第110話 第七章「星渡り会議」後編
「四十二人だぞ!」
「だから一人ずつ」
「俺ならまとめて――」
「まとめない」
「まだ何も言ってない!」
「顔」
ルゥが星熱炉の蓋を外しながら答えた。
「全部乗せる顔してる」
「一人ずつ抱えて第一歩号へ運ぶ!」
「もっと時間がかかる!」
ユメ号の名簿は、船長室の壁へ貼られていた。
四十二人。
朝鐘のあとに確認した数字。
けれど、今いる者が同じ四十二人とは限らない。
ナギは青い帳面を開いた。
「一番、ユエ」
「ここ」
寝台の上で、女は眼鏡のブリッジを押し上げた。二枚にぶれた像を重ねる癖がある。怖さで視野が中央へすぼむと、周囲の助けまで「いない」と見誤りやすい。
返事をした直後、外れた札を丸めて隣へ正確に投げた。日用品まで投げて渡すほど、投擲だけは異様に上手い。
「最初に返す役は私。次は隣」
落ち着いて見えるユエも、返答の弱い人から名簿上消えることを恐れていた。
寝台から声。
「二番、ソク」
返事がない。
リラが船室の奥へ走る。
「ソク!」
一人の老人が、壁へ手を置いて立っていた。
口が動く。
声は出ない。
七十一歳のソクは、一度長く息を吸い直した。声の代わりに、親しい者の前だけ道具を右手へ持ち替え、空いた左手で返事をする。
左の掌を胸へ。一度。次に、床を二度。本人が決めた「今ここ」の形だった。怒りを抑えると靴底を左右交互に三度こするため、今は床へ細い擦過音も残る。
声がないことと、返事がないことは同じではない。
「目視あり」
ナギは書く。
――ソク。返声なし。目視あり。自立、可。
「三番、ミナ」
寝台の下から、小さな手が上がった。
七歳のミナは、白い布と白い札の境を見分けにくい。寝台の縁へ自分で炭線を引き、その内側へ隠れていた。
上がったのは左手。食事だけ右手を使うのが家のしつけだった。見つけてもらいたいのに、「別に見なくていい」と炭で描いた魚を一番目立つ寝台札の横へ置く、七歳らしい見栄もある。
「ミナ、ここ」
唇を一直線にしたまま、自分の名で言い切る。本気で怖いときの返事だった。
「手、見えた!」
カナタが喜ぶ。
「返事あり!」
「声はなし」
「手も返事!」
「だから、手で返答と書く」
「同じじゃないのか?」
「同じにしない」
四番。
五番。
名前を呼ぶ。
返事。
手。
隣からの代理。
目視。
十六番の少年は、口を開いたまま何も言えなかった。
不眠航の白い光が瞳の奥で揺れている。
「聞こえる?」
ナギが膝をつく。
少年は瞬きを一度した。
「一回は、聞こえる?」
もう一度。
「二回は、違う?」
一度だけ。
「分かった」
帳面へ書く。
――聞き取り可。発声不可。瞬目で返答。
「そこまで分ける?」
リラが訊く。
「次に呼ぶ人が困らない」
「次もナギじゃないの?」
「分ける」
「誰へ」
「ユメ号の人」
ナギは少年の隣にいた女へ帳面を渡す。
「次の十人、お願い」
「私が?」
「名前、分かる?」
「同じ船だから」
「返し方も、今見た」
「間違えたら」
「分からないって残して」
女は帳面を受け取った。
ナギは次の区画へ走らない。
一つの船で、一人が全部を聞かなくてもいい。
「十九番、トマ!」
別の区画から声が飛ぶ。
「いない!」
「いつから」
「朝鐘のあと、外周修理船へ!」
「名簿ではユメ号」
「今は外!」
ナギは《連標網》の小鈴を鳴らす。
「外周修理船。トマ」
人工星の轟音が返事を押し潰す。
一度。
二度。
三度目。
『ここだ!』
遠い返声。
『ユメ号が落ちたって聞いた! 戻る!』
遠い声の前で、トマは修理札の端を直角へ揃えていた。二十五歳。朝はユメ号、今は外周修理船。近くの瞳孔変化まで見えるのに、遠景は霞む。
姿勢だけが不自然に正しくなり、声は名簿を読むときの硬さへ戻った。元の仲間から消える怖さに触れると、トマはそうやって気持ちを隠す。
『外周修理員として戻ります!』
今の役を主語へしてしまうほど、二つの所属を一つに選ばされるのが怖い。
「戻らないで」
『なんで!』
「今いる船を離れない。そっちの現標板へ名前を移して」
『ユメ号の名簿は!』
「朝の記録として残す」
『俺、消えない?』
「今の場所へ書く」
――トマ。朝、ユメ号。現在、外周修理船。
名簿から線を引いて消さない。
横へ、今を足す。
「二十七番、ネリサ」
