる。
全員、歩いたまま別の道へ流れていく。
カナタは星図から降りる。
「聞いたのに、決まらなかった」
「聞けば一つになると思った?」
「少し」
「三番目で覚えたでしょ」
「違う道でも仲間!」
「違う答えのまま、今できる形を作るの」
「それ、何番目?」
「まだない」
ナギが言った。
「だから、まず誰がどこで答えたか分ける」
「七千人」
「一人で聞かない」
「誰が?」
「それぞれの船」
「船が聞く?」
「船の人」
カナタは先星号の周囲を見る。
先頭からは、七千人が一つの船団に見える。
外周からは、一隻ずつ違う。
「中心じゃなくて?」
「返事の場所ごと」
ナギは現標板へ、何百個もの小さな空欄を描き始めた。
星渡りまで、あと二刻半。
出航名簿の七千二百四十一人は、今朝そこにいた。
今も同じ場所にいるとは限らなかった。
「第一畑船!」
ナギが灯索へ呼びかける。
『返事あり!』
「乗員」
『百八十二!』
「今、船外」
『四人、第二水船!』
「治療船」
『二人!』
「戻ってない人」
『一人、星豆の買い出し!』
「どこ!」
『分からない!』
名簿の百八十二という数字は変わらない。
だが、現在地は分かれている。
ナギは板へ書く。
――第一畑船。船内百七十五。
――他船六。
――一名、位置未確認。
「減った!」
カナタが言う。
「人数は減ってない」
「分からない一人!」
「消さない」
空欄を残す。
「次!」
第二寝台船。
船内二百三十。
眠っていて返事できない者、七十六。
起きている者がまとめて答える。
「眠ってる人は、いる?」
「いる!」
「数え方は?」
「寝台札!」
「今朝から移った人」
「三人!」
「札は?」
「前のまま!」
名簿と現在地がずれる。
第三工房船。
炉室へ下りた者の声は届かない。
仲間が答える。
外周小舟。
船名板が入れ替わり、名簿の名と今の船が違う。
治療船。
生まれたばかりの赤子が一人。
名簿にはまだいない。
泣き声だけで元気と決めず、呼吸の浅さ、皮膚の色、握る指を別々に見る必要がある。船医がそう返すあいだ、ルクは新しい札へ名前ではなく出生時刻だけを書き、三重結びの最後を空けた。
名前を決めるのは、母と子が休めたあと。今必要なのは名欄を埋めることではなく、冷えるたび濃くなる右肩の赤みを見落とさないことだった。
「増えた!」
カナタが喜ぶ。
「朝から一人」
「名前は!」
『まだ!』
「じゃあ空白旗!」
『勝手につけるな!』
「今の返事!」
ルゥが後頭部を叩く。
点呼は進まない。
一隻に十呼吸。
四百隻なら、星渡りが始まってしまう。
ナギの小鐘へ、声が重なる。
『こっち!』
『返事!』
『誰を呼んだ!』
『一人足りない!』
『二人多い!』
『外周十七番、聞こえるか!』
響路が熱を持つ。
ナギの耳から血が一筋流れた。
舌へ金属味。左耳の栓を替える指が、穴を一段間違えた。片目を閉じたせいで、隣の現標板までの距離がずれる。
「右」とルゥ。
「私の?」
「船の。私の声へ合わせて」
ナギは聞き分けを一人で立て直さず、ルゥの位置を奥行きの基準へ借りた。聞こえる音が増えるほど、必ず正しくなるわけではない。
「止めて」
ルゥが小鐘を押さえる。
「まだ半分も」
「耳が切れる」
「返事が」
「ナギが返せなくなる」
「一人で聞くなと言っただろ」
ザンバが現標板を見る。
「でも、各船の聞き方が違う」
ナギは唇を噛む。
「五つを教える時間がない」
「一つでもいい」
「合図が混ざる」
「今は完璧な網を作る時間じゃない」
ルゥはミナモの白い帳面を開く。
四番目の旗。
途中を次の手へ渡す。
「今できるところまで書いて、各船へ渡す」
「失敗したら?」
「返す」
「星渡りの途中」
「次の船が直す」
ルゥは帳面へ大きく描く。
呼び声。
返事。
返事なし。
代理返答。
位置未確認。
「五つの音じゃなくても、欄を同じにする」
「音が違っても?」
「意味を合わせる」
ナギが考える。
「船ごとの合図を使う」
「どんな」
「畑船は鍬を三回。工房船は炉弁を二回。寝台船は寝台札を上げる」
「ばらばらだぞ」
「返事があることは同じ」
「返す人を一人決める?」
「一人に集めない」
ナギは各船の現標板を描く。
「区画ごとに聞く。最後に、返事のない欄だけ上へ送る」
「全部の返事は?」
「その船に残す」
「第一歩号が中心じゃない?」
カナタが訊く。
「一つの中継」
ミナモで聞いた答え。
「船長なのに」
「世界の船長じゃない」とザンバ。
「分かってる! 嫌なだけ!」
ルゥは銀糸へ図を流す。
工房船の機巧師が写す。
次の船。
紙。
布。
木板。
形の違う現標板が作られていく。
第一畑船の位置未確認者は、焼き星芋屋で見つかった。
口いっぱいに芋を詰め、呼び声へ答えられなかった。
「いた!」
カナタが喜ぶ。
「代金は?」
『払った!』
「返事あり!」
空欄が埋まる。
だが、別の船で空欄が増える。
今朝の名簿は、間違っていない。
今を全部は知らないだけだった。
「名簿を捨てる?」
カナタが訊く。
「残す」
ナギは今朝の数字の隣へ、新しい欄を作る。
「来た道」
「今の板は?」
「今いる場所」
「どっちが正しい?」
「両方」
「数字が違うぞ」
「だから今を聞く」
朝鐘が二つ鳴った。
星渡りまで、あと一刻。