第108話 第六章「今の村から五つ」後編
船団の半分で、初めて自分たちの現在地を数える作業が始まった。
薄青い泊星アウラは、遠くで一度だけ大きく光った。
ノクティル中の人々が顔を上げる。
次の瞬間。
星の下半分が、黒く欠けた。
「ネブラ!」
外周から警鐘が走る。
星喰いは、泊星リュミナではなく、先にアウラへ回っていた。
ネブラの尾は、アウラへ向くより先に別の方向を五度打っていた。頭が追いつくまでに時間がかかるため、航路士が「急に回った」と見た進路は、実際には数日前の星熱へ向けた変更だった。
口縁の内側では、呑んだ星の光が速く散っていた。それが空腹のときの動きだった。無灯泊の弱い低周波は避け、人工星のような強い熱へは遠くからでも寄る。
倒すべき意思ではなく、読み違えれば町を呑む回遊生物だった。
巨大な口が薄青い炎を呑む。
一口。
星の半分。
二口目。
光が消えた。
星図の行き先が、黒い布から剥がれる。
「アウラ消失!」
「次の泊星は!」
「赤星セレナ、六百枝里!」
「通常航行、七日!」
「リュミナは三刻で食われる!」
船団がざわめく。
今まで前を指していた標柱が、一斉に回る。
行き先を失い、同じ場所で回り続ける。
人々の足も止まりかける。
後ろから来た荷車がぶつかる。
「止まるな!」
航路士たちが叫ぶ。
「前がない!」
「回れ!」
「どっちへ!」
カナタは白旗を掲げた。
「赤星へ道を作る!」
「六百枝里!」とルゥ。
「着くまで!」
「七千人を七日、一人で支える気!?」
「できるまで――」
言葉が止まる。
できるまでやる。
だが、泊星リュミナは三刻でなくなる。
無灯泊は夜の外で動いている。
今いる船団の人数さえ、まだ数え終わっていない。
「一人じゃ無理」
カナタは言った。
自分でも驚いた顔になる。
「今、認めた?」
「でもやる!」
「後半で戻った!」
「一人じゃなく!」
先星号の鐘が鳴る。
金色の光が全船へ伸びた。
マーレの声。
『全船、標力接続』
人々が自分の道標旗を掲げる。
鍛冶師の炎。
農師の芽。
寝台師の夢。
灯拾いの星。
それぞれの紋から、細い光が灯索へ流れ込む。
「何をする気」
ルゥの顔が強張る。
泊星リュミナの上。
何千本もの光が一つへ集まり、小さな白い球を作った。
「《追星》で、人工の泊星を作る」
ザンバが低く言う。
「全船の標力を燃料にする気か」
「赤星まで保たせる」とマーレの声。
『泊星がないなら、船団自身が星になる』
「人の旗だぞ!」
カナタが叫ぶ。
『生きるために使う』
「全部同じ星へ?」
ルゥが灯索へ銀鋲を当てる。
農師の力が、前へ進む重さへ変わる。
寝台師の標術も。
子どもの旗も。
違う生き方が、一つの白い光へ潰されていく。
「止めて!」
『ほかに六百枝里を渡る方法があるか』
「今考えてる!」
『時間がない』
マーレの金旗が輝く。
「標術奥義――《万灯追星》」
人工星が生まれた。
白すぎる光。
星図の空白へ、一本の金線が伸びる。
赤星セレナ。
六百枝里。
ノクティル全船の船首が、同時に向く。
人々の足が前へ出る。
疲れていた者も。
眠っていた者も。
怪我をしていたキトも。
目を開く。
十三歳。右脚の固定具は外れかけ、昔の肩の脱臼で腕を上げ続けられない。体調によって焦点距離が変わるため、朝ごと「今日は三十歩目」と見える距離を申告していた。
今は人工星が痛みも眠気も前へ燃やし、「一呼吸だけ借りる」と休む言葉さえ出ない。動けることが、いる証明へ置き換わっていた。
「眠くない」
第三寝台船で、キトが呟く。
周囲の人々も起き上がる。
吊り寝台が空になる。
「《不眠航》」
バルドが歯を食いしばる。
「眠りへ使う標力まで、前へ燃やしている」
「休めない?」
「旗が尽きるまで」
人工星が一度脈打つ。
船団が加速した。
泊星リュミナから、六本の星錨が一斉に抜ける。
別れを惜しむ時間はない。
白金の星は後ろへ流れる。
ネブラがアウラの最後の光を呑み込み、こちらを向いた。
夜海で最も明るいもの。
人工星。
「星喰いが来る!」
「赤星まで逃げ切る!」
マーレの声。
ノクティルは眠らない光となって、夜を走り始めた。
現標板の点呼は、半分で止まっていた。
不眠航が始まって一刻。
誰も眠らなかった。
眠くならないのではない。
眠りへ落ちる直前、人工星が体を前へ引く。
目が開く。
足が動く。
手が仕事を続ける。
「便利じゃないか」
カナタが言った。
ルゥが無言で工具を投げる。
白旗で受ける。
「冗談!」
「顔が半分本気!」
「眠くないと、世界の果てへ早く――」
二本目の工具。
「全部冗談!」
キトは第三寝台船で毛布を運び続けていた。
右足の銀板は外れている。
傷口が開いている。
本人は痛みに気づかない。
キトは毛布の柄を相手側へ向けて渡し続けた。敵へでも道具の柄を向ける癖がある。自分の右脚から血が落ちても、次の寝台へだけ「休んで」と言う。
「一呼吸だけ借りる?」とナギ。
