第109話 第七章「星渡り会議」前編

ユメ号へ追いつくまでの三十呼吸で、ナギの小鐘へ二百を超える声が入った。

『第一歩号、戻れ!』

『外周二番、灯索が張る!』

『畑船、炉温上昇!』

『暗舟の音が消えた!』

『ユメ号、応答せよ!』

『カゲノハ村、聞こえる!』

『ミナモ標、返事!』

『誰の呼び声だ!』

『今どこだ!』

すべてが同じ鐘へ重なる。

ノクティル。

ユメ号。

暗舟。

連標網。

今の呼び声。

遅れて届いた呼び声。

古い残響。

その中で、五つの低い打音が鳴った。

こん。

こん。

こん。

こん。

最後だけ強い。

「ユメ号、右下!」

ナギは叫んだ。

ルゥが操舵輪を切る。

第一歩号が灯索の下へ潜る。

「見えた!」

カナタが白旗を振った。

暗い船影。

帆を畳み。

灯を落とし。

船腹へ五つの白い跡。

「ユメ号!」

「違う!」

リラの声が、ナギの隣で裂けた。

暗い船が急に横を向く。

畑箱を積んだ《ササメ号》。外周の小さな栽培船だった。

船腹の白い跡は打音ではない。

星熱で焼けた補修板が五枚。

その向こうから、工房船の炉弁四回と、カゲノハ村の一音目が重なって届いていた。

四つと一つ。

ナギの耳には、ユメ号の五つに聞こえた。

金属味はとうに舌全体へ広がり、左右の鈴が同じ高さに聞こえていた。片目を閉じた視界では、船影の奥行きも一枚の黒へ潰れている。

ナギは帳面へ「ユメ号」と書きかけた。左手の筆先を止めたのは、リラの現場記憶だった。四つ目のあとに、兄の息がない。

帳面の区分だけでは、船を見分けられない。そこに暮らした人しか持たない差がある。

「前!」

ササメ号の船員が叫ぶ。

二隻の間に、細い水索。

畑船へ根水を送る管だった。

「切るな!」

「止める!」

ルゥが仮留め輪を逆へ回す。

五回。

一呼吸。

ササメ号の揺れを受ける。

第一歩号は水索の手前で横へ滑った。

船首の鍋蓋が管をかすめる。

根水が一滴だけ夜へ飛んだ。

「一滴!」

カナタが取ろうとする。

「今は触らない!」

ルゥが工具を投げる。

ササメ号から怒鳴り声。

『右畑、乾くところだった!』

「すまん!」

ナギが叫ぶ。

『響路士が間違えたのか!』

言葉が胸へ刺さる。

ナギは小鐘を握り直す。

「もう一度聞く」

「待って」

リラが手首を掴んだ。

「兄さんの音じゃない」

「最後が強かった」

「兄さんは、四つ目のあとで息を吸う」

リラは耳飾りを五度触り、実際に息を入れてみせた。こん、こん、こん、こん――吸う――こん。音の高さではなく、作業で疲れた兄が必ず置く間だった。

「灯索を握る手が滑るから。五つ目だけ、打つ場所も半指低い」

ナギの帳面にはない現場の記憶。兄を信じたい感情ではなく、八歳のころ隣で何度も聞いた生活の差だった。

「聞こえなかっただけかも」

「そうかもしれない」

「じゃあ、ユメ号かもしれない」

リラはナギの手首を離さないまま、黒い耳飾りを五度触った。兄であってほしい自分と、違う音を違うと言う灯拾いの仕事を、同じ手で持っている。

「私も、兄さんにしたい。でも、今の船を間違えるほうが嫌」

感情が強いから現場判断が弱いのではない。感情を知っているから、どこで自分が誤るかも知っていた。

「違うかもしれない」

リラは怒っていた。

ナギへではない。

兄の音であってほしい自分と、違うと言い切れない夜へ。

「兄さんだと言える?」

「言えない」

「兄さんじゃないと言える?」

「言えない」

「なら」

リラが現標板の空いた欄を指す。

二人は同時に書いた。

――五打音らしき重なり。

――発信者、未確認。

――ユメ号位置、未確認。

「追わない?」

カナタが訊く。

「今の音だけでは」

ナギは答えた。

「目で見えるユメ号へ向かう」

ルゥが操舵輪を戻す。

遠くの船影。

リラが知る、船尾の欠けた黒板。

ハルが七年前に直した、斜めの帆柱。

音ではまだ確かめられない。

だから、見えたことと、聞こえなかったことを別々に残す。

「未確認を、空白のままにする」

ナギが言う。

「消さない」

リラが返す。

「勝手に兄さんへもしない」

「うん」

小鐘へ、また何十もの声が押し寄せた。

ナギは一つずつ分けようとする。

今度は、すべてへ名前をつけない。

ノクティルの外周警告。

発信者未確認の五打音。

カゲノハ村から来た可能性のある一音。

炉弁四回。

分けられない重なり。

最後の欄を作る。

――聞き分け不能。

耳から流れた血が、首を伝う。