返事の代わりに、赤子の泣き声がした。
船室の隅。
毛布の中で、若い母親が小さな命を抱えている。
二十四歳のネリサは生来の弱視で、文字より凹凸札を指で読む。片手が塞がる仕事に慣れ、足指で毛布の結び紐を引き寄せた。
出産直後の腰痛を隠し、「自分の番ではない」と点呼を先へ進めようとする。けれど子の存在が空欄へ落とされる恐怖へ触れると、呼吸数、出生時刻、飲んだ水の量まで質問されていない細部を一度に話した。
赤子は低体温で呼吸が浅い。五打の四つ目に左手の指を一度開き、右足で毛布の同じ角を蹴る。泣き止んだことを理解や同意へ読み替えず、ナギは皮膚色と握り方を別々に記した。
「ネリサは私」
母親が手を上げた。
「この子は、朝のあと」
「増えた!」
カナタが駆け寄る。
「名前は!」
「まだ」
「じゃあカナ――」
「勝手につけない!」
ルゥの工具が飛ぶ。
白旗で受ける。
「空白旗!」
「それも名前じゃない!」
ナギは名簿の四十二の下へ、新しい欄を作った。
――出生、一。
――名、未定。
――母ネリサと同室。
ネリサは、名の空欄を指で一度なぞった。空白を嫌っているのではない。疲労と恐怖の最中に、子の名前まで制度へ急かされたくなかった。
「休んでから決める」
その返事も、名簿へ小さく残された。
「四十三人?」
リラが訊く。
「船内は四十二」
「名簿も四十二」
「トマが外。赤ちゃんが今いる」
「数字は同じ!」
カナタが胸を張る。
「最初から合ってた!」
「中身が違う!」
「数字は正しい!」
「今を知らない正しさ」とザンバ。
「少し黙れ」
「俺に?」
「主にお前へ」
「聞こえた!」
ルゥは炉室から顔を出した。
「点呼、終わった?」
「今、四十二」
「朝の名簿は?」
「四十二」
「同じ?」
「違う」
「なら、つなぐ熱も今の四十二へ分ける」
第一歩号の星熱炉から、銀糸がユメ号へ伸びる。
船全体へ一度に流さない。
赤子のいる寝台区。
声を失った老人の周囲。
炉を保つ機関室。
必要な場所へ、必要な量だけ。
「《継ぎ路》――分熱接続!」
銀糸が淡く光る。
冷えた壁へ温かさが戻った。
少年の指が少し動く。
赤子の泣き声が弱くなり、眠りへ近づく。
その瞬間。
人工星の白い光が船室へ差し込んだ。
眠りかけた赤子の目が開く。
また泣き出す。
「寝かせて!」
母親が叫ぶ。
「寝台船なのに、眠れないなんて!」
船外で、灯索が張った。
ユメ号の船体が前へ引かれる。
第一歩号も銀糸ごと引かれる。
「人工星が二隻を拾った!」
ルゥが操舵輪へ走る。
「戻れる?」
カナタが訊く。
「戻るんじゃない! 引きずられる!」
反対側。
夜海が黒く盛り上がった。
星喰いネブラの影潮。
人工星は前へ引き。
ネブラは光の重さごと横へ吸う。
二隻の船が、違う二つの行き先へ裂かれ始めた。
ナギは現標板へ、最後の一行を書く。
――ユメ号、現在四十二。
――第一歩号、五。
「五?」
カナタが見る。
「俺たち四人だぞ」
「船」
「第一歩号も!」
「今の足場」
「仲間だ!」
船腹が大きく軋んだ。
五つの現在地が、四十二人の船へつながった。
星のない夜海では、止まる場所を指せなかった。
「第一歩号の下!」
カナタが白旗を突く。
一歩分の光板が船底へ生まれる。
第一歩号を支える。
けれど、光板も人工星へ引かれた。
船と一緒に前へ流れる。
「止まらない!」
「船を目印にしたから!」
ルゥが操舵輪を切る。
「じゃあユメ号の下!」
「同じ!」
「二隻の間!」
光板が生まれる。
今度は銀糸の真ん中。
人工星とネブラの引力に挟まれ、板が縦へ細くなる。
「間まで動く!」
「夜海全部が動いてる!」
「動かないものは!」
「ない!」
第一歩号の《可変重継舵》が、影潮を受けて回る。
右の鍋蓋は人工星へ。
左の鍋蓋はネブラへ。
二枚が反対方向を向き、船首を引き裂こうとする。
「第四翼が迷ってる!」
「舵に心を持たせないで!」
「決めろ!」
「誰に言ってるの!」
「鍋蓋!」
「道具!」
ザンバは船尾へ灰旗を突き立てた。
「《岐点》」
黒い点が、人工星へ伸びる金線へ入る。
一つは船団。
一つはユメ号。
一つは第一歩号。
三本へ分かれる。
しかし、白い星が脈打つたび、分かれた線が一つへ戻った。
「選べない!」
「全員の標力が、同じ前へ使われている」