「今は、いらない」
休憩を他人へだけ勧め始めると、ルクは決まって毛布を取り上げた。本人が限界を認めるより、その癖のほうが早かった。
「止まって」
ナギが呼ぶ。
「眠くない」
「足」
「動く」
「今、痛い?」
「分からない」
返事はある。
今の体が分からない。
ナギは現標板へ書けず、筆を止める。
「返事があっても、自分のここが聞こえない」
「人工星の声が大きすぎる」
リラは黒い耳飾りを押さえている。
船団中の灯索が、同じ前進音を鳴らしていた。
ごおん。
進め。
ごおん。
眠るな。
ごおん。
赤星へ。
五つの音が聞こえない。
「兄さん」
リラが夜の外を見る。
「さっきまでいた」
「今もいるかもしれない」
「聞こえない」
「消えたとは書かない」
ナギは暗舟の欄へ線を引かない。
――現在、受信不能。
「返事なし?」
「聞けない」
「同じじゃない?」
「違う」
耳が塞がれたのか。
相手が答えないのか。
相手がいないのか。
同じ空白へしない。
「全部書くの、遅い」
「急ぐと一つになる」
「船団は進んでる」
「今は進みすぎ」
人工星の光が強くなる。
ノクティルの船々が、同じ速度へ引かれる。
軽い小舟は速すぎる。
重い畑船は炉を焼く。
寝台船は空の寝台を揺らす。
灯索が一つずつ張り詰める。
「速度を分ける!」
ザンバが灰旗を振る。
「《岐点》!」
黒い点が金線へ入る。
一つの追星路を三つへ分ける。
小舟。
中型船。
重船。
だが、人工星が三本をすぐ一つへ戻す。
「分かれない!」
「全員の標力で、同じ前を望んでいる」
「望んでるの?」
カナタが訊く。
「旗が使われている」
「本人は?」
「聞かれていない」
マーレの命令。
生き残るため。
多くの人は頷いた。
全員ではない。
今どこにいるかも、今何が痛いかも聞かれないまま、旗だけが前へ使われている。
「返してもらう!」
カナタが先星号へ向かおうとする。
ナギが腕を掴む。
「今、どこ」
「マーレのところ!」
「体」
「ここ!」
「眠い」
「眠くない!」
「不眠航」
「だから平気!」
カナタの右膝は、本人の返事より先に震えていた。不眠航は痛みを治していない。ただ、痛いと答える道を前進音で塞いでいる。
ルゥはその膝を見てから頬をつねった。船長を止めるためではなく、本人の体へ本人の返事を返すためだった。
ルゥが頬をつねる。
「痛っ!」
「痛い?」
「痛い!」
「今の体、分かった」
「物理で確認するな!」
「誰かが止めないと、あんたも自分を数えない」
ナギは手を離す。
「先星号へ行く前に、第一歩号」
「いる!」
「炉」
「燃えてる!」
「帆」
「半分!」
「仮留め輪」
「船首!」
「ルゥ」
「操舵!」
「ザンバ」
「金線を分けている」
「リラ」
「暗舟を聞いてる」
「ナギ」
「響路」
「全員」
「今、ここ」
五人の声。
一隻ぶんの現在地。
「よし!」
カナタは白旗を担ぐ。
「今度こそ先星号!」
「一呼吸止まっただけ」とルゥ。
「十分!」
第一歩号が人工星の金線へ乗る。
その瞬間、外周で一本の灯が消えた。
古い客船。
船体の名は《ユメ号》。
星熱炉が人工星へ吸われ、火を失った。
灯索の留め金が自動で外れる。
「外周一隻、脱落!」
警報。
「再接続!」
航路士が金線を伸ばす。
届かない。
ユメ号は船団の外へ流れる。
乗員名簿。
四十二人。
今朝の数字。
「今、何人!」
ナギが呼ぶ。
返事はない。
不眠航の音が大きすぎる。
「リラ!」
マーレの声が灯索を走る。
『切れ』
リラの顔が固まる。
七年前と同じ言葉。
「灯拾い」
『切れ』
ユメ号の暗い船腹から、何かが叩かれた。
一つ。
二つ。
途中で止まる。
五つにならない。
「返事!」
リラは夜色の旗を握る。
『残響だ』
「今、落ちた船!」
『戻れ』
「拾う!」
『船団を遅らせるな!』
「今度は、切らない!」
リラは暗闇へ跳んだ。
ユメ号まで、七歩。
足場はない。
「リラ!」
カナタが白旗を振る。
「ユメ号の手前!」
一歩分の光板。
リラが踏む。
二枚目。
三枚目。
人工星へ引かれ、光板が前へ曲がる。
「そっちじゃない!」
リラは夜色の旗を広げた。
五つの点が、暗いユメ号へ向く。
「私の今は、あっち!」
曲がりが一呼吸止まる。
最後の一歩を跳び、ユメ号へ着地した。
「第一歩号、離脱!」
カナタが叫ぶ。
「勝手に決めない!」
ルゥが怒鳴る。
「でも行く!」
「今の返事!」
操舵輪を切る。
ザンバが灰旗を振った。
「《岐点》」
第一歩号と人工星をつなぐ金の道へ、黒い点が入る。
一本は船団へ。
一本はユメ号へ。
「選べ」
「ユメ号!」
カナタ。
「ユメ号!」
ルゥ。
「ユメ号」
ナギ。
「同じだ」
ザンバ。
第一歩号が横へ外れた。
後続船の間を抜ける。
帆が灯索をかすめる。
仮留め輪が一枚の標柱を弾き飛ばす。
「第四翼が!」
「今は見ない!」
第一歩号は、置き去りになった四十二人の船へ向かった。