「ナギ!」

ルゥが叫ぶ。

「聞こえてる」

「多すぎる!」

「返さないと」

「全部、あんたの返事じゃない!」

ルゥの左手首は銀糸の反動で赤く腫れ、髪の銀鋲は残り四本しかない。それでもナギの指を無理に剥がさず、声を別の受取人へ一本ずつ渡した。

つなぎ続ける役へ閉じ込められたくない少女が、今は「自分が全部つなぐ」のではなく、つなぐ仕事そのものを分けようとしていた。

「響路士」

「一人で道になる仕事じゃない!」

小鐘が熱で赤くなる。

ナギの指が離れない。

七年間、母の返事を聞き逃さないため、鈴を握り続けた手。

「放したら、消える」

「記録する!」

「今、来てる!」

「次へ渡す!」

ルゥが白い帳面を開く。

不完全な現標図。

船ごとに違う返事。

まだ半分しか配れていない。

「四番目の旗!」

帆柱に結ばれた灰青色の小旗が光る。

次の手へ渡す旗。

ナギの小鐘から、声を一本ずつ抜く。

ルゥの銀糸へ。

そこから、第一歩号の船腹へ。

「カナタ、叩いて!」

「何回!」

「来た数だけじゃ多い! 五つ!」

カナタは船腹を叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「第一歩号、返事あり!」

次に、ルゥが工具で二回。

かん。

かん。

「操舵、返事あり!」

ザンバが旗竿を一回。

ごん。

「船尾、返事あり」

「ナギ!」

ナギは小鐘を一回。

ちりん。

「響路、返事あり!」

「全部へ同じ声を返さない」

ルゥは銀糸を分ける。

「ノクティルには、第一歩号が目視したユメ号へ向かうことだけ」

「暗舟には?」

「現在受信不能。記録」

「さっきの五つは?」

「発信者、未確認」

リラが自分で言った。

「カゲノハ村」

「無事。あとで」

「あとで、って送る?」

「送る!」

ナギは初めて、小鐘を耳から離した。

音が途切れる。

全部は聞けない。

間違えることもある。

それでも、第一歩号の四つの返事が近くにある。

現標板へ書く。

――響路士。過負荷。

――一件、誤認。

――聞き分け不能、あり。

自分の欄。

「自分の失敗も書いた」

カナタが驚く。

「今の返事」

「休む?」

「一呼吸」

「長いぞ」

「三呼吸にする?」

「一呼吸!」

ナギは目を閉じる。

一呼吸。

その間に、ユメ号が近づく。

暗い船体。

斜めの帆柱。

リラが船縁で腕を振る。

もう一つの影が見える。

小さな少年。

船腹を叩こうとしている。

一つ。

二つ。

三つ目で、手が止まる。

寒さで動かない。

「返事できない!」

カナタが叫ぶ。

「いる!」

「返事なし」とナギ。

「いるぞ!」

「だから、消さない」

現標板へ灰色の輪郭を書く。

――ユメ号。目視あり。

――発声・打音不能。

――船内人数、未確認。

返事できない者も、今いる。

第一歩号がユメ号へ横づけする。

仮留め輪を下ろす。

船ごとに違う速度。

一呼吸。

輪が止まる位置を探す。

セノの図が、連標網を渡って届いた。

――五回動いたら、一呼吸、返事を待つ。

紙の端には、輪へ手を伸ばすカナタと、工具で叩くルゥの絵。

「俺だ!」

「触るなって絵!」

「似てる!」

「今は輪!」

ルゥは図を仮留め輪へ当てる。

五回転。

一呼吸止まる。

ユメ号の揺れを受ける。

次の五回転で、別の角度へ。

同じ形へ固定しない。

「止まり方を聞いてる」

バルドの言葉。

ユメ号と第一歩号の速度が、少しずつ重なる。

「今!」

ルゥが銀鋲を二隻へ打つ。

《継ぎ路》!」

銀糸が張る。

第一歩号はユメ号を引かない。

同じ場所へ押し込まない。

離れない距離だけをつなぐ。

二隻が夜海で並んだ。

「接続!」

カナタが飛び移る。

「点呼から!」とナギ。

「目の前!」

「今の人!」

リラが答える。

「四十二人。名簿では」

「今は?」

暗い船室から、弱い声がする。

「数える」

第一歩号の五人は、ユメ号の中へ入った。

ユメ号の船内には、眠れない人々がいた。

寝台へ横たわっている者も。

 壁へ背を預けている者も。

 炉室の前で工具を握ったままの者も。

全員、目だけが開いている。

《不眠航》に引かれ、眠りへ落ちる直前で何度も起こされていた。

「点呼!」

ナギが船室の入口で言う。

「名前を呼ぶ。返せる人は返事。声が出ない人は手。どちらも無理なら、隣の人が今見えていることを言って」

「一人ずつ?」

カナタが薄暗い船室を見回す。